第2章ー17
ともかく、そういった現場を知っていたイタリア軍は、ソ連軍の猛攻を受けた際に、直ちに空軍による地上支援で主に対処しようとしたのだが。
ウクライナの厳寒は、イタリア空軍の航空機にも容赦なく襲い掛かっていた。
この時、イタリア空軍の航空機の稼働率は、折角の新鋭機、MC205等の初期故障が完全に除去されていなかったことや、また、耐寒用の各種装備(航空水冷エンジンの不凍液すら不足しがちで、その質もよくなかったという)の質量双方の欠乏といったことから、半分以下にまで低下していた。
その情報を得たグラツィアーニ将軍は、決断を下した。
「兵を救うことを第一に考える。退却を許可する。兵さえ生き残れば、暖かくなってから、反撃ができる」
そう部下達に言い、友軍のフランス軍にも、その旨を伝えた。
実際、現場のイタリア空軍が、まともな稼働状態に無い以上、グラツィアーニ将軍の判断は妥当極まりないものだった。
しかし、ここで行き違いが生じた。
ソ連軍の猛攻は、主にイタリア軍に向けられており、フランス軍、特にハリコフ周辺の部隊には、牽制程度のソ連軍の攻撃が行われるだけで、イタリア軍の戦線とは比較にならない程、静かなものだった。
そして、従前からの(主に歴史的)経緯から、フランス軍の幹部は、イタリア軍に偏見を持っていた。
そのために。
「イタリア軍は、ソ連軍の攻撃に怯えすぎだ」
「そんな規模の攻撃が加えられたとは。イタリア軍の兵士は、ソ連軍の兵士や戦車等が、二重に見えて、怯え切っているのではないか」
という声が、フランス軍内で挙がり、ハリコフからの速やかな撤退という決断に至らなかったのである。
(なお、この点について、当時の現場の軍人から、21世紀の現代の歴史家に至るまで、このイタリア軍、フランス軍の判断について、甲論乙駁の議論がなされてはいるが。
ポーランド軍のレヴィンスキー将軍の、
「自分が、この時にイタリア軍、フランス軍の指揮を現場で執っていたら、全面的にグラツィアーニ将軍の判断に同意して、自分はハリコフを放棄していただろう」
という主張が妥当なのではないだろうか。
実際、この後のハリコフ攻防戦は、連合国軍に地獄の惨状を見せたのだから)
そして、1月12日からのソ連軍の南方軍集団への大攻勢は、1月16日には、フランス軍が占領しているハリコフが全面的に孤立された状況の下、ソ連軍の重囲下に置かれるという事態を招いていたのである。
更に、その中には、世が世であれば、フランス国王陛下とフランス皇帝陛下のお二方がおられる。
秘密を知っているフランス軍、政府の最上層部は慌てふためくことになった。
既に王政、帝政時代を実際に知る者は、時の流れの中で、ほとんど天国に旅立っていたとはいえ、そうは言っても、いわゆる右翼支持者の間において、このお二方の声望は決して軽視できるものでは無かった。
そのためには、何としてもハリコフ救援作戦を成功させ、お二方を救い、ソ連軍の反攻を挫かねば。
ペタン首相自ら、日米両国の政府、軍に秘密裡に事情を説明して、ハリコフ救援作戦への協力を依頼する事態になった。
また、当時、南方軍集団総司令官に就任していたフランス軍のジロー将軍は、集められる限りのフランス軍をハリコフ救援に差し向けると共に。
「スペイン青師団のハリコフ救援作戦への協力を要請する」
「要請を受諾し、最大限の協力をしましょう。我が国とフランスの王家は、ご身内同士ですから」
スペイン青師団司令官であるグランデス将軍と、そんなやり取りをする羽目になった。
そして。
「アラン・ハポン少佐、ハリコフ救援の先鋒部隊の指揮を執れ」
「はっ」
グランデス将軍は、命令を下した。
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