1.私と君
◆◇Das Herz von Alice◆◇
あなたがいなければ、僕は泡となって消えることができたのに。
あなたがいなければ、私はこの深海から出られないというのに。
*
―――時計。
時計の音が、する。
そっと目を開けると、大きな置時計があった。白いバロック調の、派手なグランドファーザークロック。―――でも、おかしい。
(これじゃ、時間が読めない……)
幾重にも重なる円盤。数字が刻まれるべき場所には複雑でいて美しい文字。進む針は優美な曲線を絡めた造りをしていて、しっかりと時計回りに進んでいる。
円盤のひとつずつ、細部まで確認すると、そっと手を触れた。
ああ―――こうして二つに分かれている事実を、耐え難く思う。……もっともっと、触れたい……いいや、いっそ「ひとつになりたい」。
すると触れた指先は小さな羽になって解ける。それはどんどん広がって、「自分」を解いていく。
解いて解いて、肘から下の部位であった羽が足先に触れれば、今度はゆっくりと下半身が消えてしまう。バランスを崩し、膝を着き、終いには上半身が羽毛の中に落ちる、―――そしてあと少しで、全てが時計に吸い込まれるのだ。
―――そんな刹那を掻い潜って、一本の矢が背中を射抜く。
「……っ」
痛い。
顔が苦痛で歪む。―――それでも時計に手を伸ばそうとしたけれど、もう「腕」はなかった。
「縫い付けられた」その身は、苦痛に喘ぎながらも時計の魅力に逆らえず―――
「――――いやいやいやいやいや!!それアカン!それアカンて自分!!」
がばっと勢いよく布団を押しのけ、思わず自分自身にツッコミを入れる。
ぼやける夢の世界が途切れる間際、往生際の悪いことに彼女は貞子もびっくりな――なめくじが這うような形で時計に近づこうとしていたのである。
「無邪気さは私の可愛いとこだけど今は恐ろしい…恐ろしすぎるぜ…死ぬかと思った……」
―――思い出すのも恐ろしくなってくる。まったく、せっかく矢が私を止めたのに何してんだ。自殺じゃないか――と頭をぐしゃぐしゃにすると、汗が滲む肌が鬱陶しくて布団を蹴った。途端、「んぐっ」とベッド下から声が聞こえる。
「……彩羽ァ……俺は確かに、目覚ましセットしろとは言ったがよ……」
がっ、とベッドの端に男の手が出てくる。
次いでのそっと顔を出したのは、寝惚けた顔の幼馴染だ。
名は、「嘉神 羽継」――今でこそ誰かに鷲掴み揉みくちゃにされた無残な髪型になっているが、普段は知的で寡黙な雰囲気漂う二枚目である。
「どうしたのその頭」
「……覚えてないんだ?」
「えっ、ちょ、酒の勢いで過ちを犯した男女みたいな空気出さないでよ」
じと、と彩羽を見る羽継は、その年にしては筋肉もしっかりついた逞しい腕を伸ばし、
「てめえがッ!夜中に!!寝惚けてにやにやしながら俺の頭を毟ろうとしてたんだろうが!!!」
「いだだだだだッ、やめたまえ!やめたまえよ君ィ!この彩羽ちゃんの美しい御髪がっ、御髪があだだだだだだッ!!」
「こちとら数本抜けてんだよ!俺が禿げたらどうするつもりだてめえ!!」
「責任とるぜよ!」
「そうか」
「ぎゃーッ!そういう『責任』じゃなくてえええええ!!」
ぶちっと、抜けた。抜きやがった―――彩羽がすぐに確認したのは自分のアホ毛の無事だった。
無事を確認すると、今度はか弱い乙女ぶって「しくしく」と嘆くが、報復してすっきりしたらしい羽継はわざとらしく大きな溜息を吐く。
「…まったく、こんなことなら………」
―――言いかけて、羽継は最後まで言わずに口を閉じた。
本当なら同じ部屋で寝たくも無かっただろう彼が――もっというと、中学二年生という色々なものに過敏に反応し自制の効き辛い年頃の男女が一夜を明かす(というと甘美な響きだが、まったくの健全なものであると彼の名誉のために言っておく)理由が理由だからかもしれない。
というのも―――彼女の一族、安居院家は、実は古くから続く魔術師の家系。
今では日本の「西の守」を担っている名家である。
その次期当主である幼い彩羽の中には、一族が代々受け継いできた「安居院家の秘術」が植え付けられている。
その秘術を体現するのがあの夢の中に現れた「置時計」で、秘術を使う度に世界との「ズレ」が生じるために彩羽は月に一度、あの置時計に触れてその「ズレ」を「修正」しなければならない。
つまりは「刻むべき時間」というデータを持つ彩羽と、門外不出の秘術である「置時計」を合わせ正しい流れにする、ということである。
けれど駆け出しの身であり「我慢?なにそれおいしいの?」な彩羽は秘術に対し「修正」以上のことをしようとしてしまう。
大いなる奇跡を前にして、その魅了に抗えず「触れたい/同化したい」という欲が抑えきれないのだ。
夢の中のあの時計に「全て飲み込まれる」ことは彩羽の命も秘術に投じる――つまり無駄死にするということなので、彼女は未だに両親に心配をかけている。
昨夜はその両親が仕事でいないため、お人好しの羽継は心配してわざわざ泊まってくれたのだ。
―――ちなみに彼は平凡な家で唐突に生まれた「異能力者」で、秘術に魅了され異常をきたし始めた彩羽を救うべく、その「能力」でもって強制的に直してくれた。……つまりぎりぎりのところで彩羽を背後から貫いた矢は、「彼」の力の象徴なのだ。
「……ありがと」
「べっつに…」
短いけどちゃんと礼を口にすれば、羽継は立ち上がって照れ臭さから逃げるように部屋から出ようとした。
迷ったものの、時計が示す時刻に慌てた彩羽も彼に続こうとベッドから降りたら、ぐしゃぐしゃの布団に足を取られて―――体勢を、崩した。
「おう!?」
「へ?」
このままじゃ顔が床にびったんじゃないですかー!やだー!―――と彩羽が足掻いた結果、そんなに彼女から離れていなかった羽継に手が触れた。
触れた手はそのまま彼の寝間着のズボンを掴み、床にびったんと派手に落ちる彩羽と共に、落ちた。
「―――あ……っだあああ…!ちょ、羽継、私の鼻どうなってる?某魔法学校校長みたいに曲がってない?ねえねえ――、」
返事のない羽継を見上げようとちょっと顔を上げたら、当然床に落ちた彩羽の手と共に、彼女が掴んでいた彼のズボンと「布」が見えた。
それがどんな衣類に使われる布か、を答えると今の彼の笑え―――いや、哀れな姿を口にするようなものなので、彩羽は無言でいたいと思った。
(……いやでも、私はどうすればいいんだろう。今この美しい顔を上向かせれば絶対腹筋が崩壊する。しかし無言でいるのもどうだろう。
というか私が触れているこの下着…あ、やべ、言っちゃった――はどうすればいいんだろう。そっと手を引いてもいいですかね)
うん、いいはずだ―――彩羽は静かに手を引いた。
「……彩羽」
「…顔は上げてないッ!」
「そうじゃない、彩羽」
「……なに?」
「…――お前の朝飯、ねーから」
え、と顔を見上げると、引き締まったし―――いやいや流石に視線を下げよう、と彩羽は床を見つめる。
対して元気もなく告げた羽継は、そっとズボンを上げると静かに部屋から出て行った。
―――彩羽はそれに罪悪感を五分の一ほど感じるも、脱がされたズボンと下着をそっと穿き直して部屋を出るというシュールな彼の姿を想像して、耐え切れずにのた打ち回っていた。
*
「―――って、本当に朝ご飯なし!?」
「当り前だ馬鹿がくたばれ」
羽継の目の前には、焼き魚と白米と味噌汁、漬物がある。
しかし彩羽の前にはない。米も味噌汁もよそってくれなかった。
「…羽継ぅ……」
「自立しろ」
焼きたての魚は美味しそうだ。……でも食べれない。
「………」
「自立しろ」
まったく動かない羽継の様子を見て、諦めて立ち上がった彩羽。
ちらっとこちらを見る羽継の視線を感じつつ、オープン型のキッチンに入る――と、
「お菓子食べよう」
「馬鹿かお前は!!」
「あだっ!」
ポッキーとプリンとなんかでいいよね、と冷蔵庫を開けた途端に箸が頭に投げつけられる。
なんて下品な子なのかしらお里が知れますわね、と言おうと振り返れば、彩羽の不摂生ぶりに怒る彼が彼女に指を向け、
「この不摂生バカが!お前はそんなに糖尿病にかかって早死にしたいのか!?目が見えなくなって手足が腐り落ちてもいいのか!?一言ごめんなさいと謝るとか自分で作るとか惣菜を探すとかそういう努力くらいしてみせろよお前は何歳だ!もうそろそろ15だろ!米は自分でよそえ!味噌汁はまだ温かいぞ!あと冷蔵庫に納豆だってあった!魚が焼けないなら黙ってそれを食えばいいだろ!まったくお前はいつまでたってもばりぼりばりぼりと菓子を食べてばっかりでカロリーだの将来のことだのまったく考えてない―――!」
そう叱りながら、羽継は「女子力(魔法)」な彩羽のために納豆を引きずり出し、色々と漁り始めた。
二度手間だろうに結局魚も焼き始めた彼に、なんだか申し訳ないのでピクミンのように付いて回ると、ゴキブリを見るような目を向けられた。
羽継は手際よく卵焼きも作ると、そわそわして邪魔な彩羽に切った端の部分を食べさせる。
「ごふぇんねはべづぐ」
「口に物入れたまま喋らない!なんて謝罪の仕方してんだお前は!」
「…んぐ、ふう。――卵焼き美味しかったんだぜ」
「ああそう」
そっけないが、羽継はちょっと嬉しそうだ。
両親も居ない休日の朝、彩羽がやっとご飯にありつける頃にはもう彼のご飯は冷めていたけれど、文句を言わないところがイケメンだと味噌汁に口を付けながら思う。
「うんうん、美味しい美味しい。あっ、今夜また肉じゃが作って」
「…食材あるのか?――あとお前のエプロン。丁度いいからお前に作り方を叩きこんでやる」
「えーっ」
まあ何だかんだ言って、「じゃまだー!」とか怒鳴って一人で作ってしまうのが羽継である。
(―――あっ、肉じゃがの次は里芋のそぼろ煮でも作ってもらおうかなー)
煮物料理は彼の得意料理だ。あの味を思い出して、ちょっとにやにやする。
そうこれは、まだ怪異を追ってあっちへこっちへと騒ぎ立てる前の、二人の平和な朝の話である。
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