新鮮空気あります
新鮮な野菜に新鮮なお肉、新鮮な魚。新鮮さを売り文句にしているところなんてどこにでもある。それが本当に新鮮かどうかなんて誰も興味無い。煮たり焼いたりしてしまえばどれも同じなのだ。だから今さら、新鮮野菜、と看板が出ていても足を止めることは無い。緑の看板に赤い字で書かれて、どれだけ目立っていてもだ。ハトが餌をつついているのを見るくらいに、ふーんと鼻を鳴らして通り過ぎるだけ。
僕が足を止めたのはそれに該当しなかったからで、いつも通り過ぎるスーパーの入り口に、新鮮空気あります、の看板があったからだ。なんだそれは、と考えて足を止めてしまった。それこそスーパーの新鮮野菜の看板の隣に同じ色合いで、新鮮空気あります、と書いてあった。普通に歩いていたら読むこともせずに、通り過ぎてしまいそうな看板だった。
それでも目に留まったのは僕の後ろから猫が走ってきて彼の行方を追ってしまったからで、本当にただの偶然だった。そして足を止めてしまったからには、新鮮空気の正体がどうしても気になった。足を止めなければ、まあ何でもいいかとすぐに忘れていたことだろう。
空気清浄機の売り文句だろうか? まさか富士山頂の空気を袋詰めにしてそれを、はい、180円です、と白菜みたいに売っているわけではないだろう。今から大した予定は無い。ただ近くの古本屋で面白そうな本がないか散歩しているだけだ。これからデートってわけでもないし、そもそもデートをする女の子の知り合いもいない。だから30代に突入しても生活レベルが変わらないことに焦りを感じる時もある。変わらない日々、刺激が欲しい。日々の生活と違うことをしたい気持ちが勝って、スーパーに入った。どうせ大したことじゃない。
入口を見渡しても普通のスーパーだった。念のために大きく息を吸って鼻から吐いてみたけれど僕の体を通過したのは自動ドアの上から排出される冷気だった。山の上の空気とは程遠い。入口付近には100円しないカップ麺とお正月前で鏡モチが大量に並べられている。進むと、くだもの、野菜のコーナーがあって、奥に行くとお肉と魚、お惣菜と普通の変わらないスーパーだ。店内を回って見てみたけれど、新鮮空気はどこにも売っていないように見えた。レジはお昼時で少し混雑をしてきて、レジに並ぶ人の列をすりぬけてレジの向こう側に出た。一周しても何もない。
エコバックに商品を詰め込むおじさんと無料のビニールロールを必要以上に巻き取るおばさんの間を通り抜けて行くと、2階に続く階段が見えた。階段を登ると駐車場があるようだ。そしてついにあれも見つけた。
階段の踊り場の壁に、新鮮空気はこちら、と矢印が上を指している。僕は考えるより前に階段を登った。
登った先は外の駐車場への自動ドアとその前にガチャガチャが数台、そして左側に新鮮空気のお店があった。外にあった新鮮空気の看板と同じデザインの小さなものが、入口のガラス窓に張り付けられているから間違いない。
店中を覗くには入り口のガラスしかなくて、その張り紙のせいで中が隠れて雰囲気はほとんど見えない。分かるのは扉の向こうに紫色の光があること、それだけだ。
僕は考えずに勢いで紫色に光る扉を押した。考えだしてしまえば、この登ってきた階段を降りて店中に入らずにそのまま店を出てしまう。そして予定通り本屋に行ってしまうに決まっているから。
扉を押した瞬間、今の僕には持ち合わせが無いことを思い出した。少し本屋に行くだけだからと財布はあるが現金はほとんど下ろしていない。扉は半開きに一瞬足が止まった、引き返そうとしたけれど店内からは、いらっしゃいませと、僕に声がかけられた。
店内は薄がりで紫色の怪しげな光一色だった。急な暗闇で目が慣れるのに少しの時間がかかる。そして湿度が高い。店内の扉を押した途端に湿度の容器に閉じ込められた。目が慣れてくると入ってすぐ右側に受付の台があって、受付台の上には赤べこが飾られているのが見えてきた。風は吹いていないのに首が微妙に揺れていた。
奥から足音が近づいてきて、女性が紫色の光の中を歩いてくる。照明の下には植物が沢山置いてあって、奥に続く長い机が壁際に対称に置かれている。その机の上に植物と照明、真ん中が通路になっている。植物は葉も茎も強い紫色に光る。大麻じゃないよな? と少し怖くなって後ろの扉を見た。扉は勝手に閉まっていて手を伸ばそうとすると、ご予約ですか? と声をかけられた。女性店員はボサボサの長い髪の毛にバンダナを巻いて大きな丸眼鏡をしていてた。アメリカのヒッピーみたいな風貌だった。アメリカのヒッピーにあったことがあるわけじゃないからあくまで想像であるけれど、まさにそれだった。年齢は紫色の暗闇で肌質は分からない。けれど、声質は三十代前半と僕とあまり変わらないように思える。いつか、どこかの受付に電話をかけた時に聞いたことのあるようなよくある声だった。
「予約はしていないんですけど」
僕が答えるとヒッピー風の女性は、ご新規様ですね、と言って受付台の下から紙を一枚出して僕に見せてきた。その女性の説明によると、新規登録者は初回半額で行えるとの事だった。ここにお名前等必要事項をご記入ください、と言って僕にペンを渡す。何が行えるかの、説明は無かった。僕はとりあえず用紙に記入しながらヒッピー風の女性に聞いた。
「あの、新鮮空気って何ですか。正直よくわからないままに入ってしまって」
ヒッピー風の女性は高めのテンションで、そうなんですねと言って名刺を渡してきた。名刺には、『フレッシュエアーセラピスト雪野かえで』と書かれていた。
「フレッシュエアーイセラピストって、そんなものがあるんですね。初めて聞きました」
かえでさんは僕の記入した用紙を受け取って身分証明書を確認しますと言って僕は渡した。そして確認作業を終えると説明を始めた。
「日本でまだ私一人なんですよ、ヨーロッパが発祥なんですけど植物から直接酸素を受け取って、植物に直接二酸化炭素を渡す。細かく話すともっと、深い話になるんですけど簡単にお話しするとそんな感じです。体内に入る酸素をすべてリフレッシュするんです」と。




