第5章ー18
モントゴメリー将軍の攻撃のやり方では、確かに英軍の損耗は抑えられるが、ソ連軍の損耗も抑えられることになる。
ジューコフ将軍にしてみれば、半ば思う壺だろう。
それに英軍の士気の問題もある。
英軍の多くの将兵の本音で言わせてもらうならば、我々がモスクワを目指すようなことをしなくても、というところだろう。
幾ら英国が「太陽の沈むことがない大国」とはいえ、このような大陸戦を行ったことは、歴史上において、そうはない筈だ。
そういったことも加わり、レヴィンスキー将軍ら、ポーランド軍の将兵が見る限り、英軍の将兵の士気はそう高いものとはいいづらく、それもあって、攻撃には慎重になっているようだった。
ポーランド軍の将兵にしてみれば、
「クリミア戦争時のバラクラヴァでの英軍の勇敢さは、100年も経たない内に消え去ったのか」
と陰口を叩きたくなる有様だった。
また、英軍は、基本的に教科書通りの行動を伝統的に好んでいる。
これは型にはまればいいが、相手が融通を効かせては、極めて相性が悪いことになる。
もっとも、それを言えば、ソ連軍も基本的に教科書通りの行動しかできないのだが、ここでは将帥の差が明らかに出ている。
ジューコフ将軍は、それらを熟知した上で、ソ連軍を動かしているので、モントゴメリー将軍が率いる英軍の攻撃が上手く行かないのだ。
これらが組み合わさって、英軍の攻撃が上手く行かない、英軍の将兵の士気が下がる、また、英軍の攻撃が上手く行かない、の負の連鎖が生じている。
そうレヴィンスキー将軍とソサボフスキー将軍は睨んでおり、それは実際、かなり当たっていた。
ポーランド軍の将兵は、懸命にできる限りの攻撃を行い、英軍を支援しているが、それにも限度がある。
そうしたことから、中央軍集団の進撃は遅々として進まなかった。
結果的にだが、北方軍集団がモスクワに6月初めに迫ったことで、中央軍集団の進撃を阻止していたソ連軍も主力を引き抜いて、モスクワ救援に向かわせざるを得なくなり、それによって、中央軍集団の進撃に弾みが付き、6月末にようやく北方軍集団と中央軍集団は手を組んで、モスクワに迫れる状況になったのだが、それまでは、ポーランド軍の将兵にしてみれば、不平不満の溜まる進撃となってしまった。
そんな不協和音が、中央軍集団内部では結果的に発生してしまったが、北方軍集団の進撃という援けもあり、6月末にはモスクワの北部の防衛線の鍵を握ると言えるカリーニンが、まず米第三軍の猛攻により、陥落することとなった。
更に相前後して、英軍の攻撃の前にモスクワの西方の門モジャイスクが陥落している。
そして、7月初めには、モスクワの南部の防衛線の鍵を握るツーラが、ポーランド軍の攻撃により続いて陥落する。
ここにモスクワは、北、西、南を連合国軍によって抑えられ、半分攻囲に近い状態となった。
スターリンは、万が一に備え、サマーラ(当時の名称はクイビシェフ)に政府機能を移す準備を進めるように正式な指示を出したが、自身については、
「モスクワ市街に、連合国軍の砲弾が降り注ぐようになるまでは、モスクワの市民と共に戦う。モスクワを我々は護り抜こう」
等と演説して、モスクワからの脱出を拒否した。
このような演説をされては、政府上層部から末端の職員まで、政府機能の移転準備のために、サマーラに自身が赴くということはやりづらい。
下手に自分からサマーラへ赴任を希望しては、逃げ出すように見られかねない。
そのために、サマーラへの政府機能の移転は、必要最低限の政府機能の移転に止まらざるを得なかった。
だが、このスターリンの演説が、モスクワ市民の士気を高めたことは間違いなかった。
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