第3章ー14
この世界のインド情勢に関する話になります
第二次世界大戦の中国本土の戦闘は、かくして1943年秋に、ほぼ終結することになり、蒋介石政権を始めとする(いわゆる)中国本土の各勢力は、自国、自勢力の拡大に努めることになった。
そして、中国本土の戦闘が、ほぼ終結したことにより、アジア全体も基本的に平和になった。
そう想われる方が多いとは思う。
しかし、実際には、そんなことは無く、むしろ陰でアジアの戦闘は深刻化したのだ。
中でも、特にインド情勢は、ガンディーらが暗殺されて以降、治安等は悪化する一方だった。
そして、それを悪化させる要因の最大の一つになったのが、スバス・チャンドラ・ボースのインド内部への帰還ということになる。
実際問題として、彼が本当にインド内部に戻ってきたのが、何時なのかについては、21世紀になっても歴史家等の間では議論が絶えない話ではあるのだが、取りあえず、土方勇志伯爵ら、日本国政府の要人の間で信用のおける情報として最初に入ってきたのが、何時なのか、というと。
「その情報は、いわゆる確度の高い、信用のおける情報なのですか」
「ええ、インドにいる知人が、敢えて隠語まで使って伝えてきた情報です。つまり、それだけ漏れると危険性が高く、裏返せば信用のおける情報と言うことです」
「その情報は、どこまで明かせばよいですか。勿論、発信下はできる限り伏せます」
「あなたが信用できる範囲なら、全て明かしても構いません。それだけ、この情報の危険性は高いのです。何しろ、インド内部にいた国民会議派のいわゆる大幹部は、ヒンドゥー教徒と、主にイスラム教徒を中心とする反ヒンドゥー教徒との間の暗殺合戦により、マハトマ・ガンディーを始めとして多くが亡くなっています。いわゆる中心が失われた状況に、国民会議派はあるのです。そこに彼が現れて、国民会議派を牛耳ろうとしたら、多くの国民会議派の支持者が、彼の扇動に応じるでしょう」
1943年4月初め、インドの知人からの急報に驚いたラース・ビハーリー・ボースは、今や完全に友人となっている土方千恵子に対して、長広舌を振るって、警告を発する羽目になっていた。
土方千恵子の背中にも、寒気が奔らざるを得なかった。
スバス・チャンドラ・ボースのインド国内への帰還は、それこそロシア革命勃発前のレーニンのロシア国内への帰還と同じとまではいわないが、似たような効果を発する恐れがある。
ラース・ビハーリー・ボースの言う通りだ。
これは、義祖父の土方勇志伯爵を始めとして、明かせる限りの情報源に伝えねば。
千恵子の行動により、米内光政首相を始めとする日本政府の枢要部に、スバス・チャンドラ・ボースのインド国内への帰還という情報は、速やかに広められたが、その後の行動に、日本政府は困惑せざるを得ない有様となった。
何しろ、打つ手が余りにも限られるというのが、現実だったのだ。
日本が、インド国内の治安維持のために軍隊等を派遣して、スバス・チャンドラ・ボースの拘束等を行うことで、インド情勢の回復を図るということは、第二次世界大戦の真っ最中である以上、不可能な話と言っても過言では無かった。
取りあえず、英(本国)政府に対して、日本政府が把握している情報を裏から流すことで、スバス・チャンドラ・ボースの行動の抑制等を、日本政府は図らざるを得なかったが、それによる効果は、限定的なものに止まらざるを得なかった。
スバス・チャンドラ・ボースは慎重に行動し、インド内部に潜伏して、自らの理想とするインド全体がまとまっての独立という目標推進のために奮闘したことから、彼の行動が公然化したのは第二次世界大戦終結後になる。
だが、この頃でも彼の行動は脅威だったのだ。
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