第2章ー23
それは、自由ドイツ政府とフランス政府の奇妙な思惑の一致が招いた事態だった。
まず、この1941年の秋以降、1943年の初頭の現在に至るこの時期において、ドイツ本土を統治していた自由ドイツ政府(もっとも事実上は連合国の占領、間接統治下にドイツ本土はある、といっても全く過言では無かった)は、ポーランドやチェコ等の東欧諸国から、事実上追放されてドイツに送り込まれてきたドイツ系民族の処遇に頭を痛めていた。
彼らは、家もまともにない大量の失業者として、ドイツ本土に半ば招かれざる客として存在していたのだ。
かと言って、彼らを更にドイツ以外に追放すること等、自由ドイツ政府としては思いも寄らない。
彼らはドイツ人であるという理由から、異民族迫害の果てに、故郷から追放のやむなきに至ったのであり、ドイツ以外の土地で、彼らを温かく受け入れてくれる、と見込める土地は無い、と言って良かった。
また、同じドイツ人であるとして、同胞愛の視点からも、彼らを自由ドイツ政府は受け入れるしかなかったのだ。
とは言え、単に受け入れるだけでは、社会不安のタネになるだけである。
自由ドイツ政府は、彼らの職、食べられる仕事を提供せねばならなかった。
一方、フランス政府も頭を痛めていた。
第二次世界大戦勃発以前から、フランス政府は、本国における出生率低下に悩んでおり、必然的にフランス軍兵士の充分な数を確保することが困難になっていた。
更に、ドイツ本土で失業者が溢れかえっており、未だに第二次世界大戦が続いている、という現実がある。
こういった事態を放置することは、フランス本土にまで、社会不安を引き起こしかねない危険があった。
こうしたことから、ドイツの産業を動かすことに、現実的観点から、フランス政府は協力したのだが、それだけで不安が解消される程、ドイツ国内の多くの失業者の群れが減ることは無かった。
こうした時に、人間が頼るのは古くからの職業なのは、古今変わることは無い。
若いドイツ人の男性達の間では、半ば現代の傭兵といえる、連合国軍の後方支援部隊募集に応募する例が出るようになった。
それを見た自由ドイツ政府は、更に考え、自由ドイツ政府が介在することで、彼らが安心して働けるようにしようと考えたのだ。
更にこれを知ったフランス政府は、自由ドイツ政府と手を組み、フランス外人部隊へのドイツ人志願兵を募ったという次第だった。
自由ドイツ政府にしてみれば、失業している若い男性の就職先が確保できる。
フランス政府にしてみれば、後方警備等に充てられる兵士が確保できる。
両国政府にしてみれば美味しい話だった。
だが、裏を返せば。
この件を批判的な視点から研究した歴史家の本の一節において、
「ヘッセン=カッセル方伯が、米国独立戦争に際して、英国に傭兵を輸出することで儲けたように、自由ドイツ政府は、第二次世界大戦末期に際して、フランスに傭兵を輸出することで儲けた」
と書かれた事実なのは間違いなかった。
それでも、ヘッセン=カッセル方伯が、その儲けを自分の豪奢な暮らしに費やしたのに比べれば、自由ドイツ政府は、ドイツ復興のためにその儲けを費やしたのだ。
最終的に自由ドイツ政府は、フランス以外の連合国にも後方支援部隊の要員として、ドイツ人の就職を斡旋するようになり、少ない推計でも10万人以上、多い推計では30万人近いドイツ人が、自由ドイツ政府の斡旋により、連合国の軍旗の下で戦ったとされる。
そうしたドイツ人の中で名を挙げたのが、フランス第2外人部隊師団ということになる。
ハリコフ救援作戦で、フランス第2外人部隊師団は「20世紀のランツクネヒト」と呼ばれることになるのだ。
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