10.兆し
それから数日して、彩羽と文の仲は緩やかながらかなり深まったのだった。
元々社交的で明るく、なにより甘えん坊な彩羽と大人しいが世話好きの文である。仲良くならない方がおかしいくらい、二人とも相性が良かったのだ。
「――あ、次は体育か」
気づけばもう三限目。その授業欄には、しっかりと「体育」の二文字があった。
「………私も、ご一緒させてもらってもいい…?」
隣で教科書を片付けていた文が、申し訳なさそうにお願いをしてくる。
一応しばらくは先生の勧めで授業中は保健室で休んでいたが、そろそろ授業にも参加したいと言い出したのは昨日の体育が終わって迎えに行った帰りのことだった。
真面目で気を遣う性分の文である。ずっと誰かに迷惑をかけるのも嫌なのだろうし、仲良くなってきた彩羽たちと一緒に活動したくもなったのだ。
受けた心の傷はまだ癒えていないが―――確かに今、文は少しずつ良い方向に変わりつつあるのだった。
「当たり前じゃん!早く着替えてバスケしよ!」
「えーっ、私は自由時間はバドミントンしたい」
「私もー!御巫さんはバド得意?」
「えっ、あ、う、うん!」
同性として許すまじと怒っていた穂乃花たちも、幼馴染しかいない友人関係に入ってきた文に戸惑いはしたが拒絶はせず、今ではグループの中の末っ子みたいな扱いだ。当然、この同行に嫌な顔はしなかった。
―――しなかったが、一部の子からは嫌な顔をされたようだ。
「―――はい、じゃあ今日はバスケをするから、自分たちで組を作りなさい」
ちなみに晴れていればあの延々と外を走り続ける苦行の時間だったのだが、今日は朝は晴れていたのに二限目からは雨が降ってしまった―――ので、本日は室内球技に予定が変わったのである。
「あとちょっとでプールだねー」
そう、あともうしばらくするとプールの授業だ。………どうしよう、と彩羽は明後日の方向を見つめた。
「……?」
「あー、気にしなくていいよ、彩羽はカナヅチなだけだから」
「嘉神くんに毎回回収されてたよね、あんた」
「今年は誰が回収すんのかねえ…」
髪を低く一本に結った文は、バスケットボールを手に暗い表情の彩羽を見て首を傾げている――のを、穂乃花含め薄情な友人たちがにやにやしながら「溺死一歩手前」エピソードを語り始める。
(……ふん、まあいい)
美少女にして天才の私でも、一つくらい駄目なものがあった方が可愛らしいってものだ。―――彩羽は一人、心の中で自分を励ました。
「そういえば、御巫さんって泳ぐの得意だよね」
「うん……でも、潜るのが一番好き」
「あー、潜水型かー」
「私、足引っ張るのが好きなトラップ型だわー」
「ちょっ、なにそれサイテーじゃないのー!」
文の久しぶりの体育の授業はひとに囲まれることから始まった。
成績優秀の物憂げな雰囲気ある美少女、立ち居振る舞いも完璧―――と、妬まれること確実の要素ばかり持っているのに声を上げないから余計に絡まれる文であるが、別にその性格に問題はないのだ。
あるとしたら彼女の悪縁で、主に「近づいて自分まで被害に遭いたくない」というタイプから避けられてきた彼女だが―――ここ最近に文と仲良く過ごしている彩羽たちを見て、何人かは接しても安全だと思ったのか話しかけられているのである。
そんな文に良い変化を齎した彩羽もまた、少しずつ親友たち以外の子たちとも触れ合えるようになってきた。
物静かで控えめで、しかし口にしないだけで自分の意思を屈さない強さもある文という少女は、最初こそ彩羽に消えない傷の残った過去を思い出させたが、今ではその違いをはっきりと突きつけることで彩羽に「過去」と「現在」の違いを見せつけるのである。
―――もうあれは終わったこと。今は過去とは違う未来を歩んでいるのだと、振り返りそうになる彩羽の背を押して歩かせてくれるのだ。
そして少しずつ、他者に怯えていた彩羽は「自分を傷つけないひとたち」から離れて世界を広げる一歩が踏み出せたのだ。
そういう意味でも、彩羽と文の相性は良く、少しずつお互いに良い変化を与えあっていた。
「御巫さんってシャンプーとか何使ってるの?こんなに長い髪とか大変じゃない?」
「慣れちゃうとそうでもないの。シャンプーは…あの蜂蜜色の容器のかな」
「あーっ、あれって高いけど可愛いよねー!」
(……この様子だと、みんなあの噂は信じてないんだろうな)
穂乃花が胸糞悪そうな顔で教えてくれたことだが、ただでさえ妬まれやすい容姿の才女だというのにそこに恋愛の揉め事―――文に片思いした男子生徒(ことごとく顔が良かった)がフラれた腹いせもあるが、フろうが片思いで留まっていようが男子生徒のファンから睨まれ嫉妬の対象になったせいで、やれ援助交際してるだの寝取るだの、どこの携帯小説の阿婆擦れヒロインかというくらいの噂に加え、呪われているから近寄るなだとかむしろ人を呪っている魔女だ、みたいな噂まで流されている。
ありきたりネタ過ぎるうえに最悪だ―――というか、やろうと思えば文は、訴えれば簡単に勝てるんじゃなかろうか……。
「―――ね、御巫さんってまたコンクールに絵を出すんでしょ?どんなの描いてるの?」
「実家…かな」
「ああ、御巫さんの家ってすっごい立派だもんねえ」
ニコニコと笑いながらの会話ではないが、文の落ち着いた声はどこか――少女らしい柔らかさも孕んでいた。
立ち話を終えた彩羽も会話に参加して、彼女の部屋に入ったと言えば穂乃花たちは「いいなあ」と言って、「ホテルの客室みたいに上品だった」とついでに感想を述べれば、穂乃花の隣、詩織たちが興味を示した。
その間、辺りではボールが跳ねる音がたくさんしていたけれど、彩羽たちは会話に夢中になっていた―――この瞬間、「変な噂を囁かれる御巫さん」は、「ミステリアスな御巫さん」にランクアップしていたのだが。
(そろそろボール取りに行くか)
彩羽は頭の後ろで組んでいた手を解こうとした。
「――――え、あ……彩羽ッッ!!」
「へ?」
悲鳴のようなそれと、何故か片方だけ動かなくなった腕。
自分自身に起きた異常事態に反応が出遅れて、次の瞬間には視界が真っ暗になった。
*
―――
――――――
―――――――――
あ
あ
こ
れ
は
夢
ね
(。わるてれら縛を腕 私)
(体は熱くて 死んでしまいそう)
(で瞳くつらぎに望欲 て見を私なんそは子のあ)
(私の服を裂いて、柔らかい胸に舌を這わすの)
『あのね』
『彩羽ちゃんのこと』
『 だから から。 同じになろうよ 』
『 痛 く な ん て な い か ら ね 』
「ひっ――――い、やああああ!!」
―――跳ね起きる。
(どこだ。ここ。何。何だ。ベッド。ベッド?変なものは置いてない?縛られてる?服は着てる?待って、やだ、どこ、はねつ、)
「おい!どうした!?」
「は――…はね、つぐ……」
羽継。
……羽継がいる。穂乃花もいる。文もいる。……何故か国光までいる。
次に周囲から自分自身を見た。着ている物は体操着。……手が痛い。……湿布が貼られてる。
「……なんか…あったっけ……」
「バスケットボールが後頭部に当たって、気ィ失って倒れたのよ」
バスケットボール?
(―――あっ。そうか、確か私、あのときバスケしてる人たちに背を向けてた。そりゃ反応遅れるわな……)
「あの時、彩羽が片方だけ頭の後ろに手を回してカバーしてなかったら……今、救急車来るの待ってる状態なんだけど――具合どう?」
「ん……大丈夫、吐き気は無い」
ポンポンと何故か胸を叩いて答えると、四人は安心した顔で彩羽のベッドに近づいた。
「まったく、体育の授業で何してんだよ……」
「…ごめんなさい、それは私が――」
「文は悪くない!」
「流鏑馬はちょっと黙ってろ。…大体な、バスケットボールなんて硬いもん扱ってる時に喋ってよそ見してるってアホか!?御巫が抱き留めてくれなかったらお前、どこにその軽い頭ぶつかってたと思うんだ!」
「ボードかなあ…」
「あ、あと得点表示するやつとか」
「ベタに床に激突ってのも、歯が折れたりして痛いけどな」
「―――彩羽ァ!お前はこんな危険物盛りだくさんの場所で呑気に何やってんだボケがァ!死にたいのか馬鹿がああ!!」
「ちょっ…三人とも黙っててよー!」
そこから始まるお小言タイム。
余計なことは言うくせに誰も助けてくれなかった十五分後には、羽継は気が済んだのかペットボトルのお茶を一気飲みし始めた。
開放された彩羽はというと、お互いに謝罪タイムである。
「―――…いや、ごめんね。吃驚させたでしょ」
「そりゃ…でもお喋りに夢中になってた私たちが悪いんだし。ごめんね」
「ううん。それにしても私でよかったよ。あのときの文ちゃん、私の隣で横向いてたし、下手したら大変なことになってたかも」
「うん……でも…私も、あそこで早く移動しようって言えばよかったのに、ごめんなさい。―――あと、」
「あと?」
「……気にしてくれて、ありがとう…」
文のそのお礼をきっかけに、(主に羽継から)流れていた荒んだ空気が和やかになる。
お互い反省した彩羽たちの方に向いた羽継は、「今度から気を付けろよ」と言うと国光の隣――いや。ベッドの上、彩羽の足下の辺りに座った。
「…そう言えば、みんな此処に居るけど授業どうなったの?誰のボールが当たったの?」
「あんなことがあったから、体育は中断。私と穂乃花さんで状況説明するために此処に居るんだ」
「俺たちは美術の授業中だったんだけど、嘉神が怪我をしてさ…丁度居合わせたってやつ」
「ほー?」
なお、保健室の先生は私の両親に連絡するためにこの場にいないらしい。
私は意外と大丈夫そうな自分の頭にホッとしつつ、穂乃花が身を乗り出して説明するのを聞いていた。
「―――それで、彩羽にボールを当てたのは、三好さんっていう子なの」
「三好……知ってる?」
「ほら、吉野さんの友達の一人でしょ。あの控えめそうな…御巫さんがこの前まで座ってた席に着いてる子だよ」
「ああ、あのドジっ子の……」
思い出す。…教科書を文に渡そうとして、転んで手から放り出された教科書たち――と、それらから文を守った国光を。
……けれど、肝心のその子の顔は思い出せない。あの時は遠くから見ていたし、一年生の頃同じクラスでもなかった―――。
ただ目立つ行動もしないし容姿も普通だった気はする。
それなのに流行を追いかけ続けるケバ…色んな意味でスゴイ吉野(文と校舎裏で修羅場ってた女生徒)の友達やってるのだろうか。
「ちょうど転んだ拍子に投げたんだかで、彩羽の方にボーンっとね。でもすっごく早い球だったし……よく腕で頭庇えたね?」
「ん、…んー、何かあの時――偶然、腕が攣って…」
「攣った?――今は大丈夫、彩羽さん?」
「うん……」
文はとても心配そうな顔で彩羽を見る。…いや、文だけではない。穂乃花も国光も、羽継だって――心配かけてしまった。
申し訳なさと嬉しさを同時に感じながら、彩羽は自分の手を見る。
(……何で、あの時「攣った」んだろう)
普通の「攣る」では無かった。あの瞬間、確かに「違和感」を感じた。
ぞわりとした何かが、この腕に触れたような――そんな感覚が。今も。
「……まだ、痛い……?」
―――その手を、文が触れる。
柔らかくて温かい手に、彩羽は思わず微笑んだ。
そして、ハッとした。
(―――無い)
この手の、「違和感」が。消えてしまった―――後で、落ち着いて調べようと思ったのに。
彩羽が茫然と文を見つめると、文は相変わらず、優しく彩羽の手を撫でている。その目は労わりの気持ちがあった。悪意の欠片も無い表情―――。
彩羽は果たして自分が何を言おうとしたのか、分からないまま口を開くと―――同時に保健室の扉が開いた。
「…先生か?」
羽継が立ち上がり、カーテンで隔離されていた彩羽のベッドから立ち上がる。
少しだけカーテンに手を差し込み、ひょい、と「訪問者」を確認しようとした。
「――――お前……!!」
「視認」した羽継は、低くて凶暴さを孕んだ声を出す。なんだかそれは、訪問者を威嚇するかのようだった。
そのままカーテンの向こうに消えた羽継は、怯えて逃げたらしい「訪問者」を追いかけてしまう―――。
―――― 追 い か け る ?
「ちょっ……羽継ぅぅぅぅぅぅ!!??」
叫んだが、羽継は帰って来なかった。
.
保健室に運んじゃってるけど、この場合は動かさないで待つのが正しいような気もする…。