第11.5話 アタシのための紅
昼休みの教室は、ざわめきと笑い声に満ちていた。
窓際の席で、マナは最近よく話す女子たちと談笑していた。
「それでさ、その課題が――」
笑い声が弾む。けれどマナの視線は、無意識に教室の斜め前方へ向いていた。
トイレに立ったセダンの席。
誰もいないその机を、ぼんやりと見つめる。
その視線を引き戻すように、声がかかった。
「マナさん。今日の放課後、少し時間をもらえないかな? 第1ホールに来てほしいんだ」
振り向くと、見知らぬ男子生徒。
その表情と声音で、すべて察する。
(また……今週で4回目……)
今週だけで三回。
昼休み。
人でごった返す廊下の隅に呼び止められ、
弁当を持ったまま、真剣な顔で気持ちを伝えられた。
授業の合間。
チャイムが鳴り終わる直前、慌てた様子で席まで来られ、
周囲の視線を気にしながら、小声で告げられた。
登校中。
校門をくぐったところで待ち伏せされ、
朝露の残る石畳の上で、緊張に震える声を向けられた。
そのすべてを断ってきた。
理由は簡単だ。
――マナには、もうセダンがいるから。
もっとも、本人にその自覚は薄いが。
「……わかった」
短く答えると、生徒はどこかほっとしたように去っていった。
残された女子たちが、にやにやと笑う。
「マナちゃんすごいね?」
「モテモテだね?」
「セダン君も少しは嫉妬してるんじゃない?」
マナは即座に首を振った。
「全然っ! ほんっと鈍感だから!」
そう言ってから、またセダンの席を見る。
空席。
机の角に、そっと指先を触れかけて――やめる。
(セダンにはもう少し嫉妬してほしいけど……)
告白されたと伝えても、
「マナちゃんすごいね」
それだけ。
怒らない。焦らない。独占しない。
――だって、まだ色恋が分かっていないのだから。
それは、マナが意図的に避けてきたからでもある。
セダンの目に、余計なものを入れないように。
セダンはアタシだけのもの。
セダンにはアタシがついてる。
内心、そう思っている。
(……少し教えなさすぎたかも)
女子三人は、その視線の先を見て、苦笑いを交わした。
*
放課後。
夕陽に染まる廊下で、マナは足を止めた。
「ごめん、ちょっと用があるから先帰ってて」
セダンにそう言って、第1ホールへ向かう。
さっさと断って、帰るだけ。
そのはずだった。
ホールの中で待っていた男子生徒が、もじもじと口を開く。
「来てくれてありがとう。今日は伝えたいことがあったんだ」
「俺知らなかったんだけど、今日ここ使用する予定があるんだって。だから早めに済ませるね」
マナは内心ため息をつく。
(早く振って帰ろう)
「君の……」
「君の弟は、今日ここで潰される」
「ごめんなさい。アタシには……て何? 今なんて言った?」
「だ〜か〜ら〜? 今日君の弟は終わりなんだよ!」
空気が、冷える。
「アイツは今日ロウリーによって公開処刑される。貴族に逆らった罰だ!」
マナは、呆れたように瞬きをした。
「そんなことを伝えるために呼んだの?」
「ロウリー? だっけ。あんなやつにあたしのセダンが負けるわけないでしょ?」
「果たしてどうかな?」
背後、観覧席、物陰。
ぞろぞろと現れる生徒たち。
「君はあいつを誘き出すための餌になってもらう!」
武器が抜かれる。
その瞬間、マナの思考は冷静に切り替わる。
——状況把握。
数。配置。出口。
「キリマロ。いい?」
「いつでも」
黒髪の眷属が顕現する。
「行くわよ」
*
一人、また一人と倒す。
無駄のない動き。正確な打撃。
やがて、呼び出した生徒が裏口へ走る。
「逃がすか」
マナは追う。
速い。思った以上に。
背後からさらに足音。倒したはずの者まで起き上がっている。
舌打ち。
「キリマロ! アイツを必ず捕まえて!」
「しかしお嬢は……?」
「アタシを舐めないでよね? いつまでも後ろで立っているだけじゃないんだから!」
「行きなさい! 命令よ!」
「……御意」
キリマロが弾丸のように加速する。
残った三人が立ち塞がる。
マナは懐から、70センチほどのバトンを取り出した。
「おいおい。眷属なしで戦えるのか?」
「そんなしょぼい武器で何をするつもりなんだ?」
「おとなしく捕まってくれよ?」
油断している。
「あなたたちこそ、今のうちに退散した方がいいわよ? 怪我したくなければね?」
「あ? あまり調子乗ってんじゃねーぞ」
「俺たちを舐めすぎだぜ?」
「少しくらい痛めつけても問題ないよな?」
「そうだな」
剣とナイフが抜かれる。
(思い出して……ヘルスさんとの修行を……)
*
「ハァ、ハァ、ヘルスさん、ちょっと休憩を……」
「あらあら〜もう疲れちゃったかしら〜」
大の字に倒れたあの日。
「マナちゃん。これくらいで根を上げていたら、セダンちゃんに置いていかれるわよ」
「!......それは嫌です」
「じゃあ頑張りなさい」
(セダンの横に立つのはアタシ……)
守られるだけは嫌。
キリマロ任せも嫌。
立ち上がる。
「もう一回……お願いします!」
「うふふ。いくわよ〜」
*
正面の男が怒声とともに剣を振り上げ、その刃が天井の光を鋭く反射した次の瞬間、上段から一直線に振り下ろされる殺意を、マナは半歩だけ踏み込みながらバトンを斜めに滑り込ませることで受け止めた。
衝突と同時に響いた金属音と、腕を震わせるほどの重い衝撃。しかし彼女は真正面から力を受け止めることはせず、体幹を軸にわずかに角度をずらして衝撃の向きを逸らし、そのまま相手の勢いを横へと流す。
予想外に軌道を狂わされた男の身体が大きく前へ崩れる。
その一瞬の隙を逃さず、マナは逆手に持ち替えたバトンを最短距離で振り抜き、側頭部へと正確に叩き込んだ。
鈍い音とともに男の意識が飛び、崩れ落ちる。
「嘘だろ?」
その声が響いた直後、左側から荒々しい怒号とともに振り抜かれた拳が空気を裂きながら迫る。
マナはそれを真正面から受けず、肩をわずかに引きながら上体を捻って紙一重で躱すと同時に膝を落とし、視線を一段低くする。
重心を高く保ったまま踏み込んできた男の脚が、無防備に視界へ入る。
横薙ぎに振ったバトンが脛へ正確に打ち込まれ、
骨へ伝わる硬い手応えと同時に
「ぬお!?」
という悲鳴が漏れ、男の膝が崩れた。
前のめりに倒れ込んだ身体へ迷いなく跨り、躊躇なく振り下ろした一撃を顔面に叩きつける。
抵抗は、それで終わった。
最後に残った男は一歩引きながらナイフを抜き、刃を低く構えて円を描くように間合いを測り始める。
マナは追わない。
正面にバトンを構えたまま、呼吸だけを整える。
やがて焦れた男が鋭い突きを放つ。
その刹那、マナは半身へ身体をずらして刃を掠らせるようにかわし、布が裂ける感触を袖に残しながらも動きを止めず、同時に踏み込みを開始する。
距離が交錯する、その瞬間。
バトンの先端が金属音を立てながら滑るように伸び、想定を超えた射程がナイフを握る腕のさらに奥へと届き、鳩尾を正確に打ち抜いた。
空気を強制的に吐き出させられた男の口から濁った息が漏れ、手からナイフが零れ落ちる。
マナは間を置かない。
踏み込みを継続し、顎へ振り上げた一撃で男の身体を浮かせ、そのまま仰向けに叩きつけた。
静寂が落ちる。
床に転がる三人の荒い呼吸だけが、戦闘の余韻として残った。
マナはゆっくりと息を吐き、わずかに裂けた袖を一瞥してから、何事もなかったかのようにバトンを縮めた。
「お見事です。お嬢」
キリマロが戻る。
「……っ。戻るよ!」
マナは走った。
*
重い扉を押し開けた瞬間、ひやりとした空気が肌を撫でた。
広いホールの中央。
照明の下に、二つの影が向かい合っている。
一人は、よく知る背中。
もう一人は、その前に立ち塞がる影。
セダンと、ロウリーが――
静かに、対峙していた。
「セダン! 無事?」
「攫われたって……」
「バカね。アタシがこんな連中に負けるわけないでしょ?」
セダンの表情が緩む。
だがすぐ、鋭くなる。
「まあいい。すでに貴様をここに誘き寄せるという目的は果たした」
「今から貴様は見せ物だ。ここで、貴族に逆らった愚民の末路を示す」
「マナちゃんに手を出そうとしたからね」
ロウリーの言葉を遮るように、セダンが静かに告げた。
「マナちゃんに手を出そうとしたからね」
その一言。
胸の奥が、じわりと熱を帯びる。
まるで火種を落とされたみたいに、鼓動が強くなる。
アタシを、理由に。
アタシを、一番に。
視界の中心で、セダンが一歩踏み出す。
空気が張り詰める。
ロウリーも構える。
次の瞬間、二人の間に溜め込まれていた緊張が弾け――
勝負が、始まった。
*
観覧席にはスンズ、女子友達、サスカ教官、アリア教官。
「ちょっとあんたこれのこと知ってたの? なんでアタシにすぐ言わないのよ!」
「ち、ちょっと待て!」
「知ってたんでしょ!」
「話を聞いてくれ!」
「ちょっとマナちゃん! 違うの!」
「あなたたちも知ってたんでしょ!? 友達だと思ってたのに!」
「相変わらず、セダンのこととなると冷静じゃいられなくなってるな」
「サスカ教官? なんのことですか? アタシは冷静ですけど?」
サスカの説明を聞き終え、ようやく状況を理解する。
どうやら最初の授業のときにいたメアリー・クロムウェルが、この決闘の話を広めて回ったらしい。
その結果、興味本位の生徒たちがここへ集まっている――というわけだ。
ふと上を見上げると、観覧席のさらに上段、手すりにもたれながらこちらに向かって大きく手を振っているメアリーの姿が目に入った。
目が合うと、にこりと笑ってもう一度振る。
(……後で問い詰めよう)
ひとまず誤解をぶつけてしまった友人たちへ軽く謝罪し、マナは深く息を吸ってから、ゆっくりと視線を闘技場へ戻した。
すでに勝負は動いている。
セダンが、押していた。
一歩、また一歩と踏み込むたびに、確実に間合いを削り取り、逃げ場を潰す。
無駄のない軌道。迷いのない重心移動。
攻撃は決して荒々しくはないのに、重く、速く、鋭い。
ロウリーは反撃の糸口を掴めないまま、防戦へと追い込まれていく。
観客席から見ても分かるほど、力の差は明白だった。
空気そのものが、勝敗の行方を悟っているようだった。
――圧倒。
それでもロウリーは下がりながら歯を食いしばり、体勢を立て直す。
やがて大きく息を吸い込むと、両手を広げ、神素を集め始めた。
空気が震える。
光が軋む。
周囲の温度が、わずかに変わる。
最後の一撃を賭けるつもりだと、誰の目にも分かった。
それに応じるように、セダンも静かに構える。
肩の力を抜き、重心を落とし、ただまっすぐに相手を見据える。
その瞬間。
マナの目に映る色が、変わった。
淡く揺らいでいた神素が、ゆっくりと濃度を増していく。
滲むように広がり、やがて燃え立つ焔のような紅へと染まっていく。
それは激情の色。
抑え込んでいた想いが、限界を越えたときだけ現れる色。
(セダン……そんなに怒ってくれてるの……)
あの色は、知っている。
本気で怒ったときだけ。
誰かを守ると決めたときだけ。
決して退かないと決めたときだけ。
アタシのために。
胸の奥が、じわりと熱を帯びる。
誇らしい。
嬉しい。
でも――
同時に、胸を締め付ける痛みもあった。
そこまで怒らせてしまったのは、アタシだ。
危険に巻き込んだのも、アタシだ。
それでも。
視線を逸らすことはできなかった。
逸らしたくなかった。
その紅を、最後まで見届けると決めて。
次の瞬間、二人が同時に踏み込む。
地を蹴る音が重なる。
空気が裂ける。
神素と神素が正面からぶつかり合い、爆ぜるような衝撃が円状に広がる。
観客席の制服が揺れ、思わず誰もが息を呑む。
一瞬、拮抗。
紅と、ロウリーの光がせめぎ合う。
だが――
均衡は、わずか一拍。
燃え上がる紅が、押し切る。
ロウリーの腕が弾かれ、構えが崩れ、体が大きく後方へ弾き飛ばされる。
床を滑り、やがて勢いを失って止まった。
誰も、すぐには声を出せなかった。
ゆらり、と。
紅いオーラが、ゆっくりと収まっていく。
立っているのは、一人。
セダンの勝利だった。
マナの周囲で歓声が起こる。
「勝っちゃったな」
「セダン君かっこいい〜」
「マナちゃんおめでとう!」
「早く会いにいってあげなよ。きっと待ってるよ」
「……うん!」
*
「勝ったよ、マナちゃん」
少し息が荒い。
でも笑っている。
「うん。さすがだねセダン! ま〜勝ちは確信してたけどね〜?」
抱きしめる。
セダンの心臓が、少し速い。
強くなった背中。
でもまだ、あたたかい。
(セダンの横に立つのは、アタシ)
並んで歩き出す。
ホールの扉が閉まる。
紅い残光は、もう消えていた。
けれどマナの胸には、確かに残っていた。
――嬉しさと、少しの誓いと。
もっと強くなる。
隣に立ち続けるために。




