78.騎士は死に瀕してからが本番
篠崎榎耶の人生は、怪奇に始まり怪異に終わる。
母から引きずり出された彼の最初の産声は世界を呪う声であり、その呪詛は衰弱した母を殺した。
そして病室にいた人間全てを殺した彼を、篠崎の翁たちは座敷牢に封じ、彼の父親を母国に追放した。
恐れられ忌まれた彼だがその身に秘された力は何より魅力的で、篠崎の祖である「黒狐」の生まれ変わりではないかと目されたために監禁されつつも丁重に扱われた。
住はともかく衣食は最高級の物が出されたし、「欲しい」と言えば何でも献上された。それがたとえ格子越しに見た、我が子を慈しむ女中の腕であろうと、自分の父を追いやった男の首であろうと。
「つまらん」
牢の中には行燈ひとつ。テレビも携帯もゲーム機もない牢での楽しみは限られている。
昼間の榎耶はたくさんの霊符が貼られた丸窓の格子から、ただ外を眺め小鳥を誘いこむくらいしか暇潰しになるものがない。
夜になればもはや行燈しか頼るものはないが、彼の下僕が夜になれば馳せ参じてあの手この手で楽しませようと心を砕いてくれるので、案外昼よりも夜の方が彼にとっては好ましい。
何より、下僕の媚びたものであろうと自分を見つめてくれる視線が好きだった。「視る」だけで人を狂い死にさせたことのある彼と堂々と視線を交わす人間は存在せず、強いて言うなら今では骨となった男の首だけが彼を睨みつけていた。―――長い事「お気に入り」だったその頭蓋骨は、漆塗りされて今は彼の足下に転がっている。
そんな、妖と呪に囲まれて長い夜を楽しむしかない彼―――の人生を唐突に、それこそ流星の如く現れては隕石が落下したような衝撃を叩きこんで壊したのが、篠崎家と対になる名家の男だった。
「やあ、御機嫌よう」
―――実は道に迷ってしまってね。ああ、人生とかいう果てしない道ではないよ?…まあ、でも、迷った甲斐があったかな。
「そんな暗がりに隠れていないで、ぼくと友だちになってくれないかい、紫の君」
月を背負ったその少年の、微笑を浮かべただ真っ直ぐに「篠崎榎耶」を見つめる眼差し。
長く人肌に触れずにいた榎耶の腕を躊躇いなく引き、埃で汚れた髪を撫でる手は優しくてくすぐったい。
「やあ、林檎みたいな瞳だね」
自分とはまるきり違う環境で育った少年に、彼は一生囚われることになる。
それが、「一番目」の世界の話。
*
「僕は何度も恋をする。あの砂糖菓子のように甘い瞳に、星のように悪戯で眩い魂に。
恋して恋して何度も愛して愛して追いかけて追いかけて追いかけて……それなのに彼は、彼女は、僕に残酷なことを言うんだ。『紹介するね、榎耶。この子がよく話してた、可愛い幼馴染だよ』と……大切なひとだと……幸せそうに微笑んで、お前の手を握る。
どんなにあの子に尽くしても、あの子を想っても、あの子は僕ではなくておまえのような凡人を選ぶ……。
―――どうして?僕が、わたしが、何度生まれてもあの子と同じ性だから?あの子の隣で生きることが出来なかったから…?たったそれだけのことで……?」
俯く榎耶に、【富士の守】は言葉にならぬ声を出す。まるで救われぬ主を慰めようとするかのように。
「…ああ、そうだよね【富士の守】…そんなちっぽけなもので、僕が彩羽の愛を得られぬだなんておかしい…―――だから、僕は何度挫折しても諦めなかった。
同性がダメだというならば望んだ姿でいられる魔導書を、縁がないというならば、思い余って絞殺するほどに互いを結びつける魔導書を…腕が飛ぼうが内臓が吹っ飛ぼうが、僕は幾冊も調伏し使役してきた」
す、と片手を上げると、闇夜から数冊の魔導書が浮かび上がる。
それらは絵本のような形をしていたり、巻物のようであったり、文庫本サイズから図鑑のように大きなものもある―――そのうちのひとつ、魔導書といいながら封筒の形をした書を手に取ると、悲しげな表情でキスをする。
「そしてこれが、平行世界を旅するための魔導書」
ゆっくりと唇を離すと、封筒は桜のようにはらはらと花弁と変わって消えていく。
消えゆく魔導書を見つめ、やがて羽継に視線を移すその表情の変化は、たかが十数年しか生きていない子供が浮かべるものではなかった。
「お前の言う通り、怪異に近い僕はあと一度この魔導書を使えば人間という枠を超え、【怪異】として彩羽に襲いかかるだろう。……ああけど君は何も心配しなくていい。
―――彼女は僕の造り出した美しい異界で、永遠に美しいまま生き続けるのだから!」
ぱん、と弱さを振り払うように扇子で宙を薙ぎ払うと、その凄まじい風を受けて【富士の守】が吠え、封じていた無数の腕が砕け散る。
迫りくるまで三秒にも満たなかったが、事前に身構えていた羽継はすでに一年間自身の異能を注ぎ続けた黒い長針を投げている。
「くっ…!」
流石にこればかりは堪えきれないのか、【富士の守】という存在を喰い殺さんと牙を剥いた異能に飲み込まれて、暴風の中、甲冑はばらばらに吹き飛ぶ。
「……富士…」
つんざくような音の合間、可憐な鈴の音がいやにはっきりと榎耶の耳に残った。
いつの時か、気紛れでくれてやったそれを、あの武者はたいそう喜んでいて―――ずいぶんと長い間、榎耶の空しい旅に付き従っていた下僕が敗北した姿は、何度見ても思考が止まる。
「―――お前の事情は分かった」
榎耶を現実に引き戻す、憎たらしい男の声。
睨みつけたその先で、羽継は自身の瞳の色と同じ光―――と、幼馴染の魔力である金色の煌めきの中から、見事な大弓を握り締める。
満開の桃の花が咲き乱れるその弓から溢れるのは破魔の力。
かつて、彩羽の父が報酬として貰い受け、彩羽が出し入れしやすいようにと工夫してくれたそれは、契約の証として羽継の血文字が書かれた霊符として普段は存在している。
「…だが、そんなお前の勝手に彩羽の幸せは奪わせない。俺は、もう、誰からも、彩羽の笑顔を消させない……!!」
それが―――かつて心が傷ついても羽継を救おうと命を投げ出した彩羽への償いであり、守ってやれなかった彼女に誓った言葉であり、ひとりの男として捧げたものでもあった。
羽継の若さゆえの真っ直ぐとした想いを表すかのような矢は、榎耶の目には眩くて見ていられない。
澱んだ空気を拭き散らし、春の嵐を呼び込むその一矢から主を守ろうと鬼女と白虎が破魔の矢の前に飛び出す。光に食い殺されるように消えていった下僕たちを以ってしてもその威力は消えず、榎耶の心臓を狙う―――、
「富士の守」
紅の太刀を支えに、榎耶の代わりに矢を受けたのは先ほど討ったはずの武者。
矢を掴んだ腕のおかげか、破魔の矢はその胸の深くまで突き刺さりはしたが貫通して榎耶に届くことはない。
一度討たれ、それでも主のために強引に体を再生して馳せ参じた体は余波に耐え切れず、大きく罅を入れて大小の破片を落とし、終いには右上半分がない兜が首ごと落ちる。
それでも倒れることなく榎耶の前に立ちはだかる【富士の守】へ、羽継はもう一度矢を番える。
―――ここで、きっちりと彩羽の脅威を仕留めたかった。
「……なめるな小僧!」
だが榎耶とていつまでも呆けてはいない。
【富士の守】から飛び出した榎耶は懐に隠していた苦無を放つ。
毒が塗られたそれは純粋な武器であるため、羽継の異能では防げない―――舌打ちと共に回避行動に移った羽継に、問答無用の紫の扇が打ちこまれる。
「ぐっ…!」
扇―――いや、その鉄扇の一撃を頭に喰らった羽継の視界は歪む。
立ち上がろうとして立ち上がれず、意識を集中出来ないために必殺の桃の弓も姿を消してしまう。……完全無防備の男を前に、榎耶はニタァ、と笑った。
「さあ、お前の魂を寄こせ!!」
蹲る羽継の真上に、無数の穢れた黒の矢が現れる。
意趣返しとばかりに恋仇を穴だらけにすることに決めた榎耶の表情は嗜虐的で残酷さが滲み出ていた―――そのことしかぼやけた視界の中で確認出来なかった羽継は、死を目前としながらも諦めはしない。例え死んでも、目の前の女だけは道連れにする覚悟だ。
とはいえ指が上手く動かず、目当てのものを掴めているのかさえ分からない。
脂汗が血と混じって床に落ちるのと同時に、扇が「さあ撃て」と振り下ろされる。風を切る音が、羽継の耳にしっかりと届いた。
(――――彩羽、)
ざく、と。榎耶の前に、針山ができた。
*
心臓が、痛い。
しばらく家に引きこもってばかりの文に、この全力疾走は苦しい。掠れた声で目の前の親友の名を呼べば、同じく息を切らした彼女は何度か後方を確認した後、三年生の教室に入る。
「はっ、はぁっ…、……に、にげきれ、た、かな…?」
思わず床にへたりこんだ文に、彩羽は息を整えてから「うん」と頷く。
体力の限界が近い二人に対して手毬はまだまだ元気いっぱいだが、大人しく彩羽の周りをゴロゴロと転がるだけで静かなものだ。
「はぁ……、ねえ、彩羽さん…あの物の怪は、どうして動きが止まったの…?部屋の中も変になったし…」
「ん?ああ…元々はただの一般人の三好さんだからね。私を殺すための力と、私たちを逃がさないための結界を維持する力をちゃんと分配することが出来なくなったんだよ。
ゲームでいう処理落ちってやつかな……今回みたいなケースではよくあるんだ」
「処理落ち…」
「ま、ゲームと違ってこっちでは…その状態になった以上、結末は限られてくる」
静かな声で告げた彩羽の表情は見えない。
ただ、「ドウシター?ドウシター?」とぴょんぴょん跳ねる手毬をそっと撫でて、空いた手で黄金の光を生み出す。まるで花が満開に咲くように花弁を広げ、波紋のように広がり―――「あ、」と漏れ出た声は少し明るい。
「彩羽さん?」
「羽継と榎耶がいる…!結構離れちゃったけど、これなら無事お家に帰れるよ、文ちゃん!」
「本当!?」
疲労が滲んでいた文の表情が一気に明るくなる。
思わず飛び跳ねた彼女を微笑ましく見つめた彩羽は、「じゃあ、少し休んだら合流しよう」と文を撫でようとして―――すぐさまその頭を抱きかかえ、床に転がる。
「きゃっ」
突然の彩羽の行動に驚いた文だが、何か声を出す前に凄まじい衝撃波が走って目を固く閉じる。
ごろごろと床を転がり、ガッ、と壁に体を叩きつけられた文―――埃と生臭い匂いの中、文の胸を濡らしたものの匂いに目を見開く。
咄嗟に文を庇い、盾となってくれた彩羽の背に、大きな瓦礫が突き刺さっている―――、
「みぃつけたぁ」
―――置いてけぼりだなんて、そんな意地悪しないでよ。
少女の声をしたそれは、三本足に異様に長い腕を引き摺って、複眼を二人に向けていた。
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拍手を二種類用意しました!
今回は榎耶の「はじめて」のお話です。




