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紫陽花綺談

作者: 丁 謡

以前『Κ』にて掲載していました短編を改変して掲載しております。

営業の帰り、路地の先に鮮やかな青を見つけた。

「へえ、こんなところに紫陽花があったんだ」

私の声に先輩で仕事の相方でもある等々力さんがそれに足を留め、同じように路地を覗き込んだ。

「ほんとだな。…会社に戻るにはちと時間がおそいなぁ。あそこのカフェで時間潰して直帰するか?」

路地の奥にひっそりとコーヒーカップの絵が描かれた看板がみえた。

「先輩は花より団子ですな」

「お前だけ会社に帰って良いんだぞ?」

ニヤニヤ笑って茶化してみたが、にっこり目が笑ってない笑顔できりかえされてしまった。

「冗談です、お茶しましょ」

「そうそう素直でよろしい」

えらそうな先輩の後をついて路地の奥に入った。路地の奥はこじんまりとした公園で、それに面してカフェがあったのだ。

「ほほう、オープンカフェね。紫陽花を見ながら一杯ってのも乙だね」

「確かに」

私達は素直に外の席に陣取り先輩はエスプレッソを私はカフェラテを頼んだ。

「きれいな青だな」

「紫陽花の青ってマゼンダの混じらない青ですよね。シアンが95のイエローが5ぐらい?」

「お前、その職業病的色の説明なんとか何ねーの?」

「あはは、すんません」

運ばれてきた飲み物を口にして二人黙って紫陽花を観賞する。

「ヨーロッパの紫陽花ってピンク色のが多いんですって」

「ああ、土壌の所為だろ」

「?」

「なんだ知らないのか?紫陽花ってのは土壌の成分で色が変わるんだ。酸性度の強い土壌の日本じゃ青い花が多い。アルカリの土壌のヨーロッパだと赤味が強くなるんだ」

「へ〜、先輩がそんなに花に詳しいとは」

「ちなみに花言葉は移り気だったぞ?」

「ほうほう…!」

わたしは、持っていたカップをがちゃんと皿に落としてしまった。運良く中身はこぼれなかったが。

「どうした?」

先輩は怪訝な顔をして私の顔を見た。

「まるで、見えるはずの無い物を見たって顔してるぞ?」

からかう声に私は取り繕うように答えた。

「なんですかそれ?」

「まるで幽霊でも見たんじゃないかっていうような、驚愕と恐怖の入り交じった顔」

「…」

「小野田?」

「はぁ。たぶん先輩がいってるの当たってます。私は1年前に見るはずだった物を今見てしまったかも知れません」

「は?」

「あの、自分でも今ちょっと混乱してます。話ながら整理していっても良いですか?」

「ああ、いいぞ?時間はたっぷりある。あ、ちょっと待て、すいません!」

そういって先輩はじっくり話を聞く体勢作りとばかりポット入りの紅茶とクッキーをちゃっかり注文した。

「ほれ、準備万端。どっからでも話せ」

「了解…」




     ◇     ◇      ◇      ◇     ◇      ◇


   

私は休日、いつものようにふらりと立ち寄った街を気侭に歩いていました。

その喫茶店は、そう今時のカフェではなく、まさに昭和の空気を醸し出した『喫茶店』は雨上がりの空の下、鮮やかな紫陽花の咲き乱れる中にありました。

それに心惹かれ、また幾分喉の乾いていた私はちょうど良いとばかりにそこに入ったのです。

カランカランとカウベルののどかな音がノスタルジックな雰囲気をさらに深めていました。

「いらっやいませ」

出迎えてくれたのは想像していたロマンスグレーのマスターではなく、30をいくつか過ぎたぐらいのしっとりした美人でした。軽く頭を下げて、人気の無い店の中を見回しました。

「どうぞ、お好きな席に」

押し付けがましくない柔らかな声に頷いて、カウンターから少し奥まった紫陽花の良く見える窓際の席に陣取りました。

「どうぞ」

店主からメニューを受け取り、内容を目で追っていましたが、口からは自然と庭の紫陽花のことがこぼれていました。

「どうも。きれいな紫陽花ですね」

「ええ、ちょうど今が見ごろです」

その寂し気な声音に思わず視線を店主の顔にあててしまいました。そして、その瞳に一言では言い表せないほど深く複雑な悲哀の色をみつけてしまいました。私は見てはいけないものを見てしまったとその時感じたのを今でもはっきり覚えています。

「ア、このケーキセットを頼んでも?」

わけもなく心許なく焦った私は、お抹茶のケーキを指差してました。

「はい。お飲物はどうされます?」

店主の面からは先程の悲哀は一掃されていました。にこやかな、そう営業用の笑みがそこにあるだけでした。

「えっと、アイスティを。ミルクで」

「承りました」

注文を受けた店主はにっこり笑って奥へと行きました。しばらくして注文の品が運ばれ、私はそれらを舌で味わい、そして外の紫陽花を目で味わいながらのんびりとその空間と時間を堪能していました。意識の外でかすかにカウベルの音を聞きながら。

私の意識を外に向けさせたのは、店主の驚いている、けれども柔らかな懐かしがるような声でした。

「あら、タカハタさん久し振りね」

私は新しい客が来たのかとそのまま又意識が散漫になるところだったのですが、タカハタと呼ばれた客の固い声で完全に意識が店主とタカハタさんの方に向いてしまいました。

「‥久し振りだね、シズカさん」

名は体を現すとはこのことかと店主のしっくりくる名前に私の頭の片隅は勝手なことをほざいてましたが、私の残りの九割方の意識は何やらカウンターの方から漂ってくる緊張感に釘付けになっていました。全身が耳になるってああいうことをいうんですね。

へ?その仕種は某マジシャンのギャグだろうって?あ、そっか。ウ、話の腰を自分で折って悪かったですね。私がそういう性格だって、先輩付き合い長いんだから良く知ってるでしょ!はいはい、続けますよ!

ああ、そうそう、カウンターからは、私が座っている席は見えませんでした。こちらからもカウンターの方は見えなかったんですけどね。だからそのタカハタさんも私がいることにまったく気付かなかったんです。だから余計に出るに出られなくなっちゃいまして、会話を聞き続けることになっちゃったんですよね。

「‥君はいつまであいつを待っているつもりなんだ?」

タカハタさんは押し殺したような声でシズカさんに問いかけました。

「…」

「いつまであいつを愛してるんだ?もう7年だぞ?法的には離婚が成立するんだぞ?」

「いやだ、タカハタさん。私はあの人と結婚してないのよ?」

真剣なタカハタさんを軽くいなすように、けれど、そこに自嘲がまじっているような声でシズカさんは応えていました。

「わかってる!もののたとえだ!」

二人の温度差はその声からはっきりとわかりました。シズカさんには好きな人が居てその人を7年もの間ずっと待っていて、タカハタさんはシズカさんが好きでその思いを諦めさせようとしている、そんな図式がすぐに成り立ちました。私はこれはしばらく席を立てないと焦る心と、おお、修羅場だ!という好奇心とで板挟みでしたけど。

「7年前、あいつは結婚間近の君をおいてこつ然と居なくなった。どれほど君に恥をかかせ、悲しませたか!」

「タカハタさん‥」

シズカさんがたしなめるように名を呼びましたが、タカハタさんはますますヒートアップしていくばかりでした。

「二人で住むはずだった家をこんな風に変えて、いつまであいつを待ち続けるつもりなんだ?虚しくないのか?君の貴重な時間をあんなやつの為に費やす意味がどこにある?あいつには他に女が居た!君も知っていただろう?君が操をたてる意味なんかないんだ!」

「…」

「シズカさん。僕と結婚してくれ。そして僕と一緒にNYについてきて欲しい。君を幸せにする!」

「タカハタさん‥。ありがとう」

「シズカさん?」

「あなたの気持ちは凄くうれしいわ。でもね‥、私はあの人を愛してるの。あの人のそばじゃないと駄目なの。ここにはあの人との想い出や気持ちが残っているの。一緒に植えた紫陽花やこの家を残して私はどこにも行けやしないのよ。‥わかって頂戴」

涙の混じるシズカさんの声にタカハタさんも、私もただ黙っているしかない空気に包まれていました。

「…」

「ごめんなさい‥」

「すまない。さようなら、シズカさん」

タカハタさんの別れの挨拶はそれが永遠のものになるだろう色合いが濃くありました。

「さようならタカハタさん」

こうして、人様のドラマは幕を閉じました。私も肩に入っていた力がヘロリと抜けました。かなり自分が緊張していたことに気付いて思わず深々と息を吐いてしまいました。

「ごめんなさいね、お見苦しいところを見せて」

現れたシズカさんに私は慌てて首を横に振ってあらぬことを口走ってました。

「ソ、ソルヴェイグみたいですね?」

「ペールギュントの?」

そう言って静さんは最初に見せた複雑な色を瞳にまとって庭の紫陽花を見つめていました。なぜかその姿は自分で言った『ソルヴェイグ』のイメージとは重なりませんでした。

「‥はい」

「フフ、違うわ。私はどちらかと言えば、そうね‥、カルメンなのかもしれないわ」

「カルメン!?」

待つ女のイメージがカルメンと被らず素っ頓狂な声を上げてしまいました。

「ええ。そう」

「ん〜、でも見た感じカルメンてイメージじゃないですよ?ホセの婚約者のミカエラの方があってます」

そのときのわたしには、シズカさんの持つ雰囲気からはとてもカルメンのあの激しい『女』を感じることができませんでした。

「そうね、私の役回りもミカエラだったわ」

ぽつりと静さんがこぼしました。

「?」

「ふふ、なんでもないわ。ごめんなさい、個人的な話に巻き込んじゃって」

微苦笑を浮かべたシズカさんの慌てて私も謝りだしてしまいました。

「い、いえ、私も勝手なことぺらぺら話しちゃってすいません」

「ああ、そうだ紫陽花持っていかれますか?」

「え、いいんですか?」

「ええ。どうぞお持ちになって下さい」

私はシズカさんから紫陽花を貰って、店を後にしました。




     ◇     ◇      ◇      ◇     ◇      ◇   



「ソルヴェイグって?」

先輩はのんきにクッキーをほうばりながら聞いてくる。

「グリーグの『ペールギュント組曲』学校で習いませんでした?ソルヴェイグの歌。主人公ペールギュントに捨てられる婚約者がソルヴェイグで、彼女はただひたすらに主人公を待つ歌があるんですよ。『冬がゆき、春が過ぎて真夏も過ぎて年はたつけれども、あなたの帰りをただ私は誓ったままずっと待ちわびています』そんな歌です」

「ああ、それで店主を『ソルヴェイグ』だとお前は思ったわけだ」

「はい。でもすぐに違和感を覚えました。紫陽花を見つめるシズカさんの姿がどうしてもソルヴェイグと重ならないんです。状況は同じはずなのに」

「で、そのシズカさんが言ったカルメンはオペラのカルメンと」

「はい」

「けれど、お前のイメージするカルメンとも合わなかった」

「ええ。あの時は。待つ女のイメージのほうが強くて、カルメンだったらホセを奪われるミカエラかなと思ったんですよね」

「ふーん。実際居なくなった男には別の女が居たみたいだからな。で?」

「一応、話はそれで全部です」

「は?お前俺に喧嘩売ってる?」

「売ってませんよ。さっき、先輩から紫陽花と土壌の関係を聞いて私の目の前に亡霊として現れたのは、シズカさんが待っているはずの『アノヒト』でまちがいないんですから」

「はあ?わけわかんね」

「ああ、すいません、一つだけ」

「なに?」

「青い紫陽花の咲く庭の中にね、一ケ所だけ赤味の強い紫色の花の咲く紫陽花の株があったんですよね。シズカさんその株以外のアジサイの花を私にくださったんです。シズカさんの視線はずっとその一株だけにありましたしね。じっとその紫のあじさいを見つめるシズカさんは私の思うカルメンとようやく今重なりましたけど」

「……おまえ?」

先輩はつばを呑み込んでこちらを凝視した。推理小説好きの先輩なら私の言いたいことを察してくれたはずだ。死体の埋まった土はアルカリ性を示すことが多い。

「あのね、先輩。シズカさんはね、待ってるって一言も言わなかったんですよ、あの時。そばに居たいといったんです。‥私はね、先輩。カルメンはホセのすべて手に入れるために自分の命を賭けた女だという解釈をしてます。一般的な解釈はホセを翻弄した女ですけどね。でも私はそう思わない。運命に翻弄されたのはカルメンもまた同じだと思ってます。いえ違いますね。運命の命じるままに生きた…かな」

「…」

「カルメンはね、ホセにただ自分一人を見てもらいたかった。母親や婚約者を捨てて自分一人を。そのために彼女は最後にホセを煽ったんだと思っています。筋の上でカード占いの場面があってカルメンの死が予言されている。ロマの女にはそれが覆せないモノだと明確にわかっていた。そして土地と血のつながりを重んじるバスクの男であるホセの全てを手に入れるためには、他に術がないことを。だからこそ、カルメンはあえて殺される道を選んだんじゃないかと」

「己の命で男を鎖につないだってか?そしておまえはシズカさんが愛を完全な物にするために殺されるのではなく殺すことを選んだと今、思い付いたのか?だが、それならば彼女はホセなんじゃないのか?ホセのほうが殺すことでカルメンを手に入れようとした?」

「先輩、ホセはカルメンを殺す気なんかありませんでしたよ?脅すつもりがうっかりです。勘違いしないで下さい、先輩。運命を握ることができるのはファムファタル(運命の女)だけです。男は翻弄されるだけですよ」

先輩は紅茶を一口飲んで手で顔を覆った。

「あの庭の紫陽花は今も深い愛を包んで咲いているのかも知れませんね」

「お前なあ‥」

「なんの確証もありません。それにですね」

「ああ、お前の極度の方向音痴は知ってる。何年お前と組んでると思ってンだよ!どうせその店にはいけないんだろう?」

「えへ」

「俺はヨタ話しを聞いたことにする!」

「そうしてください」






それは移り気が起こした末の愛の形だったのでしょうか‥。いつかあの紫陽花はまた青い花に戻るのでしょうか?

目の前の紫陽花は陽を受けて青い色を鮮やかに輝かせていました。






fin







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― 新着の感想 ―
[良い点] 全体的に物語の雰囲気が好きです [気になる点] 職業病的色の説明の的と色の間に何か一文字入れたほうがいいと思います。空白でもかまいませんし、「、」でもいいですし「職業病的な色の説明」とした…
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