36.私のかわいい妹ちゃん
悲鳴も何も上がらなかった代わりに、沈黙だけが部屋に満ちた。
私はチラッと「ぷにとぅるん」が転がっていた所を見る――すでに姿を隠しているのか、消えてしまっているのを確認してから口火を切った。
「あの…穂乃花、あのね、」
「う…うん…?」
「これね、あの……違うから…」
「…」
「べ、ベッド下におっきい虫がいてね、吃驚して飛び出したら羽継がいてね、」
「……」
「ほら、私、寝るとき胸元を楽にしないと寝れないからさ、こんな格好のままで…ね?」
「あ、ああ、うん…それで…彩羽が手汗で滑って釦が留められないとか言うから…俺が嫌々…本当にとっても嫌々と……」
私が小突くと、羽継はぼそぼそした声で説明を繋いだ。
すると沙世ちゃんたちはぎこちなく目配せを交わし、穂乃花は「…そっか」と頷く。
「…そうだよね、嘉神はそういう奴じゃない」
「…佐城…!」
「ごめんごめん、疑っちゃった」
「うん…ごめんね…そんな目で見ちゃって」
「ごめんね」
「……お前ら…!」
―――穂乃花の謝罪に沙世ちゃんたちも疑惑の目で見るのをやめた。
あの子たちが口々に謝るのに羽継は安堵した表情になって、緊張した空気が緩む。
「…本当にごめんね嘉神。――で、感触はどうだった?」
「とても柔らかかっ………」
―――気が緩んで息を吐いた瞬間の、優しい声での問い。
羽継は何も考えずにスルッと答えかけて、気づいた途端にサァ――っと青い顔になった。
そして力が抜けたようにその場に座り込んで、「違うんだ…違うんだ…」とずっと呟いていた。
…ちなみに私はというと、その感想をスイッチに、真っ赤になって胸を押さえていた。
ああ、どうしよう―――さっきまではホラー電話だの「ぷにとぅるん」の襲撃で考えている暇もなかったけど、落ち着いたら今朝の記憶とか感情を思い出して熱くなってしまった。
羽継なのに羽継じゃないような不思議さと不安。唐突に羽継を「男の子」と認識してしまった衝撃。
それらが一度に殴りかかってきて、頭から熱湯を被ったようだ。
「ばかぁぁぁ……」
聞かれないように小声で吐き出したのに、隣の羽継に聞こえてしまったようで「ごめん…」と謝られた。
「ごめん……」
チラッと見下ろすと、羽継は両手で顔を隠している。
けれど耳までも赤くなっているのは隠しきれていなくて、見てしまった私は熱さに耐え切れず、「ばかぁぁ……」と吐き出すと膝を抱え、目を伏せた。
*
それから、私は集中力が途切れてばかりで使い物にならなかった。
気づいたらノートに羽継ベアを落書きして、あまりにもアレな絵に落ち込んでたら文ちゃんが大幅修正してくれたし。
先日の事件のせいで中止されたプール授業の代わりとしてテニスをすることになった時も、まともに動いていない私の代わりに素晴らしいプレーをしてくれた(圧勝だった)。
工作の授業で平行四辺形に傾いている私の不思議な本棚も無事直してくれた―――文ちゃんってマジ天才だなあと感謝と称賛する反面で、文ちゃんってダメ人間製造機だなって思っちゃいました。……甲斐甲斐し過ぎだよ!ありがとっ。
―――そう最後の一行のみ言いますと、文ちゃんはくすりと笑って、「今日だけだよ」と言う。……ああ、君ってそう言いながらズルズルと甘やかすタイプだわ、と確信した私は文ちゃんのぷにぷにほっぺを突っつきながらもう一度「ありがとねー」と笑った。
文ちゃんはそれをくすぐったそうに受けながら、ふと目を細めて、
「…彩羽さんみたいな姉さまがいたら、楽しいだろうな……」
―――呟いた自分の、その想像に、微笑んでいた。
「え、意外だなあ。文ちゃんって妹とか弟とか欲しがるタイプかと思ってた」
「ん…いや、弟は…国光くんで十分…」
「じゃあお兄ちゃんは?」
「………。…ううん」
「なら妹は?私なんかこんなんだし、どっちかってーと姉より妹ポジじゃない?」
「そうかもしれないけど…私、姉さまがいてくれたらなってよく思ってたから―――」
少し寂しそうな表情に変わった文ちゃん。彼女に「そっか」と頷いて、ぷにぷにと押していた指を引っ込めた。
「でも、その気持ち分かるなあ。私も一人っ子だからさ、たまに上とか下の兄弟いたらなーって思うもん」
「彩羽さんも?」
「うん。うちって両親共働きで忙しいからあんまり家に居てくれなくてさあ。羽継がよく家に来て面倒見てくれるからそんなに寂しくはないんだけど…でも、あの子にも本当の家があるし。やっぱ寂しいなって思う瞬間はあるね」
「そうなんだ…彩羽さんはえらいね」
「そんなことないよー、私なんて家事炊事出来ないし。できることと言えば風呂沸かすのと洗濯機回すくらいでさ。…あ、掃除機も使える。それと電子レンジ」
「ふふっ、できることいっぱいだね」
指折り数えて言えば、文ちゃんは面白そうなものを見る目で私を見る。
「…そんなダメ姉でも、欲しいのー?」
「うん。…私ね、シャキシャキしたお姉さんが欲しいの。私はすぐに諦めたり怖じけたりするから、引っ張っていって欲しいというか……ほら、女の子がいっぱいの賑やかなお店とか行くの、結構怖いし…」
「あー、確かに怖いよね。福袋とかバーゲンとか始まると戦場になったりするし。あと見たい商品があっても、そこに女の子が数人すでに集まってると入りづらいしね」
「そうなの…だからいつも、そういう店には寄れなくて…」
文ちゃんはそう言うと、チラッと私を見上げた。
じーっと何かを訴えるようなその上目遣いはくそ可愛い。可愛いけれど、これが「怖気づく」彼女の面なのかと思うと、なんだか本当に考えすぎの妹を持った姉のような気持ちになってくる。
「―――じゃあさ、今度の休みに文ちゃんが苦手なお店、巡ってみようよ。ちょうどいいから夏休みに着てくものとかも選んじゃお!」
「ぅ…うんっ!」
「ついでにこの前メールで教えたお店も行っちゃう?割引券貰ったんだよねー」
「うん!――あ、えっと、ふ、二人で行く?それとも…その、穂乃花さんたちも、来てくれるかな?」
「んー、穂乃花は習い事があるからなあ…叶乃ちゃんは四十九日だか何だかが云々って…沙世ちゃんも何かあるって言ってたような…」
「あ、家族で遠出するって言ってたね」
「そうそう、それだわ。…んー、じゃあアレだ、荷物持ちに羽継でも―――」
誘う? と普段の癖で言いかけて、私は今朝のことを思い出して固まった。
やっぱダメ、と違う案でいこうとしたけど、いつもは空気を読んでくれる文ちゃんが何故かふわっと笑って、
「―――うん、じゃあ誘おうね。国光くんと嘉神くん」
「まっ…!」
待って、と手を伸ばす前に、文ちゃんはすでに流鏑馬に電話していた。
とてもイイ笑顔で要件を伝える文ちゃんは、きっと隠れSだったんだなって思いました。
なので、私だってSっぷりを発揮してやらあと口を開いた――直後に担任が入ってきて、帰りのHRを始めてしまうもんだから、私は不貞腐れて羽継ベアを文ちゃんのテディベアに突撃させて遊んでた。反撃された。
「くっそー…文ちゃんマジで文ちゃん」
「なあに、それ?」
「べっつにー…」
「拗ねちゃった?…飴玉あげるから機嫌直してほしいな」
「……何味?」
「林檎」
「……ゆ、許してあげないこともないんだからね!」
「それはよかった」
先生に注意されないように小声で話していると、文ちゃんがそっと綺麗な色の飴をくれた。
私が「おいしそー」と飴玉を光にかざして遊べば、文ちゃんは保護者のような顔で私を見ていた。……いや、何も言うまい。言うま……あ。
そうだ、言わなきゃいけないことがあったんだった。
「―――ねえ文ちゃん」
「なあに?」
「文ちゃんは私の妹分なんだから、もっと頼ってもいいし甘えてもいいんだからね」
「え………」
「いくら迷惑かけたって、いいんだから。何かあったら教えてね」
ずっと言おう言おうと思ってタイミングを逃してた言葉。
まあ今の文ちゃんは基本的に私と一緒に行動してるから、大丈夫だろうけど…ずっと一緒ってわけでもないし。やっぱり口にしてもらわないと分からないこともあると思う。
特に文ちゃんは何かされてもだんまりを決め込みそうだし…。
「……うん。ありがとう……」
俯いて、そう呟いた文ちゃん。
綺麗な髪の隙間から見えたその表情は、嬉しそうだった。
*
―――先日の話である。
「それ」は確かに「彼女」の元へと災いを齎しにいったのだが、「それ」にとっては運悪くもその日、「彼女」は神のお膝元に居たのである。
癖っ毛のせいなのかよく絡まる酷い神の御髪を優しく梳いていた「彼女」は、すぐそこに迫る災いに気づくことなく、おぞましい神の御髪を三つ編みにし始めていた。
〈ア゛――――――――――――――――ァァ―――――――――――――〉
「それ」の醜い声か、それとも気配にやっと気づいたのか、「彼女」はハッとした顔で災いを見る。しかし見るといっても、この時の彼女には黒い靄が薄らと見えただけであろう。
災いがその巫女装束の白に触れる―――あと少しのところで、神によって「ブゥン」と鋭く空気が切られ、災いは真っ二つになった。
しかし、これで滅びるほど「それ」は低級の存在ではなかったため、「それ」はすぐさま遠くへと逃げて身を潜めたのである。……「もう片方」を残して。
逃げた片方が「黒」ならば残ったそれは「白」。
二つ揃って正しく発動する「それ」は、本来ならばもう発動することはなかったのだが、強力な術者が何人も住むこの土地と、彼らの力の余波に影響されて「変化」してしまった―――その結末はさておき。
善なる「それの片方」が急いでぺったんぺったんと逃げるのが薄らと見えた「彼女」は追いかけようとするが、神にねだられたために負うのをやめて三つ編みを再開した。
「毛玉は、目を離すとすぐにもふもふしちゃうねえ」
「彼女」が二つ目の三つ編みを始めると、神の幾数の目玉は機嫌よくあちらこちらへと動く。
そのままずっと神様の御髪を結んだ「彼女」は、最後に花飾りを付けて腰に手を当てた――ああ、いい出来だと。
出来が気になる神様のために鏡を持ってきた「彼女」は、優しく微笑んで、
「ほら、かわいい」
両手で抱いた鏡に映った姿は、まるで蜘蛛のような異形であった。
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