第4章ー15
そんな戦いが空で行われていた頃、スペイン青軍団は、予定通りといえる行動を果たし、アストラハン近郊までの進撃を果たした後、一度、スターリングラードへ向かっている状況にあった。
7月初めに南方軍集団の主な幹部が集って行われたスターリングラード攻略に関する会議の後、アラン・ダヴー少佐の作戦原案に具体的な肉付けが、急きょ行われた上で、スターリングラード攻略に関する作戦が、ド=ゴール将軍によって、連合国軍最高司令部の承認を得た上で、7月7日に発令された。
最も根回し等は、7月5日から始まっており、当時、黒海での作戦展開を警戒させるために、アレクサンドリアやマルタで、髀肉の嘆を託っていた日米の機動部隊に対して、速やかにスターリングラード近郊に艦上機を陸揚げして、スターリングラード攻略作戦に協力してほしい等の要請が、内々に行われている。
(なお、小沢治三郎中将も、ハルゼー提督も、この要請に喜んで応じた。
二人共、少しでも戦い、戦果を挙げることを心から望んでいたからだった。
そのために7月7日に発令された時点で、既にアレクサンドリア等から、日米の機動部隊は黒海に向けて出航する準備が整っていた程だった)
この作戦の中で、スペイン青軍団に命ぜられていたのが、アストラハン方面への進撃の素振りだった。
これは、ダヴー少佐が歴史上で行われた二つの行動を組み合わせることから思いついたものだった。
まず、一つ目が英仏百年戦争において、英軍が多用した騎行戦術だった。
英軍が行った騎行戦術は、必然的に仏軍に対応を強いる戦術と言えた。
何故か、というと。
「英の支配を認めるのか否か。認めないのなら、容赦なく掠奪を行う」
「認めますので、掠奪は勘弁を」
こんな感じで、仏国内を英軍が移動して、英の支配を英軍が移動した土地の住民が認めれば、掠奪しない一方で、認めなければ、容赦のない掠奪にその土地がさらされるというのが騎行戦術のやり口なのだ。
(勿論、認めるならば、という形で、ある程度の物資の提供を求めていたのも事実だが)
これに対して、ゲクラン程の軍人ならば、
「そんなあからさまな英軍の挑発に乗れるものか」
と鼻で嗤えるだろうが。
普通の軍人の多くが、とても耐えられないような事態ではないだろうか。
このような事情から、英仏百年戦争においては、仏軍から英軍に決戦を挑む事態が多発した。
もう一つの事例が、ダヴー少佐が、日本の戦史を調べた際に知った三方ヶ原の戦いだった。
三方ヶ原の戦いにおいて、(厳密に言えば、そこまで本当に意図していたのか、疑義を呈する主張もあるのだが)武田信玄は、浜松城近くまで進軍した後、徳川家康が籠城する浜松城を無視して、三河に向かうかのような行軍を行った。
これに対して、徳川家康は、このままでは本国である三河が危ない、として、浜松城から出撃することとなり、三方ヶ原の戦いが引き起こされ、武田信玄の前に、徳川家康が惨敗するという結果となった。
すなわち、これらの戦例を参考にして、敢えてスターリングラードに籠城するソ連第62軍を看視するに止めておき、ヴォルガ河の水運に対する激しい攻撃を加えたり、アストラハン方面への進撃を行ったりすることで、第62軍から出撃を余儀なくさせ、それにより、第62軍に対する打撃を与えよう、というのがダヴー少佐の立案した基本的な作戦だった。
そして、第62軍はこういった状況に耐えかねることになった。
確かにスターリングラードに籠る限り、連合国軍の攻撃は無い。
しかし、ヴォルガ河の水運どころか、ヴォルガ河を経由してのスターリングラード自体に対する補給が途絶しつつあり、時間が経つ程、弱体化してしまう。
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