『聖域の守護者』
聖域の守護者たち ——部長と、風と、無の境地——
その日、オフィスには宇宙規模の「ズレ」が生じていた。
部長の頭上に鎮座するそれは、物理法則に抗うかのように、静かに、しかし確実に横へと滑り落ちていたのである。それはあたかも、大陸が動いたのではなく、地軸そのものが移動してしまったかのような、劇的な光景であった。
社員たちは、その決定的な瞬間を目撃した直後、沈黙の誓いを立てた。 今、この場所で誰かが吹き出せば、部長の尊厳という名の世界は崩壊する。オフィスは瞬時に、高徳な僧たちが集う禅寺のような静寂に包まれた。誰一人として部長と目を合わせず、ただひたすらに「無」の境地でキーボードを叩き続ける。それは笑いという名のノイズを排し、平常心を保つための、全社員による集団的な精神修行であった。
だが、試練は容赦なく訪れる。 静寂を切り裂くように、一人の社員が同僚を呼んだ。 「桂さん!」
その瞬間、全社員の脳内に戦慄が走った。それは名前を呼んだのか、それとも目の前の「現実」を指摘したのか。ダブルミーニングの刃が、理性の堤防を激しく打ち据える。凄まじい我慢大会が始まった。喉の奥まで込み上げる衝動を、彼らは「磐石の如き心」で押し殺し、ただ虚空を見つめて耐え抜いた。
そして、ついに運命の時が訪れる。 無自覚な部長が、ふと立ち上がり、外の新鮮な空気を入れようと窓に手をかけたのだ。 「風が吹けば、終わる……」 全社員の脳裏に、あの不安定な均衡が崩落し、部長の地軸が宙を舞う最悪のシナリオが過った。
次の瞬間、誰が合図したわけでもなく、全社員が椅子を蹴って立ち上がった。 「部長、窓を開けてはいけません!」 一糸乱れぬ動きで窓際に防衛線を築き、必死の形相で外気を拒絶する社員たち。部長の尊厳を守るためなら、彼らは物理的な壁にさえなる。それは、不都合な真実を闇に葬り去るための、美しくも壮絶な「優しさ」の形であった。
かくして、世界の均衡は保たれた。 窓は閉じられ、部長の地軸は(ずれたまま)守り抜かれたのである。
一同が安堵の吐息を漏らそうとしたその時。 背後で眼鏡を指で押し上げた冷静な主任が、無機質な声で一言、こう漏らした。 「いや、守れてないだろ」
おしまい




