第2章ー3
こうして、石原莞爾提督は動き出して、他の軍の将軍達にも、ある意味、石原提督らしく、本来のラインからのみならず、斜めのラインからも、ソ連軍の反攻の動きに対する警戒の働きかけを始めたのだが。
この動きは、多数の将軍、提督から、逆に反感を買った。
物事を動かすのなら、きちんとした正規の本来のラインからのみでやれ、というのだ。
(実際、石原提督の直属の上官である北白川宮成久王提督も、石原提督のこの動きについては、相当ではないとして、たしなめるというよりも、叱りつけている)
とは言え、石原提督には、石原提督なりの理屈があった。
却って反感を買うようなやり方をした方が、今回のような急を要しかねない場合には、周囲からの注目を受けて、それなりに周囲を動かせるというのだ。
横紙破りで知られた石原提督ならではの主張と言える。
実際、二人の将軍が、石原提督の行動に理解を示した。
日本陸軍の山下奉文将軍と、米陸軍のパットン将軍の2人である。
2人共、智将というより猛将といったタイプであり、共に機甲部隊のエキスパートとして、周囲に知られた存在だった。
2人共、それぞれの幕僚、参謀を、その視点から情報を速やかに洗い直させた。
すると確かに先入観から、情報の選択が甘くなっていたことが判明し、2人共、ソ連軍の反攻開始の規模を大規模なものとして、対応を見直させた。
こういった3人の動きのために、ソ連軍の反攻の奇襲効果は減殺されることになったのだ。
とは言え、やや減殺された程度のものであり、北部戦線では多くの米軍部隊が奇襲を受けた。
ソ連軍の縦深戦術は、流石に本家本元といえるレベルのものだった。
この攻撃のために約100万人、損耗していたとはいえ約60個師団が、彼らのいう所のレニングラードを目指す大攻勢に投入されたのだ。
幅50キロに及び、奥行きも数十キロ単位に及ぶ面単位の制圧攻撃が試みられた。
この攻撃正面に晒されたのは、米第5軍だった。
米第5軍の所属部隊は、それなりに戦場の経験を踏んでいた筈だったが、このような制圧攻撃にさらされた経験は未だなかったのだ。
そのために。
「第106歩兵師団が、事実上降伏しました」
「何だと」
米軍史上でも余り例を見ない、1個師団がほぼ全て、敵軍の前に完全に壊滅状態となってしまい、生存者のほとんどがソ連軍に降伏するという事態が発生してしまった。
その第一報を受けた際、アイゼンハワー将軍は、思わず絶句してしまったという。
米第5軍は、10個師団から当時なっていたが、他の9個師団も軒並み大打撃を被ってしまい、約30万人からなっていた部隊の3割以上の約10万人が、攻撃初日の1月12日に戦死、または戦闘不能と判定される重傷を負ってしまった。
米第5軍は壊乱状態となり、ソ連軍は順調に攻撃を続けられるかのように見受けられた。
だが。
「急げ、急げ、味方を救うんだ」
パットン将軍率いる米第3軍は、「猛将の下、弱卒無し」を体現している存在だった。
米第5軍が壊乱した、という一報を受けた段階で、パットン将軍は、
「アイク、米第5軍を、俺が率いる米第3軍で救援させてもらうぜ。文句はないだろう」
「ああ。できるのならな」
「俺が救援させてもらう、と言ったら、できるということだ」
とアイゼンハワー将軍とやり取りをした末、ほぼ独断でソ連軍の攻撃阻止に動き出した。
そして、米第5軍を蹂躙して、レニングラードに向かおうとするソ連軍の前に、米第3軍の機甲部隊は立ち塞がった。
当然、ソ連軍も戦車部隊を繰り出して、米第3軍を突破しようとする。
ここに極寒の中、米ソの戦車部隊の大激突の機運は高まった。
ダイヤモンドダストが煌めく中の激突となったのだ。
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