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余談だが、それから何ヶ月も経っても、C子こと椎名美夏子は芸能界デビューしなかった。
「取りやめになったのかなあ」
ある日、思い出したように疑問を口にした僕に、徹が、「六条が親父さんに告げ口したんだよ」と教えてくれた。
「告げ口?」
「親父さん。椎名さんが、怒りに任せて六条の姉さんや妹を侮辱したことに怒っちゃってさ」
「それで、C子がデビューできなくなったっていうのか。六条の親父って、そんなに偉いの?」
僕は、思い切って徹にたずねてみた。
翔鳳という学校は、明治の時代に、いわゆるエリート教育を目的として創立された学校である。今でもなお、いいところの坊ちゃんも大勢通っている。しかしながら、校内では実力主義が徹底しており、生徒が親の職業や優位な立場をひけらかすことは恥ずべき行為だとされている。そんなものに頼っていては、いつまでたっても自分の力が付かないからだ。そんなことから、余程親しくない限り、生徒同士で親の職業をたずねあう機会などほとんどない。だから、僕は今まで知らなかったのだが、六条和臣は、かの六条グループ総帥の跡取り息子であるそうだ。
徹が、あのササクラの御曹司だということも、話のついでに教えてもらった。ササクラは、日本で一番信用が置けるといわれているオークションハウスを持ち、主にヨーロッパから厳選した高級品ばかりを輸入している会社として知られている。『ササクラから手に入れた』とは『センスのよい高級品を手に入れた』と、ほぼ同じ意味である。道理で、徹に美的感覚がないと言った僕のほうが、逆に笑われたわけである。
「六条の親父さんは、娘たちのことを溺愛している」
その娘が侮辱され、息子は賭けのダシにされたとあっては、六条氏も、子供の喧嘩だからといって静観しているわけにもいられなかったらしい。
六条グループは、多くの会社を経営している。そして、多くの芸能人がそれらの会社のCMに出演している。C子が所属しようとしていた事務所でも、そこに所属する中堅の歌手1人と俳優2人が、六条の系列会社のコマーシャルに出演している。C子を事務所に入れるなら、それらのコマーシャルを打ち切りにすると、六条氏は事務所と広告会社に圧力をかけたそうだ。その際、C子を厭う理由も、六条氏はきちんと説明したらしい。
僕たちの近所ではC子の悪行は噂にならなかったが、僕たちとは縁のない芸能業界の中では、C子が六条に目をつけられていることは、しっかり噂になった。ちょっと可愛いだけで、取り立てて歌や演技が上手いわけでもないC子を、芸能事務所が体を張って庇い立てする理由もない。事務所は、C子を切り捨てる代わりに、彼女と同じようなアイドル志願の少女を今年の期待の大型新人として盛り立てていくことに方針転換したそうだ。
「そうか、デビューできなくなっちゃたんだ」
「そうとも限らないさ、アイドルになれなくても、演技力や歌唱力を磨いて大成した遅咲きの芸能人は幾らでもいる」
要は本人のやる気次第だと、徹は言った。
「そうかもしれないけどさあ」
C子の勝気そうで自信に溢れた顔を思い出して、僕は、彼女がちょっとだけ可哀想になった。
(END)