第4章ー22
スターリングラードの陥落は、連合国軍の南方軍集団にしてみれば、完全に対ソ戦の峠を越えたことを結果的にだが意味し、更に対ソ戦の終了を間近に告げるものとなった。
それ以前から、いわゆるヴォルガ河の水運等は、連合国軍航空部隊の空からの猛攻の前に、途絶状態に陥りつつあった。
第5章で主に述べるが、そのためにウラル山脈以東に疎開しているソ連の工場群を動かすための燃料に事欠く有様となり、また、モスクワ防衛に当たる戦車や自動車の部隊も徐々に動かなくなる有様だったのだ。
(皮肉なことに、スターリングラード防衛等に当たっている部隊、バクー油田に近い部隊の方が、相対的に燃料横流しで、まだしも燃料を確保できていたくらいだった。
リディア・リトヴァク中尉は、それによって末期まで空で戦えた、と言える)
そして、こうした戦況の悪化を、実際に戦う兵士達は、肌身で痛切に感じるものである。
そうしたことから、1943年の8月以降、連合国軍の南方軍集団の戦域では、ソ連軍の兵士の間では、厭戦気分が蔓延し、積極的に銃を取る兵士は減る一方となった。
(また、南方軍集団が対峙する戦域においては、いわゆるロシア人以外の民族、また、東方正教徒以外の宗教の信徒が多かったのも、こういった事態を招来した。
こういった異民族、異教徒にしてみれば、ソ連の崩壊は、自らの属する民族国家、自らの信ずる宗教国家の樹立の好機に他ならなかった)
そのために。
ルーマニア軍の戦意が、そもそも欠けていたことや、火力不足から、セヴァストポリ要塞は、ルーマニア軍の攻撃をよく凌ぐことに成功し、第二次世界大戦が終結するまで、終に陥落することなく、孤立無援のままにも関わらず、戦い抜くことに成功したが。
トルコ軍の直接、間接的な支援もあり、イタリア軍は、アゼルバイジャンの民族主義者、イスラム原理主義者の協力も得て、バクー油田地帯の制圧を、1943年9月末に果たすことに成功する。
また、スターリングラード陥落に伴い、勢いに乗ったフランス軍とスペイン青軍団の将兵は、アストラハンを9月末に占領することに成功する。
なお、これと相前後して、フランス軍は、サラトフも占領下においていた。
これらの戦果は、連合国軍の南方軍集団に所属する戦略爆撃機群どころか、戦闘爆撃機群の脅威に、カスピ海沿岸の地域全てが、更にウラル河流域までもが晒される事態になったと言えるものだった。
しかも、バクー油田を完全に失陥した今、ソ連空軍は完全に燃料不足に喘ぎ、ソ連の産業は崩壊の危機に完全に瀕している、といえる惨状なのだ。
ここに、連合国軍の対ソ戦における勝利は、時間の問題となったと言える。
こういった戦況を受けて。
「カスピ海で、我々が水浴びする事態が起きようとは」
スペイン青軍団の将兵は、そう言って、10月初めにカスピ海の岸辺で、交替で合間を見つけては、遊ぶ事態が多発していた。
実際、彼らの多くにしてみれば、何とも感慨深い事態が起きているとしか、言いようが無かった。
ある意味、欧州の西端ともいえるイベリア半島から、東端といえるカスピ海までの遠征を、自分達は成功裏に果たすことが出来たのだ。
それを実感するために、カスピ海の岸辺に、スペイン青軍団の将兵は赴いて遊んでいた。
なお、フランス軍の一部の将兵も同様の行動を取っていた。
まさか、自分達がここまでの遠征を成功させることができるとは、本当に夢としか思えない、そう感慨にふけって、それを実感しようとカスピ海の岸辺に赴く将兵が多かったのだ。
ナポレオン皇帝陛下でさえ果たせなかった、モスクワより東の地を自分達は踏みしめている。
それを実感するだけでも彼らは満足だった。
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