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スノードロップ・カモミール~逆境の中の希望~

てるてる坊主は雨を降らす

「ぴっちゃん、ぴっちゃん」


 一人の少女が、ピンク色の可愛らしい傘をさしながら、道を歩いていました。

 少女よりも、うんと背の高いビルが立ち並ぶこの場所では、鳥のさえずりも聞こえません。それに雨を嫌う人々が、少女なんか見えていないかのように駆け足で通り過ぎていきます。

 でも、確かに少女はそこにいます。

 無数の雨粒が傘の表面叩く、その場所に。


 ぽとん、ぽとん――。


「ぽとん、ぽとん」

 まあるいほっぺの少女もまねをしました。

 ぽとん、ぽとん。


 雨の日は、いろんな音が聞こえます。

 同時に、いろんな音を掻き消してくれます。

 急げ急げという電車の音。どけどけとわが物顔で走る車。そして、あれをしろこれをしろと指図してくるケータイの着信音。

 濡れるのがちょっと嫌ですが、それを我慢すればこんないい天気はありません。


「ぴちゃん、ぴちゃん。――ん?」

 ご機嫌で歩く少女の視線の先には、今にも雨に溶けてしまいそうなほど、ずぶ濡れの人がいました。






   ○1.昨日も今日も、そしてこれからも雨の中






 どうすればいいんだよ――。


 涙なのか雨なのか。わからないが、頬を伝う。

 ザーザーと降る雨。

 鉛色の空を見上げても、答えは出ない。


 ただ、雨が目にしみる。

 痛みが走るが、はたして本当に痛いのは目だろうか。

 ぼやけた視界が映すのは、鉛色の空から落ちてくる、無数の砲弾のような雨粒。

 そのひとつひとつに目を向けられないように、無数にあるものひとつひとつを気にかけることはできない。仮に神様がいたとしても、この雨粒と同様、無数にいる人間一人一人に、目なんか向けないだろう。


 それと同じだ。


 でも、誰かに道を示してほしい。


 ツライ、クルシイ、イヤダ、ニゲタイ、キエタイ――。


 どんな言葉を使っても言い尽くせない、この感情は何なのか。

 こんな思い、したくなかった。楽になりたい、選択すべき道はこっちだと言ってほしい。――示してほしい。


 もちろん、そんな都合のいい話がないことは知っている。

 そうして鉛色の空から視線を下におろした。

 ぐしょぐしょに濡れた顔。誰にも見せられない。


 けれど、視線を下した瞬間、思わず目を見開いた。


 いつからそこにいたのか、髪を二つにしばった女の子が、ピンク色の傘の中からこちらを見つめていた。


 まっすぐな、視線。

 少女の大きくて真っ黒な瞳が映すのは、ずぶ濡れの自分。

 ふっと鼻で笑った。


 ――(ひど)い顔だ。


「何しているの?」

 ピンクの傘から声が飛んできた。

「濡れてるよ?」


 今は誰かと話す気分じゃない。

 それなのに、少女の関心はこちらに向いているようだった。

 吐き出しそうになる溜息を必死に飲み込む。


「かぜ、引いちゃうよ? あたま痛くなるよ? おはなずるずるするよ?」

「……そうだね」


 少女が本気で心配してくれているのが手に取るようにわかる。そんな相手を無下に扱えるほど非情な人間ではない。……今は。

 少女は、言葉をかえしてもらったことが嬉しかったのか、傘の中で笑みを浮かべていた。そして――。


「ちょん」


 どういうわけか、隣に座ってきた。ずぶ濡れのベンチに。それも変な効果音を言いながら。


「……濡れるよ?」

 母親にでも買ってもらったのだろうか。少女は可愛らしい水玉のスカートをはいていた。

 しかし、ベンチに座った今、咲いた花のように軽やかだったそれは、雨を含んでしぼんでしまった。

 それでも、少女が気にする様子はない。


「雨だもん。濡れること怖がってちゃ、楽しくないもん」


 足をバタバタさせながら答える。黄色い長靴がどこか遠くへ飛んでいきそうだった。


「お兄ちゃんだって、傘ささないでいるじゃん。濡れてるじゃん。ずぶ濡れだよ? 髪の毛から、お水がぽたぽたしてるよ?」


 ピンクの傘の中からかけられる言葉に、どう返せばいいのかわからず、ただ黙った。

 黙るしか方法が思いつかなかった、と言ってもいい。

 もう、いっそうのこと風邪でも引いてしまいたい。


 ――この現状から抜け出せるのなら何だっていい。


 前かがみにうなだれた先に見えるのは、雨空よりも暗い世界であった。

 雨に打たれ、体温が徐々に下がっていく。腕には鳥肌が立っていた。ただ、今はそれを止める術を知らない。


 このまま雨に溶ければいいのに。

 この感情も、俺自身も。何もかも……。


 すると突然、今まで頭を打っていた雨が止んだ。

 顔を上げれば、先程の少女がこちらに傘をさしだしている。

 子供用の小さい傘だ。雨を遮る空間は小さく、そのほとんどを俺に与えているせいで少女の肩は濡れていた。


 ――まだいたのか。


 とっくにいなくなったと思ったのに。

 ほっといてくれ――。

 こんなクズな人間、放っておいてどこへでも行けばいいのに。どうしてここにいるんだよ? 嫌がらせなのか? さげすんでいるのか? それが……楽しいのか?

 くいっと片腕に力がかかる。俺の意思ではない力が外側から与えられている。

 少女が腕を掴んできたのだ。服の裾を引っ張っては首を傾げる。雨を含んだ服は、もはや服というより海藻のようだというのに。触る事さえ躊躇しそうなものを、少女は気にしない様子で引っ張る。

 なんだと視線を投げれば、少女は首を傾げた。


「行かないの?」


 どこに? とは聞かなかった。ただ、黙っていた。


「行こう」


 少女は、ぴょんとベンチから降りるとピンクの傘をくるりと回した。

 花のようだなとぼんやり思う。


「雨に濡れたまま動かないと、どんどん寒くなる。だから、動くの!」


 再びくるりと傘がまわる。と、今度は少女もまわった。くるり、くるり。元気のかたまりそのものだと思った。


「ほら、早く」

 そう言った少女に強く腕を引かれ立ち上がった。雨の音が、さっきよりはっきりと聞こえる。

「早く、早く」

 その小さな手を振りほどくことは簡単だ。だが、そんな気力はない。

 どこに行くのだろうか、とぼんやりした頭で思いながら、俺は少女に手を引かれながら歩いた。

 


 ザーザーと降る雨の中を。





   ○2.雨は流す、覆う、そして隠す





 途中、少女がピンクの傘を俺に差し出してきたが、受け取ることはしなかった。今更傘をさしてもどうしようもない。それより、小さなピンクの傘はこの少女が持つからいいのだ。

 俺には似合わない。


 小さな花を追いかけるように、ぼんやり歩き始めてどのくらいたっただろうか。

 お互い名乗らないまま、雨の中を彷徨(さまよ)い歩く。いや、彷徨っているのは俺だけか。

 そんなとき、ふと頭をよぎった言葉。

 てるこ。

 勝手だと思うが、少女をそう呼ぶことにした。もちろん、心の内で、だ。


 普通この年頃の子供は、雨を嫌うものだ。「外で遊びたい」と騒ぎながら。

 それなのに、てるこは雨を好む。雨といえばじめじめした印象であまりいいイメージを持たないというのに、てるこはとても楽しそうだ。


「ぴちゃん、ぽちゃん」


 雨の音をまねながら、てるこは歩く。

 俺には、雨の音がそんな風に聞こえはしないというのに。

 頭上からは、鉛より重そうな曇天の空。小粒でも無数に打ち付けてくる水。それは、服に溶け、重しとなって全身にのしかかる。そして何より、俺を一番潰そうとしているのは――。

 ああ、逃げたい。これから解放されるのなら、何だってしよう。何なら、もう死んだっていいんじゃ……。


「ばざー」


 いきなり水しぶきが飛んできて、思わず顔をしかめた。

 きゃっきゃと少女の笑う声が聞こえる。

 どうやらピンクの傘をこちらに向け振ったらしい。


「何するんだよ」


 今さら水をかけられてもずぶ濡れの俺には関係ないというのに。

 まったく……。まだ濡れるのが怖いのか?

 人知れず嘲笑が浮かぶ。もちろん、自分に対してのものだ。


「あ、笑った」

 そう言っててるこは再び笑う。傘をくるくる回しながら。

 その一言で、俺の嘲笑は止まる。これは、てるこの言う「笑い」とは違う。もっと卑屈で醜く、痛いものだ。

 前へと向いていた視線が下へと落ちる。そのとき、てるこの傘が目に入った。

 ぼたん、ぼと、ぼたん。

 傘に弾かれた雨粒が奏でる音色はどこか重たい。そして、傘にはじかれた雨は無数の水滴となり、時折すっと流れて地面へと落ちていった。


 ――泣いているようじゃないか。


 ふいっと顔を逸らす。

 泣きたいのは俺の方だ。

 目頭が再び熱くなるのを感じた。


 雨の日にいいことがあるとすれば、涙を隠せることだな。






   ○3.雨は奪う






 雨足が強くなった。

 ザーザーなんて生温いものじゃない。


「ばちばちだね! だんだんだね! ばたばただね!」


 興奮した様子のてるこを余所に、俺は空を眺めた。

 雨が弱くなる兆しは、一向に見られない。

 俺とてるこは、さすがにこの雨では困るとビルの下で雨宿りをしていた。

 時折ビルに出入りする人の目線が、気になる。


 どうしてあんなにずぶ濡れなのか、何故小さな女の子と一緒にいるのか、いい大人が平日に一体何をしているのか――そう、その眼は多弁に語っていた。


 お前らには関係ないだろ……。


 雨に打たれた体は、先程よりも冷えたようでがたがたと震え始めた。

 カチカチカチと歯も鳴る。


「お兄ちゃん……?」

 てるこの心配そうな声が聞こえたが、それに応えてやることもままならない。

 死ぬかもしれない――。


「あの、大丈夫ですか?」

 このビルにある会社の人だろうか。紺色の制服を着た女性が、小首を傾げ尋ねてきた。


「大丈夫じゃないよー。このままじゃ、死んじゃう!」

 てるこの泣きそうな声が遠くに聞こえる。

「あの、もしよかったら中に入ってください。ここよりは暖かいはずですし」


 女性にお礼の言葉を述べようとしたが、口を開いても、出るのは歯が鳴る音ばかり。仕方なく頭を下げた。

 ここはお言葉に甘えるとしよう。

 自動ドアが開いた瞬間、身体にまとわりついた暖かい空気にほっとしたのは言うまでもない。

 まだ、死にたくはないんだ。

 雨を通して自分の本心を垣間見た気がした。


「お前はもう帰れ」

 邪魔にならないよう、端に立つと歯をカチカチ震わせながらついてきた少女に言った。

 何が気に入ったのか知らないが、もういいだろう。一緒にいても何か話をするわけでもないのだ。いい加減、一緒にいるのもつまらないはずだ。


 ――もう十分、だろ?

 知らない人間と一緒にいるなと親に言われなかったのか?


「お母さ……親も心配してる。俺のことはいいから帰れ」

 ふるふる、とてるこは首を横に振る。

 それを拍子に小さな頭からしずくが飛ぶ。

 てるこも少なからず雨に打たれているのだ。

 傘を持つ両手が震えているのが見えた。


「帰れっ!」

 フロア全体に響き渡る自分の声。


 ――なんで俺は怒鳴ったのだろう。

 そう思ったのは、ピンクの傘が雨の中へと吸い込まれていくのを見ながらだった。





   ○4.どんなにひどい雨の日でも、雲の上には太陽がある





 一体俺は何をしているんだろう。

 右に左に流れる人を眺めながら、ぼんやり思う。

 時折向けられる視線。


 ――俺が何をしていてもお前らには関係ないじゃないか。

 それなのに汚いものでも見るかのようなその眼に、恥じらいではなく怒りが沸いてきた。


 ――どうせ俺はクズ人間だよ。

 特定の誰かではなく、ただ何もない空間を睨む。

 罵りたけりゃ罵ればいい。自分の方がマシだと笑えばいい。社会の底辺だと見下したけりゃ見下せばいい。


 ――ああ、何もかもコワシテやりたい。


「あれ? (はじめ)?」


 心の内で暴れまわる衝動という名のバケモノの手綱を離そうとしたときだ。

 声を聞いた瞬間、今まで湧き上がっていた感情が、死んだ。


 ニゲロ、と言う。ミルナ、と言う。キクナ、と言う。……心の中で本心が叫ぶ。

 ぎこちなく振り向けば、どこかで見たことのある顔がいた。

 大学時代の友人だ。


「やっぱり一か! 久しぶり! 元気にしてたか?」

「……あ、ああ」


 早く、早くこの場から立ち去らないと――。

 だけど今ここで背を向けたら……。

 でも、我慢できるか? 踏み止まれるか?


「雨、急にひどくなったもんな。雨宿りか? あれ? お前仕事――」


 気づけば、俺はそいつに背を向けて走っていた。

 未だに強く降る雨の中へ、その身を投げる。




 ジーンズにスニーカー。どこからどう見ても仕事をしている格好ではない。

 仕事が休み、というわけでもない。

 数か月前までは行っていた。

 けど、今は――。


 頭皮までしみこんだ雨が、頬を伝って流れ落ちた。

 重く長い溜息がこぼれる。

 その溜息は、雨で掻き消された。

 何が正しくて、何が正しくないのか。

 この社会は、それがはっきりしている。

 会社で出世すれば。結婚して家庭を持てば――。


 俺だって何もしなかったわけじゃない。努力はした。自分にできることは挑戦した。


 けど、どうにもならなかった。

 今に始まったことじゃない。

 数年前から考え悩んできたことだ。

 このままでいいのか?

 そう問えば、良くないと答える自分がいる。

 だから努力してきた。


 ――それでも、報われない。

 俯き加減な視線を上げたときだ。

 空が光った。瞬間、爆音に似た重低音が一帯に鳴り響く。


 ――雷だ。

 キャーという声がしてみれば、下校途中の二人組の小学生が、ばたばたと駆けて行った。雷が怖いのだろう。鳴るごとに遠くから悲鳴が聞こえてきた。

 そんなに怖がることもないだろうに。

 一人の子の傘は、淡いピンク色だった。桜の花びらのようなその色は、てるこを思い出させる。


 もう、会うことはないだろう。


 怒鳴ったのだ。それも急に。

 二度と関わりたくないと思ったはずだ。


 家に帰ったのなら、それでいい。

 どんなに雨好きでも、雷が鳴れば帰るだろう。ましてやまだ小さな女の子。さっきの子のように、雷が怖いってこともあり得る。

 何より親が心配しているはずだ。


 ――親、か。

 俺は、どうする?

 帰るべき家はある。だが、ただ屋根があるだけの場所だ。帰ったって仕方がない。

 また、震えるまで雨に打たれるか?


 ……それもいいだろう。

 水に流すという言葉があるんだ。どうにもならないことをこの雨で全部洗い流してほしい。

 鉛色の空に、稲妻が走る。

 雨は洗い流すどころか顔を、身体を容赦なく打った。

 痛い、と思う。けれど、これは罰なんだと思えば自然と耐えられた。


 ――ごめん。

 身体は冷えているのに、目頭だけは熱くなる。

 ――ごめん、母さん。


 一段と大きな雷が鳴った。

 許してもらえないことは、わかっている。

 だけど――。


「あ! 見つけた!」


 豪雨でぼやける視界に映るのは、ピンク色。


 てるこ?


 (かすみ)のように不確かだったピンク色がどんどん濃くなる。

 幻、ではない。


「はい、あげる」


 駆け寄ってきたてるこから手渡されたのは、大人用の傘だった。


「お前、どうしてここに――」

 とっくに家に帰ったと思ったのに。

「早く傘さしてよ。また、寒くてぶるぶるするよ?」

 言われる通り、傘を開いた。

 バサ、と音を立てて開いた傘。使われた形跡がないほど真っ黒な傘だ。


 ぼ、ぼ、ぼ。


 傘の下、確かにいろんな音がする。

 意識を向けていれば、だ。

 しばらく雨の奏でる音を聞き入っていた。


 ポチャン、ポトン、ザザザ、サーサー、パランパラパラ。そして、ゴーンゴゴゴゴ。


 離れていく雷の音も、この演奏には一味加えている。

 パッと目を開き、視線を下げればてるこはまだそこにいた。


「……帰れって言ったよな?」


 静かに切り出すと、てるこがピンクの傘から顔をのぞかせた。


「そうだっけ?」

 くるん、と傘を回す。


「……親も心配しているだろ。早く帰れ」

 てるこは、ふるふると頭を降った。

「じゃあ、なんで俺についてくるんだ?」

 吐き出すかのように、問う。

 大人でさえ放っておくような暗い顔をした俺に構う理由が知りたかった。

 てるこは、じっと俺の方を見る。

 理由がないわけではない、とその目が語っていた。でも、言いたくないらしい。

 口は堅く閉じられたまま、開く気配は一向になかった。

 黙っているつもりか。

 まあ、それでもいいだろう。

「はあ」

 溜息がこぼれた。今までずっと溜め込んでいた分、やけに重く感じる溜息だった。


 くるん、とまた傘がまわる。


「行こー」


 そう言っててるこは雨の中を歩いていった。

 俺がついてくると思っているのだろうか。

 もし、ついてこなかったら、と考えないのか?

 ボン、ボンと雨は傘をはじく。

 どうせこのまま一人でいても、辛いだけ。なら、気分転換に付き合ってやるのもいいだろう。


 しかし、雨水をたっぷり吸いこんだスニーカーは、一歩を踏み出すには少し重すぎた。


「お兄ちゃん、早く! 置いていくよー」


 置いて行っても構わないのだけど。

 どうせここで立ち尽くしていても、てるこに引っ張られるようにして付き合わされるのだろうな。

 でも、何だろう――。

 さっきよりも気が楽なのは、雨が弱まったからなのか。それともてるこに振り回され、気を取られているからなのか。



 ……どっちでもいいや。






   ◎





 パラパラ、と降る雨。

 雷もいつの間にか去っていったようです。

「ぽ、ぱらぱら。すー、ぽちゃん」

 少女はご機嫌な様子で口ずさみます。

「雨の音か?」

 少女の小幅に合わせて歩く、お兄さんが尋ねます。

 こくり、と少女は大きく頷きました。二つにしばった髪が、大きく揺れます。

 どういうことか、先程から口の周りがおかしいのです。口の端が上がると言いますか、とにかくちょっと変なのです。

 誰かが邪魔しているかのように、力が入らないのです。

 でも、これはいいことだとはわかります。

 だって、心がぽかぽかするのですから。

 それでも、この顔のままだと不安なので、傘を持っていない方の手でごしごしと顔をこすります。

 そして、重くて厚くてうっとおしい雨雲を見て思います。


 ――やっぱり雨はステキだな、と。





   ●





 ――何をやっても上手くいかない。


 雨に打たれる前。てること会う前だ。


 散らかった部屋。隅には埃がたまり、蜘蛛の巣が張られた部屋でただ天井を見ていた。

 窓を叩く風の音だけが耳に届く。


 ――何をやっても上手くいかない。

 そう、言葉にするだけでは軽すぎる。

 その言葉の「中身」を知って、やっと実感できる。

 もう、もう。どうしたらいいんだ――。


 家に引きこもって数日。

 何もしなくても、憎いほど腹は減る。

 空っぽになった冷蔵庫を睨み、近くのスーパーへ向かっているときに遭遇した、雨。

 何も考えることができないまま、徐々に激しく降る雨をその身に受けながら歩いていれば、ふらふらと公園のベンチに腰掛けていた。


 何をしているんだ、俺は。

 ―― (はじめ)も早く良い人、見つかるといいな。

 ……余計なお世話だ。

 ――昇進したんだ。責任増えるけど、給料は良くなる。俺の社会的地位も上昇したっていえるだろう?

 ……俺には関係ない。

 ――確かに仕事、きついときもあるけど、やりたかった仕事だしやりがいあるから満足してるよ

 ……そうですか。


 いつの間にか、他愛(たわい)もない話が肩に背中に圧し掛かるようになった。


 ――重い。


 ――聞きたくもない。


 自分が惨めだった。

 努力が足りないと言うのか? もっと頑張れと言うのか?

 周囲の「中身」のない言葉では、救われなかった。


 このままでいいのかと悩んでいたときに鳴った一本の電話。


 ハハ、ビョウイン、ニュウイン。


 ケータイ越しに聞き取れたのは、それだけだった。

 ……最後に実家に帰ったのは、いつだ?


「あたしは早く孫の顔が見たいよ」

 女手一つでここまで育ててくれた唯一の肉親である母親。その母のもとへ顔をのぞかせ、帰るときにかけられた何気ない言葉。その言葉に嫌味がないことはわかっていた。けど――。


 ――お前まだ独身なの? 俺の友人の中じゃあ独身はお前だけだぞ? (はじめ)

 丁度、大学時代の友人から言われた言葉を思い出し、奥歯を噛み締めた。

 ――そんなの、俺の勝手だろ。

 だいたい、俺はまだ若いしやりたいこともあるんだよ!

 余計なお世話だ。


 腹立った俺は、ピシャリと玄関の戸を閉め、別れの挨拶もまともにしないまま、アパートに戻ったのだ。

 思わず、ケータイを落とした。

 ……バカだろ、俺。

 瞬間、自分の事なんて、どうでもよくなった。

 どんなにあがいても、過去に戻ることはできない。そんなの小学生でも知っている。

 それなのに、俺は――。

 今更言葉の重さに気付くなんて、ガキ過ぎるだろう……。

 目の前は滲むのに、頬を伝うことはなかった。





   ○5.心模様は空模様






「なんか、雨よわくなったね」

 てるこの一言で現実に引き戻された。


 そうだ。今俺は何をしている?

 ――もう、嫌だ。

 人に見下され、馬鹿にされ、親孝行もまともにできないこんな自分なんかが。


「てるてるぼーず、てるぼーず。あーしたてんきにしておくれー」


 唐突に歌いだしたてるこに視線を向ければ、てるこはにこっと笑い返してきた。


「わたしね、雨上がりのお天気がいちばん好きっ」


 そう言って、またくるりと傘を回す。

「だって、すかっとしてるじゃん! 知ってる? すごくキラキラしているんだよ!」

「……でも、雨が止むかなんてわからないじゃないか」

 ――この状況だって、一生抜け出せないかもしれない。


「そういうときはね、てるてる坊主に頼むんだよー」


「てるてる坊主?」


「うん! お父さんが言ってた。雨が降るから作るんでしょ? だから、てるてる坊主は雨が好きなんだねって言ったら笑ったの」


 目を輝かせ語るてるこは本当に楽しそうで……。

 自分にもこんな時期があったのだと思い返せば、隣で手を引きながら歩く母の姿が自然と浮かんだ。

 瞬間、腹の底を(えぐ)り取るような鈍い痛みが沸いてきた。

 不安というものは大きければ大きいほど負担がかかる。

 手が、足が小刻みに震えるのだ。止めようとしても、止まらない。震えが止まるのを待つしかない。

 気持ちひとつの問題だと、馬鹿にしたり事態を重く見てない奴もいる。たしかに気持ちの問題だ。だけど、こんな気持ちにさせたのは他でもない社会であり、俺を取り巻く、人間だ。


 自分がここまで弱い人間だとは思わなかった。


 年を取るごとに自分の弱さを見せつけられている気がする。子供の頃は、大人になれば毎日が今よりずっと楽しいと思っていた。


 ――だけどそれは違う。


「お兄ちゃん?」

 てるこの心配そうな声が耳に届く。


「……なんでもない」

 声は、震えていた。


「あのね、怒らないで聞いてくれる?」


 傘を少し傾け、てるこが見上げてきた。

 俺が怒るようなことをしたのかと思いつつ、気になったので無言のまま頷いた。


「あのね、あたしね、お兄ちゃんのこと……」


 そこで言葉が止まる。黙って待っているのも耐え切れなくなった頃、その続きがてるこの口から出てきた。




「雨に似ていると思ったの」





   ○6.雨があって見えるものもある





 雨に似ている?


 それが何だというのだ? 怒る理由にはならない。

 小首を傾げれば、てるこは今にも止みそうな雨雲を見上げた。


「お父さんね、雨の日に頭から足先までずぶ濡れになってベンチに座っていたことがあったの。……お母さんが天国に行っちゃったあと」


「え?」


 思わず声が出た。

「じゃあ、そのワンピースは……」

「これは、お母さんが買ってくれたの。雨の日は絶対にこれを着るの!」


 そんな大事な服を濡らしてしまうのにか?


 ……よく、わからない。


「お兄ちゃんが、どうして雨みたいになっているのかわからない。雨で顔がぐしょぐしょになっても、お面みたいにいられるのもわからない。だけどね」


 ピンク色の小さな傘がまた回る。


「絶対に大丈夫。大丈夫なんだよ」

 そう言っててるこは笑った。


「到着!」

 話しているうちにたどり着いたのは、大通りに近い大きな公園。


 もう傘をさす必要もない。痛くもかゆくもないほどの、弱々しい雨。それでも雲は空を張っていた。

 俺はてるこから借りた傘をたたむと、水を切った。ビルを飛び出したあと、てるこは一旦家に帰ったのだろう。だったらそのまま家にいればよかったのに。

 傘をたたみ、てるこに返そうとしたときだ。


 統一された灰色の世界に降り注いだ、細く、だけどまっすぐにのびる光。モノクロの世界でその部分だけ彩りが戻った、と言ったら笑われるだろうか。

 空を仰げば、眩しい光。

 雲の隙間から地を射すそれは、どこか違う世界へと導いてくれそうで。

 絵画の中に入り込んだ、そう思った。


「……ね、きれいでしょ?」


 てるこの言葉に、こくりと頷いた。

 空から差し込まれた光。その光が照らすもの全てが輝いて見えた。地面さえ水たまりが反射して眩しい。

 雨が、すべてを輝かせる。


「前にお母さんとね、この公園に来たときも雨が降っていたの。本当は晴れの日に来たかったんだけど、次の日にはお母さん、病院に戻っちゃうから」


 そのとき初めてこのワンピースを着たんだよ、とてるこは言う。

 どこか悲しげな声音に、泣いていないかと視線を下げるが、傘が邪魔して表情は見えない。もう、雨は止みかけているというのに、てるこは傘をたたまなかった。


「そのときもね、みたの。お母さんと一緒に。これ、天使のはしごって言うんだよ! そのあと晴れてね、世界がとってもキラキラしていたの。葉っぱも、ブランコも、車も、お家も! 全部!」


 キラキラ、か。

 てるこの声、そのものがキラキラ輝いて聞こえるのだから不思議だ。


「雨はじめじめするし、濡れるからみんな嫌いって言うけど、いいこともあるんだって。わたしもね、そう思うの!」


 傘の下からてるこがのぞく。視線がぶつかって慌てて逸らした。

 俺には眩しすぎる。母親を亡くしたと言うのに、どうしてそこまで笑顔でいられるのだろう。


「お父さんは雨が嫌いみたいだけど、わたしはそこまで嫌いじゃないよ? だって新しい世界みたいでしょってお母さん、言ってたもん」


 新しい世界?

 よく意味がわからず、てるこの方に視線を投げた。

 すると、どうだろう。


 もう傘をさす必要もない雨なのに、まあるいほっぺを伝う、一粒のしずく。


 てるこは傘をさしたまま。

 見てはいけないものを見てしまった気がして、慌てて視線を逸らした。

 ――俺だけじゃ、ないんだよな。いろんな感情に押し潰されそうになっているのは。

 差し込んでいた光は、いつしかあたり全体を照らしていた。

 ようやく雲は流れ、青空が顔を出す。湿った空気が肺を満たした。

 土なのか何なのか、自然の優しい匂いが肺だけでなく気持ちまで穏やかにしてくれる。


「……本当だ」


 午後の木洩れ日。

 晴れの日では決して見れない世界がそこには在った。


「でしょ?」

 そう言っててるこは傘をたたんだ。

 途端、てるこの姿が思いのほか小さく見えた。

 傘が、てるこを大きく見せていたのだと今更ながら気づかされる。


「あ、お父さんだ」


 てるこの視線の先をたどれば、こちらに手を振る人影。高くゆっくりと左右に揺れるその腕は、(したた)かに生きる雑草を彷彿させた。

 父親やてるこの様子から、てるこが雨の中出かけることは初めてじゃないことがわかる。

 もしかしたら、雨が降るたび出かけているのかもしれない。母親との思い出、天使のはしごを、いや雨上がりの世界を見るために。


「じゃあわたし、行くね」


 そう言っててるこは駆けだした。

 突然現れて、突然消える。

 なんだかんだいって、少しもの寂しいと思うのはおかしいだろうか。

 ふと、手元にある傘に気が付いた。

 ――返さないと。


「なあ、傘」

「え?」


 ずいぶん小さくなったてるこが振り向く。


「傘!」

「今度でいいよ!」


 今度って――。

 今度っていつだ?


「てる……じゃなくて、名前。名前教えて。俺は(はじめ)


 気が付けば、大きな声を出していた。

 お互い、傘を返すとき名前を知らなきゃ困るだろう。

 てるこは、口もとに手をあてると大きな声で言った。


「わたし、陽子(ようこ)。じゃあ、また会おうね。はじめお兄ちゃん!」





   ○7.てるてる坊主は雨を降らす





 一時の輝く世界の中、俺は黒い傘を片手に歩く。

 足取りも、さっきよりずっと軽い。


「てるてるぼうず、てるぼうず」


 小さく口ずさむ歌。昔とは違い、低くなった自分の声。

 ――母さん。

 そのとき、ズボンのポケットに入れていたケータイが鳴った。よく壊れなかったなと思いながら、相手も確認せずに通話ボタンを押す。


「はい。相田です」


 


 電話を切った俺は、思わず力が抜けた。座り込みそうになる体を必死に保つ。

 電話の相手は、母が入院している病院からだった。


 母の病は、命に関わるようなものではないとの検査結果の連絡だ。


 目頭が熱くなる。


 ――まだ。まだ何もかも終わったわけじゃない。

 視線を上げれば、雨に濡れ輝く世界。それも一時(いっとき)の世界だ。じきに乾いて元の世界になる。それでもまた雨は降る。……世界が輝くかは別にして。


 ――てるてるぼーず、てるぼーずー、あーしたてんきにしておくれー。


 てるこ、いや陽子の歌声を思い出し、小さく笑った。

 てるてる坊主は雨が好きだと思っていたり、雨が好きだと思いきや、雨上がりが好きだと言ったり。

 陽子がくるくる回るたび、水玉のワンピースもふわりと広がる。

 てるてる坊主のように。

 ああ、でも坊主じゃないなと思い、笑った。


 次に雨が降ったときに、出会った公園で待ってみよう。傘を返すときにお礼を言わなきゃいけないな。もちろん、その雨の日は、傘をさして待っていよう。

 ピンクの傘を持つてるてる坊主、てるこが現れるのを。


 てるてる坊主は雨を降らす。その先に輝く世界があることを夢みて。





 緑の葉についたしずくが、輝きながら飛び跳ねた。


 

 

 ここまで読んでくださって、ありがとうございます。






※以下はあとがきみたいなものなので、読まなくても結構です。






 雨が降らなければ生まれることがない、てるてる坊主。

 雨を絶望とするならば、晴れという希望を託されたてるてる坊主は、絶望の中の希望。

 だけど、てるてる坊主はいつも雨の中でしか、生まれない。

 まるで、てるてる坊主自身が、雨を降らせるかのように。

 じゃあ、実際は?


 そんな考えも含めて書いた作品です。

 てるこ(陽子)の視点の部分だけ童話っぽくしたかったので、文体が変動して読みづらかったかもしれません。

 いろんなものを詰め込みたくて、読者には優しくない感じの仕上がりかもしれないですが、それは完全に自分の力量不足です。

 文字を綴るそれだけなのに、奥が深いです。個性もでますからね。


 以上であとがきも終わりです。

 あとがきまで読んでくださった方、ここまで読んでいただき、本当にありがとうございます。


はるの



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