70.その願いは美しくとも、
魔導書の不正所有者が失踪する―――ということは、珍しくはない。
その失踪理由は大きく分けて三つあり、一つは「燃料切れ」こと魔導書による奇跡を維持させるために燃料として差し出していた精神が尽き、ついには魂を差し出してしまうケースだ。
この場合、所有者の魂を喰った魔導書は新たな所有者を探すため、今までの捜査が無駄になるうえに被害者も新たに増えるという追跡者にとって最悪のケースでもある。
二つ目、これは魔導書所有者がどこかの術者などに襲われ、どこぞに監禁・殺害されて隠されているケース。正直これは、襲撃者の身分と背景によっては捜査打ち切りになる。
三つ目、狙われていることに気づいた所有者が自力で、もしくは魔導書の力を用いて逃亡しているケース。
―――おそらく、今回の件は三つ目のケースである可能性が高い。
まず、一つ目のケースであるならば、今回の事件にまつわる魔導書の半分である「手鞠」を所有している私の元へ魔導書が現れるはずであり、その気配は今のところない。
二つ目、安居院家の領地内、ならびに安居院の次期当主が所有するかもしれないという魔導書を横取りするリスクを考えれば普通は手を出さない。
だって、手を出したとして魔導書の半分をこちらが所有しているのである。魔導書を完成させるためには私から「手鞠」を奪わなければならないわけで―――まあ、強引に奪えたとしても私のお父さんが犯人への報復を起こすことを思えば、やっぱり手を出さないだろう。
となれば三つ目、たぶんこれは、魔導書を通してタカ君に探知されてしまったことに気づいた所有者―――「三好さん」が、捕まる前に逃げたケース。
ほぼ確実にこれだろうとのことで、お父さんは信頼している部下さんとお母さんに頼んで三好さんを追い、お父さんは万が一にも三好さん―――いや、「魔導書」が私のもとに現れても良いようにと帰宅している。
「いいかい彩羽。寝込みを襲われるかもしれないから、今日はお父さんと寝よう」
私が美味しいと絶賛していたシュークリーム(全種類そろってる)とトランプ(お父さんがよく見る占いコーナーにあった、今日のラッキーアイテム)を両手に、お父さんはいつも通りの真面目な顔で告げた。
……その背後で、お父さんに付き添っていた部下さん(帰りに購入したらしい私たちへのお弁当持ちである…)は無言で天井を見上げ、お父さんの何とも言えない宣言にツッコミを入れないよう耐えている。対して、羽継は残念すぎるお父さんを前にして背筋を伸ばし、口を開いた。
「おじさん、俺も居させてください」
「ダメだ」
「俺は確かに未熟者ですが、少しはお役に立てます。もし俺の力が通じずとも、彩羽の盾役になることは出来ます」
「羽継!?」
何言ってんの、と袖を引いても、羽継は私を見ずにお父さんの目をじっと見つめていた。
「…先日は、若さゆえの見苦しいところをお見せして申し訳ありませんでした。謝ってももう一度俺のことを信用してはもらえないことは分かっていますが、俺が彩羽のためならば命を差し出せる決意であることだけは、信じてください」
固い声で告げると、羽継はきっちり九十度の礼をする。
お父さんはしばらく口を開かなかったが、羽継は焦れることもなく静かに礼の体勢のまま。―――逆に私がそばであたふたして、ついにはお父さんに「なんとかして」と目で訴えると、私の訴えに負けたのかお父さんが渋々といった様子で羽継の名を呼んだ。
「―――羽継君」
「はい」
「……まあ、うん……いくら君が大人びたように見えても、やっぱり子どもだからね……若さゆえに自制が効かないこともあるものだ」
「……」
「僕は正直未だに許せそうもないが、君には彩羽のことでたくさん迷惑をかけた。……だから、今回のことは僕も見なかったことにしよう」
「おじさん…」
そっと顔を上げた羽継を、お父さんは腕を組んだまま睨んでいる。
そして、
「―――しかしだ。これからは彩羽の隣を歩くことは許さん!三歩だ、三歩の距離を開けろ!あと交際の申し込みをしたければ僕と勝負しろ!じゃなきゃ認めないっ。お父さん絶対認めないぃぃぃぃぃ!!!」
思わず、冷め切った目で子煩悩な父を見る。
部下さんは静かに弁当をテーブルに置き、三人分のお茶を用意し始め、羽継は「分かりました―――…ではッ!」と懐から黒い針を取り出した。
(……お腹…空いたなあ…)
最終的に肉弾戦となった二人の騒ぎを無視して、私は部下さんと手鞠と一緒にお茶を楽しんだ。
「…あー…ごほん……―――さて、話を聞こうか」
勝敗―――は結局着かず、ついには殴り合う二人にお母さんが残していった使い魔(ナメクジのような形で、ドロドロしてる体には目玉が幾つもあって気持ち悪い…)が仲裁するかのごとく抱きつき……、突然の化け物乱入に、二人の悲鳴が上がった。
そしてそのままお風呂直行して今に至る。
ちなみにお母さんの使い魔を吹っ飛ばしたのが羽継のせいか、お父さんは今のところ文句を言えないようで、羽継は機嫌良さげに私の隣の席でお茶を飲んでいた。……あ、それから部下さんは「婿いびりはほどほどに」と軽口を叩いて帰ってしまった。
ゴタゴタした騒ぎも落ち着いて一息を吐いて―――私は、一応笑顔を取り繕っているお父さんに榎耶から聞いているらしい話の確認と、未確認の部分もある文ちゃんの能力についても話す。
やっぱりお父さんは文ちゃんの能力に難しい顔をしていたが、私が指導し榎耶が様子見をする―――ということについては意外にもすぐに許可を出してくれた。
「…いいの?」
「まあ、どのみち彩羽も禁書魔術師になるのだから……案外、脅威がそばにいた方が成長するかもしれないしね」
―――それに、彩羽がそこまで認める子なのだから、君をいたずらに傷つけることもしないだろうし。
お父さんは微笑んでお茶に口をつけると、小声で「あとセコムも付いてるし…」と呟いた。……セコムってお父さん……。
「…それより彩羽。おまえ、最近変な現象に悩まされてはいないかい?そろそろ魔導書の影響を受けて怪奇現象に遭っていてもおかしくないんだが―――…こう、知らない場所に誘き出されたとか……」
「え?ああ……ああ!あるあるっ」
「あるのか!?」
唐突な質問に思わず呑気な返事をしてしまうと、静かに私の分のお茶のお代わりを淹れてくれていた羽継が叫んだ。
思えば、言おう言おうとするたびにあれこれと言い出す機会を流してしまった気がする。
「あのね、夢で…」
「夢…ああ、そういえばお前、前―――っておい、変なことがあったらちゃんと教えろってあんなに口酸っぱくして言っただろうが!」
「だ、だから今言うの、今!」
テーブルを叩いてしまうと、そのはしたなさにお父さんがわざとらしく咳をする。
しかしその言葉ではない注意は羽継にも向けられていたようで、少し冷静になったあの子も食ってかかっている場合ではないと思い直したのか、渋々といった表情で席に着く。
私は、気まずいままに口を開いた。
「えっとぉ……、その、ずいぶん前から、知らない林道にいてね―――」
―――林道の先、行ってみたいが、行けば帰ることは出来ないだろうと分かる社に行きたがる。
そして、行くか行かないかどちらを選択するにしろ、猫のお面を被った狩衣姿の男が、なんとか私を連れ去ろうとするのだ―――。
「でも、毎回目が覚めたり、……ああ、そういえば、羽継が止めてくれたこともあるよ」
「……奇っ怪な面に、矢が刺さったやつか?」
「うん。あのときはありがとう、羽継」
「………べ、べつに―――」
「あ、羽継自身が出てきたこともあったなあ。羽継がね、こう、手招いていて……」
「……それは身に覚えがないな」
「…。……彩羽、その夢を見たとき―――手鞠は我が家に来ていたかい?」
「え?ああ、居たよ。そういえばあの夢も、最近のことだったかなあ。でもまあ、あれって私の防衛本能的な何かが……」
「いや、それは手鞠だ」
「えっ」
「神の干渉にちょっかいをかけられるのは、魔導書だけだ」
「えっ」
私と羽継は、幸せそうにナポリタンを大量に啜っている(汚い…)手鞠を見つめる。
けれど手鞠は二人分の視線も気にせず、ずずず、とうるさくナポリタンを楽しんでいた。
「…おそらく、彩羽への精神干渉に対抗できるくらいには彩羽との縁が深まり馴染んできたんだろう。
撃退せずにさっさと連れ帰ったということは、向こうが強すぎるのか……いや、強かろうが弱かろうが、片割れの身では、流石に神と殴り合いは出来ないか……」
難しげな顔をしたお父さんに、「…つまり、手鞠は仕事をしたってこと?」と問えば、「ああ、初めてにしては良い仕事だった」と答える。
「頼りないが…魔導書の半身の協力が得られるというのなら、そこまで酷い状況にはならないだろう」
「そっか……って、そういえば、まだあるの」
「えっ、あるの?」
「うん…、昨日のお昼のことなんだけど、文ちゃんと話していたときにぬいぐるみ―――まだあの時はそうと知らずに神様の分霊を抱っこしてしまったのだけど、そのときにこう…意識ごと攫われて」
「は……あ、あの時言いかけてたや―――ってオイ!お前何回重要なことを相談してないんだよ!いい加減にしろ!」
「ご、ごめんなさい……」
「まあまあ……それで?どうだった?神様に会えたのかい?」
「うん―――、なんだか、神様らしい…威厳、というのがなくて……不思議で、ふわふわしているような……そういえば、『僕を受け入れてくれたね』とか勝手に思い込んでた」
そう言うと、手鞠の汚い食事の音以外の音が消え、二人は難しい顔をする。
―――それからややあって、羽継が片手をちょっと上げた。
「おじさん、もしかしなくても彩羽……神隠し、されかけてませんか?」
「ああ……神隠し、されかけてるね……」
「えっ」
頭痛を堪えるような二人に、私は思わず立ち上がった。
「なんで!?わ、私が文ちゃんの友だちだから…?」
「それもあるだろうが……彩羽、おまえは魔術師の中でもとても魂が綺麗なんだよ。若さもあって、視えるものからすれば星みたいにキラキラしているんだ。
恐らく彼女の友人ということで好感度はもともと高かったんだろうが……うん、日中に強引に連れて行こうとしたということは、だいぶ惚れ込まれているね」
「ひぃっ!?」
恐ろしい事実に、私は椅子を蹴って数歩下がってしまう。
だって―――神隠しって。そういうのって、もっとこう……お、お淑やかで反撃するほどの力もない少女とかが遭うものだと思っていたのだ。
それがまさか、私。―――こんな私の魂に、惚れ込んだって?
「……だが、そこまでしておいて逃がすとは……彩羽、どうやって現実に戻ってきたんだい?」
「で、電話のひとが……」
「電話……ってまたおま……ハァ…」
呆れた羽継を無視して、私はまず手鞠が半身と分かたれる前―――封印予定だった魔導書が奪われどこぞに消えた頃から変な電話がかかってきたことを伝えた。
最初はノイズが酷かったが、日が経つにつれ聞き取りやすくなり、内容が分かるにつれて危険性はないと判断したこと。
伝えなかったのは文ちゃん関連で忙しかったのと、たいてい我が家に居るときにかかってくるせいか危機を感じなかったこと―――。
そう説明すると、お父さんも羽継もお小言は言わなかった。
「……彩羽、その電話の相手は誰か…分かるかい?」
静かなその問い。―――私は少し躊躇って、うん、と頷いた。
「昨日、神様に意識を攫われたとき―――私の背後から、同じ声がしたの。『あなたはちゃんと、帰らなくては』って……そう言って、私を逃がしてくれた」
そのとき。私は携帯越しではない、直に聞くことで―――彼女が誰なのか、気づいてしまった。
まるで、文ちゃんが大人になったような……品のある、優しいあの声は。
「文ちゃんの、お母さん……」
―――「私のことを誰にも言わないで」と言い、「許されない」と嘆き。
それでも「あいたい」と泣いた彼女は、きっと。娘に忍び寄る怪異から守ってくれと、ずっと私へ必死に頼もうとしていたのだろう。
「…たぶん、土地が怪異のせいで歪んで、あちらからの接触がしやすくなったからこそ出来たんだと思う」
「なるほど……今は、連絡は?」
「ない……繋がって、ほしいのに」
―――文ちゃんはまだ、誤解したままなのだ。
自分が両親に愛されなかったと、先に亡くなってしまった兄こそが愛されていたのだと。母親の目に映るのは、愛する亡き兄だけで良かったのだと。
自分なんて、必要とされない自分なんて―――いらないのだと。
……その誤解はきっと、文ちゃんが自分の能力を知ることによって、全ては誤解であったと気づくのだろうけど―――それと同時に、気づいた瞬間、文ちゃんは今度こそ発狂するかもしれない。
故意ではないとはいえ、自分の力で愛する人を狂わせてしまったのだから……。
「文ちゃんが前を向いて生きていくためには、自分の―――最初の被害者となってしまった母親へ、謝らないといけないのだと思うの。
謝って、許されて、そしてお母さんの本当の想いを聞かなきゃ、きっとあの子は立ち上がれない」
着信履歴も残らないから、こちらからはかけられない彼岸の電話。
―――もう一度その奇跡が与えられるなら、文ちゃんの未来のために繋がって欲しい。
そして、死してなお娘を愛する母親のためにも―――。
「出来ル!」
「……え?」
「出来ル!二ツ、揃エバ。向コウ、繋ガル。出来ル」
「ほんとに!?」
「出来ル―――!オ腹イッパイ、ナッタラ――繋ガル――出来ル!」
お腹いっぱい、とは。魔力のことだろうか。
それなら問題ない。私はかなり魔力が多いし。たらふく食わせてやるわ!
「よっしゃ!それなら私、絶対魔導書を完成させてみせる!そして見事使いこなして―――文ちゃんに、最高の奇跡をみせる!」
「……まったく…、危険極まりないものを命懸けで奪還して最初に願うのがそれとか……。…まあ、目標が出来てよかったな」
「うん!」
「…………」
―――呑気に笑い合う私たちから視線をそらし、お父さんは手鞠を見る。
手鞠は、ナポリタンで赤くなった口を三日月のように釣り上げて、小さな声で言った。
「久々ノ、イケニエ、ゴ飯。楽シミ」
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