77.恋仇
実を言うと、怪異が織りなす異界と現実世界では時間にズレがある。
そのため、彩羽と文が怪異に飲み込まれた時間は三分にも満たない差であったが、文からすれば十五分ほどの恐怖を一人で味わうはめになり、彩羽の参戦は羽継が彩羽の拉致を知る頃になる。
そして彩羽の徹底破壊攻撃は現実世界にも影響を出し始め、羽継は急に窓硝子が吹き飛んだ二階の廊下を急ぐ。
時間のズレと同じく場所にもズレがあるため、羽継の滑り込んだ無人の廊下は異界で二人が逃げて行った廊下にあたる。
「……亀裂があるな」
獲物を逃がさないため、怪異の造る異界とは強固な檻だ。
それをぶち壊す力を当然ながら羽継は持っているが、強引な侵入は異界の主に即探知されて侵入と同時に攻撃されてしまう。もしくは妨害に遭って不利な条件で敵と対峙しなければならない。
少しの時間も惜しい今としては、彩羽の火力に負けた結果であるこの隙間はとても有難かった。
「……」
懐を探り、この日のための装備に誤りが無いか確認する。見慣れたものから見慣れないものまで点検し終えると、最後にジャッとトンファーを薙ぐように振るう。
ただの折れ難い強度は誇るそれを、羽継は確かめるように、気合を入れるように握る。汗が滲んだ。
(……今、行くからな)
息を吸う。正常な世界の空気に別れを告げるように深く吸うと、ぐっと唇を噛んでできるだけ異能を殺して隙間に潜りこむ。
踏み込んだ一歩が沈み込んで、羽継の体は真っ逆さまに落ちた。
「…っ」
ダンッと床に叩きつけられてごろごろと二三回転した羽継が強打した辺りを擦りつつ体を起こすと、血のように滲む夕日が目に入る。
周囲には吹っ飛んだ壁や扉、その他諸々の瓦礫が落ちていて非常に視界が悪い――何より彩羽の魔力は遠くに感じられて、羽継は冷えた廊下で一人舌打ちした。
その、瞬間だった。
「っ―――誰だッ!!」
背後からビュッと風を切って羽継の首を狙った敵に、薄く肌が切れた羽継が怒鳴る。
薄闇の中、不吉な夕日の逆光で表情の読めない敵―――そのひとは、
「やあ、会えて嬉しいよ……嘉神羽継…!」
揺れる長い黒髪、白い制服から覗く肌も白く、華奢なのに儚さや弱さを感じさせないものを内から滲ませる少女にして【東の守】篠崎家次期当主―――篠崎榎耶が、とても「嬉しい」とは思えぬ声色で彼の名を呼ぶ。
一歩近寄り、自ら爛々と殺意が燃える瞳を羽継に見せた榎耶は、身構える羽継を哂って暗い紫の扇子を前に翳す。
「死んでくれよ」
闇を凝縮したような激しい魔力は、周囲の光景をぼかし揺らして空気を張りつめる。
凶悪な力の高まりに身構えた羽継―――の背後にある影が、ゆらりと立ち上がった。
「くっ!」
ガッと上半身を押さえられ、羽継は振り払うようにトンファーを薙ぐと彼の鋭い異能が薄緑の軌跡を描いて影を抉り吹き飛ばす。
そして眼前に迫る幾つもの闇色の刃先を暴風のように吹き散らすと、足元の瓦礫を榎耶の顔目掛けて蹴り飛ばした。
「篠崎……お前、自分が何してるか分かってるんだろうな…!」
「もちろん」
優雅に瓦礫を避けた榎耶は、周囲の闇から力を吸うように自身の魔力を高めながら告げた。
「僕は、最初からこの時を待っていたのだよ。何の問題もなくお前を殺せる―――その時を」
「…お前に殺される理由はない」
「お前になくとも僕にはある。―――察しているんだろう?僕が、彩羽を一人の女性として愛してることを」
ニッ、と艶やかに笑んだ榎耶に、羽継はかつての彩羽を苦しめたものの面影を重ねて殺気立つ。
「綺麗な瞳」と数えきれないくらいに彩羽から讃えられた瞳を敵意に燃やしながら、羽継は吐き捨てた。
「ああ。……叶わない恋だ。それでも追いかけ続ける気持ちは出来るだけ否定したくないが……お前は駄目だ。
お前は―――【怪異】と同じ、気配がする」
気付かれないように、羽継はゆっくりとトンファーを握り直す。
見据える先、ゆっくりと瞬きをした榎耶の瞳は艶やかな朱い瞳だった。
「さすが、駄犬とはいえ鼻が良い」
ふ、と笑った榎耶は、扇子を口元に寄せて優雅に笑む。
「―――これでも安居院家の当主を騙せるくらいだし、なかなか自信があったのだけど。お前は毎回毎回僕を苛立たせてくれる」
「……誤魔化さないのか」
「誤魔化してどうする?お前は知らないだろうが、幾つもの魔導書を所持する禁書魔術師なれば【怪異】に近くなるのは当然のこと。どの家でも、力のある当主が求められるというのに」
「……それは、一般人に危害を加えなければの話だ」
羽継の低い声に、榎耶の瞳の色がどんどんと冷えていく。
夕日の赤に負けぬほど静かに翡翠の美をレンズ越しに見せる羽継は、一瞬躊躇ってから話を続けた。
「…おじさんから聞いた。お前は―――自分自身を襲った男子生徒に反撃したのではなく……所有する魔導書の餌とした。
そして獲物を奪われ荒れ狂う魔導書を力づくで捻じ伏せたと……そのくせ、調伏した魔導書を【霊安室】に献上した」
「ふふっ…そう、献上した代わりに僕の悪行は誰にも咎められない」
「―――だが、彩羽はどうだろうな?」
冷え切った会話の中、榎耶の黒髪がふわりと軽やかに揺れる。
「告げたところで、彩羽は何も言えまいよ。―――襲ってきた人間に怯えるあまり、自身の魔力を抑えきれなかったのだと言えば、あの子は黙るしかあるまい?
…いやあ、言ってくれてもいいぞ嘉神羽継。言って、あの子に『最低な人間だ』と僕を糾弾すればいい!そして彩羽の未だ癒えぬ心の傷を抉って滅多刺しにすればいいさ!できるものなら…ねぇ?……あっはっは!!」
「てめえ…!!」
「―――まあ、その心配はないか……だってお前は、今日この場所で死ぬのだから」
怒りに顔を歪める羽継に、榎耶は嗜虐的な笑みを浮かべた。
「…さあ来い、【富士の守】!!」
扇子を横に払うのを合図に、二人の間に闇が凝縮して繭のようになったかと思うと、中から紅色の刃が闇を切り裂き―――すぱんと繭が霧散して霧のように「式神」を包む。
―――がしゃん、がしゃんと霧から姿を見せるのは当世具足の武者だ。しかしあちこちに霊符が貼られ、古い注連縄、血のように赤い不吉な椿が連なって武者を飾り立てている。
目元からは静かに黒い涙を流す武者だが、その変わり兜は兎の耳を模している。片耳にある、両端に鈴飾りの付いた白いリボンだけはやたらと綺麗で、兜以上に武者の雰囲気から浮いていた。
「彼は僕の手持ちの中でも一等優秀な子でね……調伏には手間取ったものだ」
ふふ、と笑う榎耶の言う通り、この式神は恐ろしくまずいものだということを羽継はどうしようもないほどに理解していた。
鎧から溢れる力だけでも羽継の肌を焼くようで、今まであらゆる怪異も異能も消し飛ばし喰らい尽くしてきた羽継の力をものともしない。
さらに厄介なことに相手は太刀を振るう―――流石に達人相手に斬り結ぶほどの実力を持たない羽継にとって、相手にしたくない敵である。
(…全力で消しにかかれば…一太刀貰う覚悟で飛び込めば……いや、ここは一旦逃げるか…?)
「……お前との殺し合いならいつでも請け負ってやる。だがな、今はダメだ。お前もあいつを愛するというのなら、今だけ共闘してくれ」
「…言われるまでもない」
先延ばしにする。その間に対策を練る―――などと、本気で考えてはいなかったが。
「共闘?当然じゃないか。…彼女と共に戦う存在は、僕だけで十分だッ!!」
思った通り榎耶の予定は変わりそうになく、榎耶の命により【富士の守】は力強く蹴り出して羽継に迫る。
赤い刃が振り上げられるのをすんでのところで避けた羽継、その不安定な体勢を狙われて横に太刀を薙ぎ払われる。これをトンファーで受けた羽継だが、拮抗する間もなく得物を二つに切り裂かれこらきれずにそのまま吹き飛ばされた。
ごろごろと転がる羽継に、【富士の守】は突き殺さんと刃を何度も穿つ。
「…っ…!」
脇腹をかすり、腕をざっくりと斬られた羽継だが、悲鳴を上げる無様だけはなんとか榎耶には見せず、避けるのと同時に体を捻って【富士の守】に切り裂かれたトンファーを投げつける。
ガン、ともろに顔に喰らった【富士の守】へと次に投げつけたのは真珠のような小さな石で、簡単に割れた石が霞のように胡散―――するとすぐに白い手の形になって、【富士の守】の影から生えた無数の手がその身を封じ込めて鎧に爪痕を刻む。
「……チッ、流石は朝桐家…いや、おばさんが流石と言うべきか…簡易的なものでこれか」
朝桐―――彩羽の母の実家は安居院ほどではないが、歴史のある西洋魔術の流れをくむ家である。
探究するものは闇の中の闇であるせいか、この家には頭の良い問題児しかいない。そういう意味でも有名であるが、この家の最も得意とするのは(個人差はあるものの)呪よりも「物にこめる」魔術であり、黒魔術を極めたからこそ闇に対抗する術具ことアミュレットやタリズマンなどの制作に秀でている。「朝桐」の術具はこちらの世界では信頼のあるブランド品のようなものだった。
「備えあれば憂いなし、お前は毎回それのおかげでちょっぴり長生き出来ているが……悪い事は言わない、無駄な足掻きはお止めよ坊や。今なら一瞬ですっぱりさっぱり人生を終わらせてあげよう」
「断るッ!!…このクソアマ、今すぐその余裕ぶった面ぶん殴って檻付きの病院に突っ込んでやるよ!」
「おやおや威勢だけはいい。活きがいいのは良いことだ。良ければ良いほど、この子たちは喜ぶからねえ…!」
ずずず、と榎耶の影から白虎が、鬼女が、薄闇からその輪郭を現す。
愛でるように虎を撫でた榎耶は、なんてことのない話をするような表情を羽継に向けた。
「腹立たしいが、お前の魂は上等だからね。本当は肉も臓も頂きたいところだが、流石にそれは君のご両親に悪い」
「何が俺の親に悪いだ、白々しい…!お前はただ、俺の死を彩羽に突きつけるために残したいだけだろう」
「あはっ、正解♥」
「…ふざけやがって……、俺にはお前みたいな頭のおかしいやつの相手をしてる暇はない。俺には、」
「―――『俺には彩羽を守る役目がある。例えお前がどんな化け物を差し向けようと、俺は負けない。例え刺し違えても、死んでも、彩羽は絶対に俺が守る』……だろう?」
「…!」
「ハッ、死んでも守るぅ?毎度毎度、ただの人間がなぁにを言ってるのか!そういうのは妄想だけで済ませておいて欲しいものだなあ?
所詮ヒトの身であるお前には、死んだところで彼女の背後霊になるくらいしかできない。霊的な守護など、せいぜいが障子紙程度にしかならない!その程度の存在が、何を言うか!」
榎耶の嘲笑と共に、「ばきん」と折れる音が響く。
見れば【富士の守】の右腕を抑え込んでいた魔の「手」は粉々に吹き飛ばされており、他の封じも罅が入って限界を示している―――。
「……それでも、お前はその程度の男に負けてきたんだろう?」
内心の焦りを隠し、羽継は榎耶を鼻で笑う。
心底馬鹿にした顔に、榎耶の表情はスッと落ちて無表情になる。
「さっきの俺の言葉を先んじたこともそうだが、毎度毎度だなんてさも見飽きたと言わんばかりの台詞に俺のメールアドレスの件と……何より、あの無数の抜け穴があったこの異界で俺を『待ちかまえて』いたな。
―――そこから察せられるものはただひとつ。お前……魔導書を使って、巻き戻してるな…?」
「もう、お前にこの子はあげない」―――そう喧嘩を売ってきたときは何のことか分からず、しかし直感的にその喧嘩を買う決意をしてしまった羽継の答えがこれだ。
なんてことはない、彼の幼馴染―――安居院家の祖は、時間を旅する禁書魔術師。天才ゆえに魔術師の中の最高位、「魔法使い」として人生を謳歌したという彼の話は、彩羽と共に何度も聞いた。
対する榎耶は、無表情から静かに笑みを形作り、同時に冷え切って羽継の肌を刺すような―――確かな殺気を出して、口を開いた。
「少し違う。僕は時間を巻き戻してはいない……平行世界を旅しているのさ」
―――そして、何度も恋に落ちては恋に死ぬのだと、少しだけ泣きそうな顔をした。
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