第5章ー8
1942年の晩秋に至って連合国の地上軍は、ロシア(ソ連)の冬を警戒して、来春までは守勢を取る方針となったが、連合国の空軍、航空隊は、ソ連に対する戦略爆撃の手を緩めようとはしなかった。
そのために、1942年の晩秋から1943年の春に掛けては、ソ連が未だに確保している土地に対して、連合国各国の空軍、陸軍航空隊によって、様々な戦略爆撃が試みられることになった。
ここで、これに対処するソ連空軍にとって、頭を痛めることになったのは、戦略爆撃を行う連合国各国の空軍、陸軍航空隊ごとに得意とする戦略爆撃が異なっていたことである。
連合国各国の空軍、陸軍航空隊の中で、戦略爆撃を主に行ったのは、米英日の三国だったが。
最大規模の米陸軍航空隊は、昼間、工場群等に対する戦略爆撃を好んだ。
次に規模が大きい英空軍は、夜間、工場群等に対する戦略爆撃を好んだ。
日本空軍は最小規模だったが、99式戦闘機や「疾風」といった長距離戦闘機の援護の下、鉄道網等の輸送路に対する戦略爆撃を好んだ。
このように好む戦略爆撃の方法が異なる、というのは、戦力分散、各個撃破の好餌になる、という批判が巻き起こるのも事実だが、実際問題として、対処する方も、これらすべてに対処せざるを得ない、ということでもあり、対処する方も戦力をある程度は分散せざるを得ない、というのも、また、事実なのだ。
更にソ連空軍にとって厄介だったのは、この頃になると連合国各国の空軍が戦略爆撃を行う際に援護戦闘機が付くのが、当たり前の話になっていたことだった。
日本空軍の場合、それこそ開戦当初の頃から、99式戦闘機という存在があったが、米陸軍航空隊や英空軍の場合、そのような戦闘機は無かった。
そのため、第二次世界大戦勃発当初の頃は、長距離での戦略爆撃に際しては、最初と最後は戦闘機の援護があるものの、目標到達時には重爆撃機隊のみで米英は戦わざるを得なかった。
しかし、米英も航続距離の長い戦闘機の開発に努めた結果。
1942年になると、米陸軍航空隊にはP-38戦闘機が導入され、英空軍にはモスキートという万能双発機を導入したことから、ソ連欧州本土への戦略爆撃に際しては、目標到達まで戦闘機の援護があるのが、連合国各国の戦略爆撃に際しては当たり前になったのだ。
このことは、ソ連空軍上層部に衝撃を与えた。
それこそ、モスクワ上空を日米英の重爆撃機のみならず、戦闘機までが飛ぶのが当たり前になったのだ。
更にモスクワを始めとするソ連各地の市民に与えた衝撃も大きかった。
第二次世界大戦終結後、モスクワを始めとする旧ソ連の市民に対して、この世界大戦がソ連の敗北に終わると最初に思ったのはいつですか、という問いに対して、最も多かった答えが、
「モスクワ上空を連合国軍の戦闘機が飛ぶようになった、と聞いた時」
という答えだった。
それまでに、レニングラード(サンクトペテルブルク)やキエフ等が、連合国軍の占領下に置かれたといっても、それこそナポレオンのロシア遠征が最終的には失敗したように、(ソ連政府の宣伝の効果もあるが)何れはソ連軍の反攻が成功する、と多くのソ連各地の市民は信じていた。
だが、モスクワ上空を連合国軍の戦闘機が飛ぶようになり、それをソ連空軍が排除できないということは、流石に、もうソ連もおしまいなのではないか、とソ連の市民の多くが考えるようになった。
更にこういった市民の考えを後押しするように、イランやトルコ等からは、ソ連国内にいる民族主義者等の反政府勢力に対し、武器を始めとする様々な支援が行われた。
こうしたことが、ソ連にとって安全な後背地の筈だった中央アジアの不安定化を招いたのだ。
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