エピローグー1
エピローグになります。
主な人物のそれぞれの第二次世界大戦後の想いです。
12月1日、インド洋上の春日丸の甲板上で、右近徳太郎大尉は、ぼんやりとして潮風に吹かれていた。
第二次世界大戦終結に伴い、日本、いや世界各国は大軍縮を発動している。
大軍縮と言えば、聞こえはいいが、実際問題としては、軍人の大量失業が発生するという事だった。
せめてもの慰めとして、ある程度は退役前の進級が認められ、右近は大尉に進級して退役することになってはいたが、そのことで心に空いた穴が埋まることは無かった。
「川本、頼まれたことは必ず果たす」
そう何度、呟いたことだろう。
でも、その度に空虚な想い、胸に空いた風穴に、また風が吹き込むような想いをしてしまう。
右近大尉は、水平線の彼方を見ながら、そう想った。
川本泰三中尉、いや少佐は、モスクワでの市街戦でソ連兵と銃撃をかわした末に戦死していた。
それを川本少佐(戦死に伴う特進であり、戦死前は中尉)の上官だった岸大尉に聞かされた右近大尉は、川本少佐から託された遺書を開いて読んだ。
「右近、これを読んでいる、ということは、俺は死んで、お前は生き延びた、ということだな。死んだ俺の代わりに頼みを果たしてくれ。あのワールドカップで、日本を優勝させてくれ。今となっては難しいかもしれない。それならば、日本代表、ここにあり、という伝説の勝利をいつか収めてくれ。お前ならできる」
本当は、それ以上、言葉を連ねたかったのかもしれない。
文の末尾、その後に塗りつぶされた文章が2行程あったからだ。
だが、川本少佐は、どうにも書けば書くほど、自分の内心の想いと文章がずれる感じがしたのか、その後を塗りつぶしていた。
その文章を、自分は何度、読み返した事だろうか。
「川本、お前は逃げたな、と笑ってくれ。いや、石川信吾監督以下、ベルリンオリンピック日本代表選手団の面々からも笑われるだろう。だが、自分の力では、日本代表をワールドカップ優勝に導くことは困難な話だ。だが、伝説の勝利なら、収めてみせられるかもしれない」
右近大尉はそう呟いて、せめて、そのことだけでも果たそうと努力し、その努力は10年余り後のワールドカップで報われることになる。
1954年のスイスワールドカップ。
この時のハンガリー代表は、「マジック・マジャール」と謳われ、優勝候補の大本命だった。
何しろ実際、5試合で27得点を挙げ、見事に優勝を果たした。
また、その4年前、1950年から連戦連勝、30連勝(32戦しており途中で2引分け)の記録を引っ提げて、スイスに乗り込んできたのだ。
だが、この時、日本代表監督となっていた右近監督の采配により、ハンガリーと日本の試合は。
「ありえない。ベルンの奇跡だ」
「日本代表は、かつての輝きを一瞬とはいえ取り戻した」
世界のサッカーファンは騒然となり、ハンガリー代表監督は、
「サタンの幻影を見た」
と初戦が終わった後の記者達の質問の冒頭で、呆然自失の表情で語る羽目になった。
この試合、諸説あるが、多数説において、30本も枠内シュートをハンガリー代表は放ったが、全て日本代表は跳ね返した。
一方、日本代表が放てた枠内シュートは僅か2本、だが、その1本がハンガリーのゴールを破ったのだ。
つまり、右近監督率いる日本代表は「マジック・マジャール」の連勝を阻止し、勝利を収めたのだ。
その代償として、満身創痍となった日本代表は、その後の予選で全敗し、スイスを去る一方、この屈辱を晴らそう、とハンガリー代表は奮戦して、残りの全ての試合を全勝し、優勝カップを勝ち取るのだが。
右近監督率いる日本代表は、スイスを去る際、ハンガリー代表を含む多くの各国代表選手、監督から敬意をもって見送られる、という栄誉に浴したのだ。
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