七年待った婚姻届を後輩に奪われたので、私は元恋人が最も敵に回したくない男と結婚しました
七夕の午前三時半。私は折りたたみ椅子を抱えて港区役所へ向かい、七夕限定の婚姻届記念受付で一番の整理券を取るため、五時間も待ち続けた。
ようやく手にした一番の整理券。ところが、七年間付き合ってきた恋人は、私が三年間学費や生活費を援助してきた大学の後輩を連れて現れた。
後輩の美羽は、おずおずと手作りのカードを差し出した。そこには「七夕限定・一日花嫁体験券」と書かれている。これが一生に一度の願いなのだという。
以前の私なら、また私たちの間に割り込むつもりなのかと問い詰めていただろう。けれど、その日は何も言わず、提出するはずだった婚姻届を静かにファイルへ戻した。
「直哉。今日、その婚姻届を美羽と出すなら、もう二度と私の前に現れないで」
ところが直哉は、私の手から一番の整理券を取った。
「璃子、意地を張るなよ。美羽はまたうつの症状が悪化してるんだ。ただ一度でいいから、誰かに迷わず選んでもらう経験がしたいだけなんだよ。この体験券は二十四時間だけだ。明日の朝、美羽と離婚届を出して、それから改めて璃子と婚姻届を出す。俺が本当に一生一緒にいるつもりなのは、ずっと璃子だけだから」
美羽をかばうようにして戸籍窓口へ向かう直哉の背中を、私は追わなかった。泣きもしなかった。
彼は知らない。
私の中に残っていた最後の気持ちが、その瞬間にきれいさっぱり消えたことを。
そしてもう一つ。
私の後ろに並んでいた男も、今日結婚するはずだった相手にすっぽかされたばかりだった。
しかもその男は、直哉が以前から「絶対に敵に回したくない」と口にしていた相手――九条ホールディングスを率いる若き経営者だった。
偶然にも彼もまた、今日婚姻届を出す相手を失ったばかりだった。
1
七年間積み重なった失望は、あの瞬間に底へたどり着いた。数秒だけ直哉たちの背中を見つめ、私はその場を離れようとした。
すると、後ろから声がかかった。
「水城さん。一番が空いたのなら、結婚相手も替えてみませんか?」
振り返って、初めて後ろにいた男の顔をまともに見た。黒いシャツに仕立てのいいスーツ。経済誌やビジネスニュースで何度も見たことがある顔だった。
九条ホールディングス代表取締役社長、九条征士郎。
「九条さんも、相手に来てもらえなかったんですか?」
「どうやら今日は、同じくらい運が悪いらしい」
征士郎は家の意向もあって、交際して間もない女性と七夕の日に婚姻届を提出する予定だったらしい。ところが相手は直前になって考えを変え、姿を現さなかった。
同行していた秘書と法務責任者は、もともと婚姻届の証人欄に署名するために来ていたという。状況はあまりにも突飛だったが、不思議なことに必要な準備だけはそろっていた。
私は数秒だけ考えた。
「いいですよ」
職員は改めて、双方に結婚の意思があることを確認した。婚姻後の氏をどちらにするか尋ねられ、私は「九条」を選んだ。
仕事では旧姓使用の届出を出し、これまで通り「水城」を名乗ることにした。
四十分ほどして、婚姻届は正式に受理された。
その日から戸籍上、私は九条璃子になった。
区役所を出ると、直哉と美羽もちょうど手続きを終えたところだった。美羽は申請したばかりの婚姻届受理証明書を手にし、私の前を通るときだけわざと歩みを緩めた。
「璃子先輩、ごめんなさい。七年間、先輩のそばにいた人を一日だけ借ります。明日にはちゃんと返しますから」
「返さなくていいよ」
美羽が目を見開いた。
私がここまで平静なのは、直哉にとっても予想外だったらしい。眉間にしわを寄せたまま近くのカフェへ入り、しばらくして抹茶ケーキの箱を持って戻ってきた。
「もう機嫌直せよ。璃子、これ好きだっただろ。少し食べて、夜に家でちゃんと話そう」
私は受け取らなかった。
「私、抹茶アレルギーなんだけど。少し口にしただけでも肌に発疹が出る。七年間、あなたが何度も抹茶のお菓子を買ってきて、そのたびに最後は誰が食べていたか、本当に一度も気づかなかった?」
直哉の手が止まった。
次の瞬間、美羽が胸元を押さえ、苦しそうに呼吸を始めた。
「直哉さん……息が、苦しい……」
直哉はケーキをゴミ箱へ放り込み、すぐに美羽の身体を支えた。
「病院へ連れていく。璃子、夜に家で話そう」
車が見えなくなるまで見送ったあと、私はスマートフォンを取り出した。直哉のLINE、電話番号、SNSのアカウントをすべてブロックする。
そのとき、強い日差しがふっと遮られた。
黒い傘を差した征士郎が隣に立っていた。手には、私たちの婚姻届受理証明書がある。
「帰りますか、奥さん」
少しだけ冗談めいた響きだった。
私はスマートフォンをバッグへしまった。
「ええ、帰りましょう」
そして少し間を置いた。
「――私の家へ」
2
帰りの車では、黒いセンチュリーの後部座席に座った。ほどなく親友の高橋真奈から電話がかかってくる。
出た途端、怒りを抑えきれない声が飛んできた。
「佐伯直哉、何考えてるの? SNSに写真まで上がってるけど、本当に白石さんと婚姻届を出したの?」
「本当だよ」
十年前、継父はギャンブルで多額の借金を作っていた。違法な貸金業者に追われるようになると、私の個人情報やアルバイト先まで相手に渡し、夜の店で働いて返済しろと迫ってきた。
成人したばかりだった私は逃げ場を失い、東京湾沿いの歩道橋まで行った。そこで私を見つけ、欄干から引き離してくれたのが直哉だった。
「璃子、怖がらなくていい。これからは俺がいる」
その一言を、私は七年間も忘れなかった。
その後、佐伯家の会社が倒産し、直哉が起業を決めたとき、私は母が残してくれた真珠のアクセサリーを売った。三百万円を開業資金として貸し、弁護士の助言を受けてきちんと金銭消費貸借契約も結んだ。
株式会社ASTELLAを立ち上げてからは、二人で顧客を回り、投資家を探し、事業計画書を何度も書き直した。忙しい時期は数か月にわたって一日四、五時間しか眠れず、取引先との会食が続いて胃出血で入院したことさえある。
それでも翌日には会社へ戻った。
ASTELLAは、そうやって少しずつ育ててきた会社だった。
やがて直哉から、白石家には昔、佐伯家が世話になったことがあると聞かされた。美羽は家族を亡くし、大学の学費や生活費にも困っているという。
援助を提案したのは直哉だったが、実際に学費や生活費の多くを負担したのは私だった。卒業前のインターンも私が人事につなぎ、卒業後、美羽はそのままASTELLAへ入社した。
あの歩道橋で助けてもらった恩も、七年間の情も。
とっくに返し終えていた。
真奈との電話を切った直後、社内ポータルから通知が届いた。
【LUMINAプロジェクト体制変更のお知らせ】
三年近く準備してきた中核プロジェクト。その責任者欄から私の名前が消え、代わりに白石美羽と表示されていた。
ほどなく、アシスタントの小林からメッセージが届く。
「水城部長、美羽さんがさっき社長室から出てきた直後に、プロジェクト体制変更の通知が出ました。チームのみんなも、どうすればいいのか分からなくて……」
続けて、知らない番号から電話がかかってきた。
直哉だった。
「なんでブロックしたんだよ。社内通知は見ただろ? 美羽は今日、病院でもかなり不安定だったらしい。主治医からも、少しずつ達成感を得られることをした方がいいと言われたっていうから、しばらくLUMINAを任せることにした。璃子はいつも分かってくれるだろ。今回くらい病人相手に張り合うなよ」
私は何も言わず、ノートパソコンを開いた。
LUMINAの価値は、ASTELLAのサーバーに置かれたプロジェクト資料だけではない。
創業初期、資本関係が変わっても中核技術を守れるよう、専門の弁護士と相談して知的財産を管理する別会社を設立していた。主要な特許権、プログラム著作権、技術ノウハウの一部はその会社が保有し、ASTELLAには長期の商用ライセンスを与えている。
そして契約には、中核技術へアクセスできる担当者を事前承認制とする情報管理条項があった。
直哉はその手続きを無視し、美羽へ中核管理権限を与えていた。
私は弁護士へ連絡し、重大な契約違反を理由にライセンス停止手続を開始した。同時に情報セキュリティ担当へ、アクセスログをすべて保全するよう指示する。
私がボタンを一つ押したからといって、プロジェクトそのものが消えるわけではない。
けれど正式な停止通知が届いたあとも対象技術を使い続ければ、ASTELLA側には相応の責任が生じる。
「分かった。LUMINAは美羽に任せればいい。ただし、中核技術のライセンスは停止手続に入った。責任者になりたいなら、最後まで自分で責任を持たせて」
二秒ほど沈黙が続いた。
「璃子、本気か? 婚姻届を一日遅らせただけだろ。明日、美羽と離婚の話をつけて、それから璃子と改めて出せばいい。会社は意地を張るための道具じゃない。ライセンスを戻してくれ」
私は電話を切った。
そのまま弁護士とM&Aアドバイザーへ連絡し、株主間契約に基づく持分譲渡の手続を始めるよう依頼する。
ASTELLAは未上場企業だ。上場株のように、今日売って今日すべて現金化できるわけではない。
ただ、既存契約には優先買取権や退出に関する条項があった。既存株主が引き受けないのであれば、外部の譲受先を探せばいい。
征士郎はその間、一度も口を挟まなかった。
電話がすべて終わったところで、彼はブリーフケースから資料を取り出した。
「今のあなたには、これが一番合いそうだ」
表紙を開く。
九条ホールディングスのM&A部門は、以前からASTELLAの一部事業を調査していた。
欲しいのは負債を抱えた会社そのものではない。
商業価値のある技術事業と顧客基盤だった。
「もともとASTELLAを買うつもりだったんですか?」
「正確には、一部の事業だ」
私は資料をもう一度開いた。
「それなら今は、かなり興味があります」
3
夕方、世田谷区成城にある自宅へ戻った。静かな住宅街に建つ戸建てで、購入時の頭金も、その後の住宅ローンも私が負担している。登記上の所有者も私だった。
直哉と結婚するつもりだった頃は、私のもの、彼のものと細かく区別しようとは思わなかった。
もう、そんな必要もない。
二階へ上がり、パソコンや身分証明書、着替えをいくつかスーツケースへ入れた。部屋には前撮りしたウェディングフォトが飾られ、クローゼットには直哉から贈られた香水やアクセサリーが並んでいる。
以前なら愛情の証だと思えたものが、今はただ邪魔に見えた。
午後八時頃、玄関の電子錠が開く音がした。
直哉はデパートの紙袋を提げて入ってきたが、玄関脇のスーツケースを見るなり足を止めた。
「まだ怒ってるのか? 身体にいいものを買ってきた。今日は璃子にも悪いことをしたと思ってる。夜、ゆっくり話そう」
紙袋を開ける。
中に入っていたのは、葉酸や鉄分のサプリメント、それに妊婦向けの高級栄養補助食品だった。
私はファイルから一枚のコピーを取り出した。
一週間ほど前、自宅のプリンター横に置き忘れられていた検査結果だ。氏名欄には「白石美羽」とあり、妊娠検査は陽性になっている。
「妊婦向けのものを、誰のために買ってきたの?」
直哉の顔から血の気が引いた。
私は書類をテーブルへ置いた。
「私たちはここまでにしよう。創業時の三百万円については、契約に沿って弁護士から連絡する。この家も私名義だから、早めに自分の荷物をまとめて。ほかの物は購入履歴と所有関係を確認して整理するから」
直哉が何か言おうとした、そのときだった。
再び玄関の電子錠が開いた。
大きなピンク色のスーツケースを二つ引きながら、美羽が立っている。以前何度か来たことはあったが、どうやら直哉は一時的な暗証番号まで教えていたらしい。
「直哉さん。病院では特に異常はないって言われたんですけど、今日は一人で帰るのが怖くて……ここに泊めてもらえませんか? 璃子先輩が嫌なら、リビングでも大丈夫です」
直哉はすぐに美羽の荷物を受け取った。
「とにかく入れよ」
それから私へ視線を向ける。
「美羽は妊娠してるんだ。精神的にも不安定なんだから、今日は璃子がゲストルームを使ってくれ。これ以上刺激するなよ」
廊下の奥にある寝室を見る。
ベッド脇には今日のために用意した写真が飾られ、寝具も数日前に新しくしたばかりだった。
「いいよ。寝室は二人で使えば。この家からも近いうちに出てもらうから、正式な通知は弁護士から送る」
直哉の顔が険しくなる。
「そこまでやる必要あるのかよ」
「そのままの意味だけど」
私はスーツケースを引き、玄関へ向かった。
直哉が反射的に追いかけてきたが、指先が触れたのは私の袖だけだった。
4
玄関を開けた瞬間、強い風が吹き込んだ。
スマートフォンには気象庁と自治体から警報が届いている。大型台風が東京へ接近し、一部の鉄道路線では順次運転を見合わせ、近隣でも倒木が出始めていた。
外の雨を見て、私は玄関を閉めた。
この状況で大きなスーツケースを引いて外へ出れば、かえって迷惑になる。
「風が少し弱くなってから出る」
荷物をゲストルームへ戻し、一階で交通情報を確認していた。
やがて美羽が、壁のウェディングフォトに目を留めた。
「あの写真、まだ飾っておくの?」
直哉は写真を見上げ、しばらく黙ったあと折りたたみ式の踏み台を持ってきた。
美羽を安心させるためなのだろう。
自分の手で写真を外そうとする。
重い額縁をフックから持ち上げた瞬間、手が滑った。
ガラスの額が床へ落ち、激しい音とともに砕け散った。飛び散った破片の一つが足首をかすめ、細い傷から血がにじむ。
直哉は反射的にこちらへ走ってきた。
けれど私を通り過ぎ、そのまま美羽を後ろへかばった。
「大丈夫か? どこかに当たってない? 腹は?」
美羽に傷がないと分かってから、ようやく私の足首に気づいた。
私はティッシュを二枚取って傷口に当てる。
「割れてよかった。あとで処分する手間が省けたから」
直哉の表情が険しくなった。
「いつまでそんな態度なんだよ。俺は美羽の願いを一日だけかなえてやっただけだ。明日になれば、この結婚だって終わらせる」
「今日出したのは正式な婚姻届だよ。二十四時間だけ有効な結婚なんて制度はないから」
言葉に詰まった直哉は、むきになったように美羽の腰を抱いた。
「分かったよ。法律上は今、美羽が俺の妻なんだろ。だったら今夜は美羽と寝室を使う」
私は脇へよけた。
「どうぞ。部屋の物だけは壊さないでね。家は私のだから」
直哉は険しい顔のまま、美羽を連れて二階へ上がった。
寝室のドアが大きな音を立てて閉まる。
部屋に入った直哉はベッドの端に座り、苛立ったようにスマートフォンを眺めていた。美羽が身体を寄せても、むしろ少し距離を取る。
やがてわざとらしく男女の声が入った動画を流し、音量を上げた。
ゲストルームがすぐ隣にあることを、彼は知っている。
以前なら、直哉が少し冷たくするだけで、私の方から話しかけに行っていた。
でも今夜は、台風の雨風以外、何の音もしなかった。
午前零時。
ようやくLINEの通知音が響いた。
直哉はすぐにスマートフォンをつかむ。
画面には、一枚の写真だけが表示されていた。
区役所の前で、私と征士郎が並んでいる。
手にしているのは、婚姻届受理証明書。
その下に一文だけ添えた。
一番を譲ってくれてありがとう。九条璃子という立場、思ったより気に入ってる。
5
寝室のドアが勢いよく開いた。
部屋着のパンツだけをはいた直哉がリビングへ飛び込んでくる。私はソファで台風情報を見ていた。
直哉はスマートフォンを私の前へ突き出した。
「何だよ、これ。合成だろ? こんな証明書を偽造したらどうなるか分かってるのか? 九条社長だぞ。いつ知り合ったんだよ」
美羽も後から出てきた。
写真を見るなり、むしろ笑った。
「璃子先輩、直哉さんを嫉妬させたいからって、さすがにやりすぎですよ。九条社長が突然、先輩と結婚するわけないじゃないですか」
私はスマートフォンを押し返した。
「本物かどうかは、そのうち分かるよ。それより今は、会社のメールを確認した方がいいんじゃない?」
美羽は向かいのソファへ座った。
「またLUMINAですか? 午後に資料を見ましたけど、思ってたほど難しくなかったですよ。まず説明資料を作って、クライアントを落ち着かせればいいんですよね?」
三十人以上が三年近くかけて進めてきたプロジェクトだ。
アルゴリズムのライセンス、セキュリティ審査、顧客テスト、外部パートナーとの調整。
数時間資料を読んだだけで、プレゼン資料さえ作れば何とかなると思っているらしい。
私はそれ以上、相手にしなかった。
ゲストルームへ戻って鍵をかけ、ノイズキャンセリングイヤホンをつける。
夜が深くなるにつれ、外の風雨は激しくなった。
その一方で二階からは、何かを乱暴に置くような音が何度も聞こえてきた。
やがてドアを叩く音がする。
「璃子、開けろ! 主要株主がどうして一斉に次の増資から降りたんだ? お前、何したんだよ!」
私は返事をしなかった。
翌朝、部屋を出ると、直哉はリビングのソファに座っていた。一睡もしていないらしく、頬には青いひげが浮いている。
私を見るなり立ち上がった。
「主要株主から、次の増資には参加しないって連絡が来た。メインバンクも追加融資の審査をいったん止めた。技術ライセンスを戻してくれ。今日、美羽と離婚の話をつける。そのあとで俺たちは改めて婚姻届を出そう」
ちょうど二階から美羽が下りてきた。
手には、例の「一日花嫁体験券」がある。
「でも、まだ二十四時間経ってません。昨日、正式に受理されたのは九時ですよね。約束したじゃないですか」
とうとう直哉が声を荒らげた。
「会社が止まりかけてるのに、まだ二十四時間なんて言ってる場合か!」
美羽の顔が強張り、そのまま寝室へ戻っていった。
そのとき、インターホンが鳴った。
会社の人間だと思ったのか、直哉は急いで玄関へ向かう。
ドアの向こうにいたのは征士郎だった。
後ろには九条ホールディングスの弁護士が二人いる。
征士郎は直哉の肩越しに私を見ると、静かに言った。
「引っ越すなら、どうして連絡しなかったんですか」
6
直哉は玄関で固まった。
征士郎を知らないはずがない。
経済ニュース、投資フォーラム、業界誌。
大手企業グループの話題に触れるなら、避けて通れない顔だった。
征士郎が玄関へ入る。
「妻を迎えに来ました」
弁護士が直哉へ書類を差し出した。
「佐伯さん。株式会社ASTELLAが正式な通知後も対象ライセンス技術を使用した件、創業時の貸付金返還、水城さん所有の住宅からの退去について、第一段階の証拠保全は完了しています。訴訟が必要なものについては、代理人から東京地方裁判所へ適切な手続を取ります」
弁護士は次のページをめくった。
「また、ASTELLAは現在、資金繰りが大きく悪化しています。債権者の一部は破産手続開始の申立ても検討中です。九条ホールディングスが旧法人へ救済融資を行う予定はありません。仮に裁判所が破産手続開始を決定した場合、当社は通常の手続に従って取得可能な事業や資産のみを評価します」
直哉が勢いよく私を振り返った。
「本当に、こいつと結婚したのか?」
私は答えなかった。
直哉が一歩踏み出す。
「璃子、お前――」
征士郎と一緒に来ていた警護担当がすぐに間へ入った。直哉の腕を押さえ、乱暴に傷つけることなく、それ以上近づけない。
征士郎は持ってきた上着を私の肩へかけた。
「手が冷たい」
騒ぎを聞きつけた美羽が二階から下りてきた。
「何してるんですか? ここは人の家ですよ!」
私は美羽を見る。
「所有者は私だけど」
美羽は黙った。
私は別の書類を直哉の前へ置いた。
「創業時の三百万円は正式な借入契約があるから、返済額については弁護士が整理する。この家も私名義。三日以内に自分で退去して。拒むなら、その後は弁護士に任せる」
直哉は書類を握りしめた。
怒りよりも、焦りの方が強くなっていく。
「璃子、本当にここまでするのかよ。美羽はかわいそうなんだ。何か一つでも成功した経験がなければ、生きてる意味がないって言ってた。璃子はもう十分いろんなものを持ってるだろ。どうして美羽に一つくらい譲ってやれないんだ」
最後まで、直哉は分かっていなかった。
私が強いから。
私が優秀だから。
私なら耐えられるから。
だから私のものは、いつでも誰かに分け与えていいと思っている。
仕事も。
結婚も。
尊厳さえも。
私は征士郎を見た。
「行きましょう」
彼は小さくうなずいた。
玄関へ向かうと、直哉が慌てて追ってきた。
「璃子! 今すぐ美羽と離婚する。だから戻ってきてくれ!」
美羽が直哉の服をつかむ。
「直哉さん、私を守るって約束したじゃない!」
二人が玄関先でもみ合う声を背に、私は振り返らなかった。
7
車が走り出してからも、知らない番号から次々とメッセージが届いた。
最初の十数件は、まだ昔の話ばかりだった。
十年前の歩道橋。
初めて借りた小さなオフィス。
起業直後、一番苦しかった時期。
私は一度も返事をしなかった。
すると、メッセージの内容は急激に変わった。
お前、最初から九条と知り合いだったんだろ? 抹茶アレルギーなんて嘘だ。俺より金のある男を見つけたから乗り換えただけだろ! 訴えてやる。こんなの結婚詐欺だ!
すべてスクリーンショットに残し、通話履歴と一緒に弁護士へ送った。
征士郎が画面を一度だけ見る。
「これ以上続くようなら、法務に対応させます」
「まだいいです。彼が一番大切にしていたものは、これから崩れるところだから」
車は九条ホールディングス本社へ到着した。
征士郎と結婚したからといって、私がいきなり役員になれるわけではない。
ASTELLAの株主であり、貸付金の債権者でもあり、知的財産会社の保有者でもある私は、明確な利益相反関係にある。
そこで社内審査を経たうえで、ASTELLA案件では技術デューデリジェンス、いわゆる技術DDに限定した特別アドバイザーとして参加することになった。
買収価格の算定、条件交渉、最終的な投資判断には加わらない。
午後、小林から電話がかかってきた。
「水城部長、佐伯社長、本当に朝から区役所へ行ったらしいです。昨日の婚姻届を取り消したいって言ったみたいで。でも双方の意思で提出されて正式に受理された以上、今日になって気が変わったからって、なかったことにはできないって。離婚するなら美羽さんの合意を得て離婚届を出す必要があるし、話し合えないなら弁護士に相談して、家庭裁判所の離婚調停を検討するしかないって言われたそうです」
驚きはなかった。
「二十四時間」と書かれた手作りのカードに、法律上の効力などない。
美羽は一日だけ花嫁になりたかった。
直哉は、自分の手で彼女を本当の妻にした。
今さら手放したいなら、本当の婚姻関係として手続を踏むしかない。
「それと会社が大変です。投資家が何社も次の資金調達から降りて、チームのみんなも今後どうするのか聞いてきてます」
「正式な手順で引き継いで。ASTELLAの資料は一つも持ち出さないこと。知財管理会社側の資料は弁護士と情報セキュリティ担当が一覧で確認する。辞めたい人がいるなら、雇用契約と就業規則に従って退職手続をしてもらって。九条側への応募を希望する人がいれば、その後で人事が個別に選考するから」
数時間のうちに、プロジェクトの主要メンバーから退職の相談が相次いだ。
ASTELLAを追い詰めたのは、彼らがその日のうちに会社を出たからではない。
中核技術のライセンス停止。
資金調達交渉の失敗。
そして顧客がプロジェクト継続リスクについて正式な説明を求め始めたことだった。
退勤時、地下駐車場で直哉と美羽に待ち伏せされた。
直哉のシャツはしわだらけで、頬にはひっかき傷が残っている。美羽は彼の袖を離そうとしなかった。
私がエレベーターから降りると、直哉がこちらへ駆け寄ろうとしたが、ビルの警備員に止められた。
「璃子、最後に一度だけ助けてくれ。債権者から五千万円の返済計画をすぐ出せって言われてる。銀行も短期融資の話を進めてくれない。九条ホールディングスがASTELLAの買収を続けてくれれば、まだ何とかなるんだ」
創業後の事業拡大期、直哉は会社の一部銀行融資について経営者保証を付けていた。
会社が倒れれば、自分だけ無傷ではいられない。
私は足を止めた。
「昨日、LUMINAの責任者から私を外したのは誰だった?」
直哉の表情が固まる。
「美羽に少し貸してやるだけ、成功する気分を味わわせてやるだけだって言ったよね。もう十分体験できたでしょ。これからは資金調達も、債権者対応も、顧客対応も、責任者本人に体験してもらえばいい」
美羽がすぐに顔を上げた。
「借金は私には関係ありません! 直哉さんが私にくれたお金だって、全部自分の意思でくれたんです!」
「じゃあ、二人でゆっくり話し合って」
私は立ち去ろうとした。
その瞬間、直哉が振り返り、美羽の腕をつかんだ。
「全部お前のせいだ!」
美羽も負けじと直哉の髪をつかみ、二人はその場でもみ合いになった。駐車場のスタッフがすぐに駆けつけ、警備員を呼ぶ。
ちょうどそのとき、黒いセンチュリーが目の前に止まった。
征士郎がドアを開ける。
「今夜は本邸へ行きます。祖父が正式に会いたがっている」
私は車に乗り込んだ。
ドアが閉まると同時に、二人の怒鳴り声は遠ざかった。
8
一週間後。
東京地方裁判所は申立てを受け、ASTELLAについて破産手続開始を決定した。
破産管財人が法人の財産を管理し、資産、債権債務、過去の取引を調査していく。九条ホールディングスが旧会社の債務を引き受けることはなく、通常の手続の中で価値のある事業や資産だけを評価した。
直哉が経営者保証を付けていた借入については、個人としても返済責任を追及されることになった。
見栄のために買った輸入車や高級腕時計、個人名義の資産も例外ではなかった。
彼が失ったものは、一つの会社だけではない。
一方、ほとんど勢いだけで始まった征士郎との結婚も、少しずつ形を変えていた。
結婚後、私たちは互いの資産管理や生活費、家庭の支出についてきちんとルールを決めた。それぞれ仕事のやり方も変えていない。
それでも征士郎は、私が抹茶を口にできないことを覚えている。
会議が午後九時を過ぎれば車を手配し、九条家の人たちの前では迷いなく私を家族として扱った。
その夜、九条ホールディングス主催の都市デジタル化プロジェクトに関する業界交流会が開かれた。
私は中核プロジェクトの責任者の一人として出席していた。
会場には銀行、ファンド、不動産会社、IT企業の幹部が集まり、次々と声をかけてくる。
「水城さん、今後は九条ホールディングスの経営陣に入るという話もありますが?」
「まだ取締役会や社内の正式な手続がありますので」
そのとき、会場入口から騒ぎ声がした。
「ご招待の確認が取れない方はお入りいただけません」
続いて聞き覚えのある声が響く。
「璃子に会わせろ!」
私と征士郎は一緒に入口へ向かった。
直哉が立っている。
昔着ていた高価なスーツも腕時計もない。身につけているのは、サイズの合っていない中古らしいスーツだった。
美羽も後ろにいる。
私の家を出たあと、収入証明や債務状況の問題で家賃保証会社の審査にも通りにくくなり、最近は蒲田の古いウィークリーマンションの狭いワンルームで暮らしているらしい。
直哉は私を見るなり目を輝かせた。
「璃子、やっと会えた。もう一度だけチャンスをくれ。九条の大きな仕事じゃなくていい。小さな案件でもいいし、管理職じゃなくてもいい。何でも一からやり直す」
私は彼を見ても、ほとんど何も感じなかった。
七年前。
私はこの人を、自分を暗い場所から救い出してくれた人だと思っていた。
でも今なら分かる。
一度誰かを救ったからといって、その後何度でもその人を傷つけていい権利が生まれるわけではない。
「佐伯さん。今のあなたの経歴とこれまでのコンプライアンス上の問題を考えれば、通常の採用審査を通るのも難しいと思います。ここにあなたの席はありません」
あえて名字で呼んだ。
美羽が突然、甲高い声を上げた。
「全部、璃子先輩のせいじゃないですか! 九条ホールディングスと組んで追い詰めなかったら、ASTELLAが倒産するはずなかった!」
周囲の人々がこちらを見る。
ほどなく二人に気づいた人たちが、小声で話し始めた。
「あの破産した会社の?」
「技術ライセンスと資金調達で問題があったところでしょう」
「こんな場所まで乗り込んでくるなんて……」
直哉の顔がみるみる赤くなった。
次の瞬間、美羽の頬を平手で打つ。
「黙れ! お前が病気だ、妊娠したって何度も俺に迫らなければ、こんなことにはならなかった!」
美羽は頬を押さえたまま、二秒ほど固まっていた。
それからバッグへ手を入れた。
取り出したのは、小型の果物ナイフだった。
美羽の視線が直哉を越え、私に向けられる。
「水城璃子」
もう「先輩」とは呼ばなかった。
「全部、あんたのせいだから」
9
一瞬の出来事だった。
美羽がナイフを手にこちらへ駆けてくる。
征士郎が私の身体を後ろへ引いた。
同時に会場の警備員たちが動く。
美羽が腕を振った瞬間、征士郎は刃先を避け、ナイフを持つ手首を蹴り払った。
ナイフが大理石の床へ落ち、遠くまで滑っていく。
美羽もバランスを崩して倒れた。
すぐに警備員が取り押さえ、警察へ通報する。
直哉は少し離れた場所で、血の気を失った顔をして立っていた。
警察が到着すると、美羽と直哉はそれぞれ事情を確認するため別々に連れていかれた。
ホテルの防犯カメラ映像、現場の目撃証言、美羽が襲いかかる直前に叫んだ言葉もすべて保全される。
九条ホールディングスの法務部も、それまでに整理していた資料を警察と代理人弁護士へ提出した。
ASTELLAの一部の資金移動。
疑義のある融資関連資料。
そして直哉と美羽の間で長期間にわたって行われていた多額の送金記録。
その後は警察の捜査と検察の判断、裁判所の審理に委ねられる。
征士郎が結果を決められるわけではない。
できるのは、手元にある証拠を渡すことだけだった。
警察の現場対応が終わると、交流会は再開された。
私はしばらく休憩室へ入り、窓の外に広がる東京の夜景を眺めていた。
征士郎が温かい紅茶を持ってくる。
「けがは?」
「ないです」
「怖かった?」
私は首を横に振った。
「七年間で一番厄介だったものが、さっき自分から警察についていっただけです。それに今は新しい仕事もあるし、相手を尊重する方法を一から教えなくていい夫もいる。今年は、ここ何年かで一番いい年かもしれません」
征士郎は少しの間、私を見つめていた。
やがて静かに身をかがめ、額を私の額へ軽く触れさせる。
「違う」
「まだ『一番いい年』には早い」
もう「水城さん」ではなかった。
「璃子。これは、これから続く長い時間の最初の一年だよ」
10
三年後。
関東地方にある女子刑務所。
九条ホールディングスは、刑務所出所者などの就労支援に協力する「協力雇用主」として登録し、グループの公益財団も就労支援事業に参加していた。
その日、私は企業側の代表として、許可を受けた矯正施設の見学プログラムに参加していた。
三年の間に、私は必要な社内手続や取締役会の承認を経て、正式に九条ホールディングスの経営陣へ加わっている。
社外では長年築いてきた仕事上の名前を優先し、今でも「水城璃子」を使うことが多い。
けれど戸籍上も、家族にとっても。
私は九条璃子だった。
見学中は矯正施設の規則に従い、決められた通路から外れることはできない。受刑者の作業区域へ勝手に入ることも、特定の受刑者と自由に話すことも許されていなかった。
職業訓練と刑務作業が行われている区画から、ミシンの音が絶え間なく聞こえる。
見学用のスペースから作業区域を見ると、三列目の奥に一人の女性がいた。
美羽だった。
三年前、ナイフを持って襲いかかってきたときに右手首を大きく負傷した。
その後、必要な治療とリハビリを受けたものの、動かしにくさが残り、今は左手を中心に使いながら簡単な縫製作業をしている。
そして、あの妊娠検査の結果も、捜査の過程ですべて明らかになった。
美羽は最初から妊娠していなかった。
検査結果の書類は自分で加工して印刷したものだった。
妊娠したと思わせることで直哉をつなぎ止め、体調や精神状態を理由に金銭や仕事上の便宜を求め続けていた。
すべてが露見すると、直哉も自分の責任を少しでも軽くしようとした。
保存していたLINEの履歴、送金記録、偽造資料に関するデータまで、捜査機関へ提出した。
かつて互いを守ると言っていた二人は、それぞれの事件で互いの行為を明かすようになった。
直哉もまた、会社をめぐる違法行為について刑事責任を負い、美羽とは別の施設で服役している。
作業中の美羽が、何かを感じたように顔を上げた。
視線がぶつかる。
三年間という時間は、彼女がかつてまとっていた、か弱く見せるための雰囲気をすっかり消していた。
美羽が反射的に立ち上がろうとする。
近くの刑務官がすぐに合図を送り、席へ戻るよう促した。
美羽はそれ以上動かなかった。
ただ、こちらをじっと見ている。
唇が小さく動いた。
何を言っているのか、分かった。
私の名前だった。
私は近づかなかった。
規則を破って話しかけることもしない。
ただ、美羽の前に置かれた縫い目のずれた襟元を一度だけ見て、それから静かに口を動かした。
もう、ここでは誰もあなたに「体験券」なんてくれないよ。
伝わったかどうかは、もうどうでもよかった。
私は作業区域に背を向けた。
建物を出ると、明るい日差しが肩へ落ちてきた。
見学者用のエリアで征士郎が待っている。
私を見るなり、まず左手へ目を落とした。
「指輪、汚してない?」
思わず笑った。
「征士郎さん、最近ちょっと細かすぎない?」
「結婚指輪だから。そこは別」
自然に手を取られる。
駐車スペースには黒いアルファードが止まっていた。
付き添いのスタッフのそばで待っていた二人の子どもが、車の窓越しに私たちを見つけた途端、大喜びで手を振った。
手には、買ってもらったばかりらしいシャボン玉のおもちゃを持っている。
三年前。
区役所の前で、その場の勢いで結婚相手を替えたとき。
まさかあの男が、本当にここまで一緒に歩いてくれる人になるなんて、想像もしていなかった。
征士郎が私の視線を追う。
「何を見てるの?」
「昔のことを思い出してただけ」
握られた手に、少し力がこもった。
「じゃあ、もう見なくていい」
征士郎が笑う。
「これからは俺と子どもたちを見てればいいよ」
車のドアが開いた。
二人の子どもが我先にとこちらへ走ってくる。
風の中に、私が苦手な抹茶の匂いはない。
聞こえるのは、子どもたちの笑い声だけだった。
七夕の日。
私は午前三時半から並び、五時間も待って手に入れた一番の整理券を失ったのだと思っていた。
でも今なら分かる。
期限の切れた整理券なんて、捨てればいい。
自分のための人生を始めるのに、間違った窓口でいつまでも順番を待ち続ける必要なんてない。




