第5章ー23
そして、前線の将兵が苦闘する中、ソ連軍(及びソ連の市民)の懸命の抵抗を排除しながら、連合国軍は少しずつモスクワへ、と潮が満ちるように迫っていったというのが、モスクワへの最終攻勢の実態だったのだ。
なお、この攻撃方法は、主に英軍が提唱し、米軍の多数派等が支持した方法だった。
第二次世界大戦勃発以来、多数の損害を各国軍が被っている以上、少しでも損害を抑えるために、できる限り、全軍が協調して攻撃を加えることで、損害を抑えるべき、と英軍や米軍の多数派等は主張した。
だが、これに対しては、強い批判が、身内から浴びせられた。
「もうすぐ8月が来る。速やかな進撃を行わないと、また、ロシアの冬を経験することになりかねない。我々は、多少の損害を度外視してでも、各個にモスクワへの急進、攻撃を試みるべきだ」
そう、米第三軍司令官のパットン将軍や遣欧日本陸軍総司令官の山下奉文将軍らは主張していた。
そして、日本の遣欧総軍司令官である北白川宮成久王大将や、ポーランド軍総司令官であるレヴィンスキー将軍らも、パットン将軍の主張に基本的に味方した。
しかし。
連合国軍総司令官のアイゼンハワー将軍が、英軍や米軍の多数派に味方したために、モスクワへの最終攻勢を展開する連合国軍は、全軍が協調しての攻勢に拘らざるを得なかった。
勿論、アイゼンハワー将軍には、アイゼンハワー将軍なりの理屈があった。
確かに、急進、攻撃を行うという事は、時間の節約に確かになる。
だが、第二次世界大戦勃発以来、主要参戦各国は、それぞれ数百万人単位の犠牲者を出しているのだ。
それなのに、更に損害を出しかねないような攻撃を行っては、いわゆる主要参戦各国内の世論に、厭戦、非戦感情を大きく巻き起こし、悪い方向に転がると、ソ連を延命させるような中途半端な講和条約を連合国が締結する、という事態を巻き起こしかねない、とアイゼンハワー将軍は判断していたのだ。
この辺りは、後に米国大統領まで務めたアイゼンハワー将軍の政治的感覚から来た判断としか、言いようがない話だろう。
軍事と政治は不可分ではあるが、それぞれの方向から来る判断まで、完全に一致するとは限らない。
軍事的判断からすれば、モスクワへの急進が妥当だっただろうが、それによって多数の損害が出るというリスクを考えるならば、アイゼンハワー将軍の政治的感覚から来る判断も間違ってはいないのだ。
そのために、モスクワの市街地周辺に築かれた、いわゆる外郭陣地攻撃に連合国軍が、北、西、南の三方から本格的に攻撃を仕掛けるのは、ある意味では極めて遅れてしまった。
モスクワまで後100キロ余りにまで迫った後、モスクワの外郭陣地にたどり着くのに、連合国軍は1月近くも掛ける羽目になってしまったのだ。
(もっとも、これだけ連合国軍の攻勢に時間がかかってしまったことについては、最終的にモスクワ防衛総司令官になり、モスクワを最後まで護り抜こうとしたこの時のソ連軍の指揮官、ジューコフ将軍の手腕を、むしろ褒めるべきだ、という見解もある。
21世紀になっても、ロシア人の間で、ロシア史上最高の名将として、ジューコフは、スヴォーロフやクトゥーゾフと並ぶ評価を与えられているし。
同時代に戦った好敵手の日本軍の将帥、山下将軍や石原莞爾提督からも、ジューコフ将軍は高い評価を受けているのだ)
なお、モスクワ防衛に当たったソ連軍は民兵隊も含めればだが、200万人に達したともいわれる。
一方、正規軍のみとはいえ、連合国軍は後方警備やアルハンゲリスク方面への攻勢に部隊を割かねばならなかったために400万人ほどに過ぎなかった。
それも攻撃に時間がかかった原因だった。
なお、このようなことで、モスクワへの攻撃開始が遅延したことについては、後で連合国軍内部でも批判されることに、実はなります。
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