第3章ー13
この世界の第二次世界大戦終結後の中国情勢説明も含めた話になります。
なお、この世界のモンゴルは、史実のモンゴル領だけではなく、内蒙古自治区も自らの領土にして、第二次世界大戦後に分離独立しています。
かくして、1943年の秋に共産中国政府は消滅し、蒋介石政権による中国本土統一は果たされたが、中国本土の人口は、様々な要因により激減していた。
中国本土における共産中国政府による暴政、また、日米を中心とする連合国軍の侵攻作戦とそれに対する共産中国軍と住民が一体となって行った抵抗戦、更にそれに対処するために主に米軍によって行われた住民の強制移住による多大な犠牲者の発生等々。
そして、日米両国を中心とする連合国軍の航空隊が行った戦略爆撃も、多大な犠牲を中国の人民に対して与えることになっていた。
連合国軍の戦略爆撃により、中国本土、特に奥地に至る程、ほとんど、いや全ての都市は空襲により瓦礫の山と化し、鉄道等の輸送網は完全と言って良い程、破壊されつくした。
都市や輸送網が破壊しつくされた、と判断されれば、今度は農業等のために必要不可欠な灌漑施設等まで、連合国軍の戦略爆撃の刃は向けられた。
更に、蒋介石政権にとって、後々になって深刻な打撃になったのは、チベット、ウイグル、モンゴルの分離独立の動きだった。
既に1943年秋の時点で、名目上は蒋介石政権の統治下に、チベット、ウイグル、モンゴルはあったが、実際に蒋介石政権の統治が及んでいるのか、というと及んでいない、というしかない有様だったのだ。
また、チベットは、ネパールやブータン等を介して、中国本土どころか、インドにまでそれなりの影響を及ぼそうと試みた。
(もっとも、これはチベット側の観点からすれば、自衛の側面も否定できなかった。
インド全体の混乱は、次話で述べるが、深刻化する一方としか、言いようが無いものであり、その混乱はネパールやブータンに及ぼうとしていた。
それを早期に抑えるために、チベットはインド情勢に影響を与えようとするしかなかったのだ)
そして、ウイグルは中央アジア方面に、モンゴルもシベリアや旧極東ソ連領に影響を与えようとした。
こういった動きに、蒋介石は激怒し、モンゴル、ウイグル、チベットの中国本土への再統合を図ろうとしたが、上述の事情から、中国本土自体が、それどころではない有様だったので、中国本土の再建を、まずは最優先にせざるを得なかった。
それに、蒋介石政権の最大の後援国の筈の日米も国家百年の大計と言う観点から、モンゴル、ウイグル、チベットの分離独立を、(表立っては言わなかったが、暗黙裡に)支持したのだ。
この1943年秋の時点で、どれだけの人口がそれぞれの国、又は地域にいたのか、直接の統計は遺されておらず(そもそも精確な調査自体が不可能だったが)、直近のものでも1940年代末の資料になるが。
蒋介石政権が統治している中国本土の人口は、モンゴル、ウイグル、チベットの分離独立(更にそう言った地域で保護された中国本土の民衆もいた)により、1億人にも満たない有様になっていた。
一方、モンゴル、ウイグル、チベットは、それぞれ約1000万人の人口を持つようになっていた。
更に、韓国の人口が約2000万人、(1943年の時点では独立していない存在ではあるが)台湾の人口が約1000万人の人口を持っている。
こうした状況では、蒋介石政権は中国本土の再開発、人口増大を優先して考えざるを得なかった。
何しろ、モンゴル、ウイグル、チベット、韓国(それに加え台湾)は、反中という一点共闘で、基本的に一致結束している。
更に日米という、モンゴル、ウイグル、チベット、韓国等に好意的中立を保つ大国があるのだ。
そんな状況では国力において、蒋介石政権が、反中(蒋介石)勢力に対しては、圧倒的優位にあるとは言えない以上は、まずは国内の国力涵養に奔るしかなかったのだ。
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