第2章ー16
実際問題として、このような苦境に1943年1月16日時点において、フランス第6軍が立たされていたのは、側面を護っていたイタリア軍の醜態に主な責任がある、と確かに言えたが。
それなら、我々はどうすれば良かったのだ、という反論が、イタリア軍の現地総司令官と言えるグラツィアーニ将軍ら、イタリア軍上層部からなされるのは間違いない話だった。
この1942年末から1943年初頭にかけての時期、イタリア軍の戦車は、相変わらずいわゆる列強各国の保有する戦車の中で、質的には最弱の評価が相変わらず付きまとってはいた。
だが、そもそもその原因が、味方の連合国である米英日仏からの技術協力、及び降伏前の独からなされた技術提供等があったとはいえ、イタリアが列強で最低の工業力という実情にあることから。
そうしたことから、ある意味、合理的と言えば合理的な考えの下に。
(更に言うなら、イタリアの国土が山がちな地勢から、重戦車整備が困難というのもあった。
日本も同様だろう、という反論が為されるだろうが、日本の場合、中國大陸(主に満州、シベリア)における対ソ戦を前提に戦車等の整備を進めており、日本本土に敵軍が上陸するという事態を想定して、戦車等の整備をしていなかった。
国鉄の改軌、主要国道を整備することで、日本本土の主要路で戦車等の輸送ができればよい、と日本軍は割り切っていたのだ)
イタリアは航空戦力最優先主義で、兵器等の開発、増産に努めることになった。
そうしたことから、1943年1月時点で、MC205,Re2005,G55といった質的には世界でも充分に第一線で渡り合える戦闘(爆撃)機の開発、量産化に成功していた。
(具体的な生産数については、米英とは比較にならない、言わぬが花のやや哀しい現実があったが)
その代償として。
「こんな戦車で戦えるか」
イタリア戦車兵は不満を爆発させながら、ウクライナの大地で戦う羽目になった。
何しろソ連軍の主力戦車が、76ミリでそれなりの長砲身のT34なのに対して、イタリア軍の主力戦車、M14/41の搭載しているのは47ミリ砲である。
更に装甲の差等もあるのだ。
直接対決したら、イタリア戦車に勝ち目がないとは言わないが、悪戦苦闘は当然の話だった。
勿論、イタリア軍上層部も、現場(戦車兵)の不満を把握していない訳ではない。
「ソ連軍の戦車等に対しては、空からの攻撃で対処する」
と現場には説明し、実際、イタリア空軍は懸命に地上支援任務を行い、それでイタリア軍は、対ソ戦において進撃を果たしてきた。
また、少数とはいえ、P40重戦車やセモヴェンテ砲戦車(自走砲)を生産、前線配備している。
とは言え、対ソ戦に投入された戦車の8割以上がM14/41やM13/40とあっては、戦車兵の不満が鎮まる訳が無かったのだ。
(なお、さすがに対独戦の際に役に立たなかったとして、豆戦車や軽戦車は、対ソ戦に際してはイタリア軍の第一線から完全に退いており、後方警備任務等に回されていた)
だが、この冬季反攻時、イタリア軍は不運だった。
それこそ、不十分なイタリアの工業基盤は、イタリア軍にまともな冬季装備を完全に整えさせるのにも、苦労する有様だったのだ。
(更に、質的にも劣っており、友軍のスペイン青師団の将兵の冬季装備を、イタリア軍は羨む有様だった。
もっとも、約30個師団、約100万人を投入しているイタリアと、約3個師団、約10万人のスペイン青師団の規模の差からすれば、隣の芝生は青く見えただけ、とも言えた)
そのために、厳寒から生じる凍傷等を負う傷病兵が、イタリア軍には続出していた。
そこにソ連軍が精鋭を集めて、猛攻を浴びせたのだ。
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