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最終話

 私は居酒屋を出て、家路を急ぐ。しかし、足取りは重かった。


 居酒屋店主は根拠のない推測だと笑った。戯言とも言った。しかし、私の中ではその推理が思考の大半を占め、さらに不安で疑いを覆い尽くした。忘れようとしても逃れられない呪縛に苦しめられていた。


 そうまでして苦しむのは、居酒屋店主が言った「アオイ」という名前に心当たりがあるからだ。


 彼女は店主が推測したように被害者串田が馴染みにしているホステスの一人だった。ホステスにしては派手さがない水商売に不向きな女性ではあったが、しゃべり上手で明るくて、それでいて前に出過ぎない頭のいい女性だった。


 そして、彼女は捜査に協力的でもあった。


 私に容疑者の情報を与えてくれたのも実は彼女である。三島、丸岡、角田、彼らが怪しいと印象付けたのも彼女のもたらした情報があればこそである。私がおでんのダイイングメッセージを彼らと絡めるようになったのも彼女がいたからかもしれない。


 それは見方を変えれば、誤った捜査方針を与えるものだったのではないか?ダイイングメッセージの本当の意味を悟られまいとする罠。今、店主の話を聞いた後ではそう思えてならない。


 しかし、当時の私はそんなことなど考えてもいなかった。捜査に協力的な一般人どころか、好感も抱いていた。そのうちに彼女の悩みや不安を打ち明けられるようになり、私はそれに応えていた。そして、私は彼女を大切な異性として見るようになっていた。


 事件が停滞して行き詰ったとき、私はいつしか彼女を頼りにするようになった。そして、男女として交際を始め、プロポーズまでした。


「考えすぎだ・・・・・」


 私は頭を振った。葵は今、私の妻である。もう7年も連れ添っている。彼女は今でも私を愛し、束縛とも言えるほど、私の現状を訊いてくる。刑事の妻だから、いい加減にしてほしいと思うこともあるが、それでも、私は悪い気はしなかった・・・・。


 気温が低いにも関わらず、私の体から冷たい汗が湧き出ていた。ふと、脳裏によぎった疑惑があった。


「事件の捜査状況が気になるからこそ、束縛するような真似をしているのでは?」


 いささか過剰すぎるかもしれないが、不意に思い浮かべたその不安が私の思考を侵食していく。


私と付き合うようになったのも、自分が疑われていないか、気がかりだったのでは?


事件を誤ったダイイングメッセージの方向に持って行ったのも彼女の思惑があってのことではないか?


すでにダイイングメッセージの意味に気づいていて、それを打ち消すために違う意味を信じ込ませたのではないか?


もともと、容疑者の三人は特別な意味を持ちはいないのだ。彼らは偶々、選ばれただけであって、被害者を恨む人間はもっと多かったのではないか?


疑惑は次々に浮かんでくる。


そもそも、今日を記念日にしようとするのも彼女の意思だ。彼女は私と出会った日だと言っていたが、裏を返せば、事件が起きた当日でもあるのだ。


私はさらに頭を振った。余計な考えは捨て去りたかった。そんなバカなことがあるわけがない。そう一蹴したかった。しかし、そう出来ぬまま、私は家の前までたどり着いていた。


自分の家でありながら、とても敷居が高く感じられた。家では当然、妻が待っている。葵という名の、かつてホステスだった女が私を待ちわびている。私は息を呑んだ。あり得ないことだ。たった今、会ったばかりの名も知らぬ居酒屋の店主が言った戯言と、長年連れ添った妻を比べること自体がどうかしている。


私は玄関のドアを開ける。その音を聞きつけ、妻が走ってくる。いつもの明るく優しい顔の妻がそこにはいた。そう、彼女は変わることない私の愛すべき妻なのだ。


「もう、今日は大切な記念日なのに、いつも寄り道してくるんだから」


妻は少し口を尖らせて言った。しかし、怒っているようには見えなかった。いつも以上に声が高く、いつも以上に明るく微笑んでいた。いつもの彼女だ。いつも以上に優しく明るい彼女だ。


しかし、私は微笑んでいる妻の顔が、どこか歪んで見えていた。


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