第3章ー9
こんな感じで、日本軍の進軍は遅々としたものとなったが、米軍の進軍は表面上は快調なものとなった。
だが、それはある意味、住民の窮状を完全に無視したことによるものだった。
米軍は、ひたすら甘粛省や青海省、四川省の制圧を目指し、まず、共産中国政府の崩壊を図った。
そのために米軍の進軍途上にある集落の住民は、米軍の占領下に置かれたままで放置された。
それにより、集落の住民の飢餓等の苦難は、全く改善されなかったのだ。
米軍に対して、食糧等の提供を一部の住民は求めたが、共産中国政府の統治を受け入れていた住民の自己責任論等を理由として、米軍は食料等の支援をほぼ拒んだ。
そして、当時、四川省の成都を首都としていた共産中国政府は、米軍と日本軍を中心とする連合国軍の攻勢に対して、最早、基本的に首都を死守するしかないというのが現状だった。
何しろ更に奥地に逃げ込んで、米軍や日本軍の攻勢に対処しようにも、その奥地に当たるチベットやウイグルといった地方は、完全に地元の民族勢力が樹立した地方政府の統治下にあるといってよく、特にチベットに至っては、インドや中央アジア方面を介して入手した武器等により武装して、20万人とも号する武装兵を擁するようになっていた。
それにより、逆に共産中国政府に対して、本格的なゲリラ戦、不正規戦を挑むようになっていたのだ。
(なお、このチベットの武装化に際しては、いわゆるグルカ兵が協力した、という噂が根強い。
後述するが、この当時、インド情勢が混迷化する一方となっており、いわゆる英印軍はグルカ兵の雇用について、慎重な態度を執るようになっていた。
その一方で、チベットとしては、熟練した兵士を、対共産中国政府との戦争のために必要としていた。
こういった供給と需要の関係から、それなりの数のグルカ兵が、いわゆる傭兵としてチベット政府に雇われて、対共産中国政府との戦いに身を投じた、と言われるのだ。
実際問題として、英印軍にしてみれば、共産中国政府は所詮は敵であり、英印軍の事情から、グルカ兵の雇用が減って、グルカ兵が不穏化し、インドの更なる治安の悪化を招く危険を考えれば、チベット政府がグルカ兵を傭兵として雇うのは、むしろ好都合と言う側面があったのは、否定できない。
そう言った裏事情を考えれば、この噂はかなり真実が含まれているものと思われる)
なお、チベット政府は、いわゆる辛亥革命等の後、それなりの自治体制を築き上げており、更に共産中国政府が事実上成立した後は、共産中国政府を敵視する英領インドからの有形無形の援助もあって、住民の生活が安定していたという側面も大きかった。
共産中国政府としては、中華民族主義の建前からも、チベット侵攻を目論んでいたが、満州事変の勃発等により、満州国(及びその背後にいる日米韓)との対決を優先せざるを得ず、チベット問題については事実上は放置し続けざるを得なかったのだ。
こうしたことが、今になって、共産中国政府に祟っていた。
話がずれすぎたので、米軍の侵攻路の途上にある住民の運命を述べれば、米軍の侵攻を遅らせ、更に首都成都防衛のための防衛軍の兵糧確保のために、共産中国政府が徹底的な焦土戦術を採用したためもあり、住民の困窮は言語を絶し、死者が続出する事態となった。
第二次世界大戦終結後、西安から成都に陸路で赴いたある米兵の回想によれば、西安から成都に至るまで全く無人地帯と化しており、住民には誰一人、自分達は会わなかったという。
これに対して、その米兵を住民が怖れたため、という反論もあるが、そんなことが本当にあってもおかしくない程の人口の激減がもたらされたのは間違いないようだ。
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