第11話 入学編Ⅺ
クラスメイトからの襲撃を退けたあの日以降も、セダンの生活は、少なくとも表面上は、まるで何事もなかったかのように整然と続いていた。
朝は決まった時間に目を覚まし、淡々と制服へ袖を通し、無駄な会話を挟むこともなく教室へ向かい、授業を受け、訓練をこなし、そして放課後にはマナと並んで帰路につく――その規則正しい反復は、外から見ればどこまでも平穏で、波ひとつ立たない学生生活そのものだった。
だが、その“何も変わらない日常”の裏側では、水面下で確実に、しかも着実に、別の流れが形を取り始めていた。
翌日。
人の気配が途絶えた渡り廊下で、人気を避けるようにして待ち構えていた三人に囲まれたが、彼らが動き出すよりも早く決着はついた。
さらにその翌日。
校舎の陰から息を殺して飛び出してきた二人が、奇襲の成功を確信した顔のまま床へ叩きつけられ、鈍い音と共に沈黙した。
そのまた翌日。
今度は五人。
数で押し切るつもりなのか、連携を意識した動きで同時に間合いを詰めてきたが、その包囲はわずか数瞬で崩れ、誰が最初に倒れたのかすら判別できないまま、気がつけば全員が床に転がっていた。
手口は変わる。
時間帯も変わる。
人数も増える。
だが、最後に残る結果だけは、皮肉なほど一様だった。
床に転がるのは、いつも相手の方であり、呻き声と荒い息だけがその場に残る。
セダンは、ほぼ無傷。
制服に皺ひとつ寄せることなく、呼吸を乱すことすらなく、まるで軽い運動を終えただけのような顔で身だしなみを整え、そのまま何事もなかったかのように教室へ戻っていく。
その光景を偶然目撃した者、あるいは噂として聞き及んだ者たちの間で、さざ波のようなざわめきは瞬く間に広がり、やがて無視できない熱を帯び始めていた。
「98位がまた勝ったらしい」
「今度は五人相手だぞ」
「どうなってるんだ……」
半信半疑と恐れと興奮が入り混じったその囁きは、廊下を渡り、教室を巡り、訓練場の隅へと流れ込み、やがて一人の耳へと届く。
届かないはずがなかった。
ロウリー。
その名が呼ばれることはなくとも、彼の苛立ちは、日を追うごとに隠しようもなく露わになっていった。
取り巻きが敗れた報告を受けるたびに、彼は机を叩きつけ、近くにいた者へと視線を突き刺し、抑えきれない感情をぶつけるように声を荒げる。
「なぜ潰せない」
「奇襲も失敗したのか」
「貴様らは何のためにいる」
その怒声は、もはや威圧のためというより、自身の焦燥を覆い隠すためのものに近かった。
冷静さは、すでに削れ落ちている。
自分が最上位であるという確信、選ばれた存在であるという自負、そのどれもが、目に見えない何かによって少しずつ削り取られていく感覚を、彼自身が認めたくなかっただけだ。
そして、ある記憶が、ふいに脳裏へと蘇る。
あの日。
家族を侮辱された瞬間に、セダンが見せた、あの凍るような怒りの目。
空気が凍りついたかのような、理性の蓋が軋みを上げるほどの圧。
普段は抑え込まれているはずの何かが、一瞬だけ牙を覗かせた、あの異様な光。
理性を焼き切るほどの感情。
――そこだ。
ロウリーの唇が、ゆっくりと歪む。
あの感情を、もう一度引きずり出せばいい。
そうすれば――
98位は、ただの98位に戻る。
*
放課後。
教室のざわめきが少しずつ薄れ、椅子の軋む音や鞄を閉じる金具の音が断続的に響く中で、マナはいつもと変わらぬ穏やかな調子でセダンの方を振り返った。
「ちょっと用事あるから、先に待っててくれる?」
軽く手を振りながらそう言って教室を出ていくその背中には、緊張も焦りも見当たらない。
だからこそ、セダンは疑いもしなかった。
彼女が一人でどうにかできない状況など、この学園には存在しないと、理屈ではなく直感として理解していたからだし、仮に何かあったとしても、助けを必要とする前に自分で片付けてしまうだろうという確信すらあった。
廊下に出て、壁に背を預ける。
窓の外では夕陽が傾き始め、長く伸びた影が石床を斜めに切り裂いている。
待つこと数分。
だが、その数分は、なぜか妙に長く感じられた。
足音が近づく。
軽く、わざとらしく、複数。
そこへ現れたのは、ロウリーの取り巻きたちだった。
視線が絡む。
互いに一歩も譲らない静止の数秒。
「今日は一人か?」
嘲るような声。
セダンは視線を逸らさないまま、淡々と答える。
「今、待ってるところだよ」
「クク……そうか」
不自然な笑みが、三人の口元に同時に浮かぶ。
その笑みは、勝ち誇るというより、何かを仕掛けた側の余裕を含んでいた。
そして、決定的な一言が落ちる。
「遅いと思わないか? そりゃそうだよな……俺たちが攫ったんだからな」
――空気が、凍る。
廊下に流れていたはずの夕方の気配が、一瞬で音を失う。
遠くで響いていた足音も、窓の外の風の音も、すべてが遠のいたかのように感じられた。
セダンの瞳から光が消える。
焦点が合っているのかどうかも分からないほど、静かに、深く沈む。
拳が、わずかに震える。
それは恐怖ではない。
抑え込まれた怒りが、骨の内側で軋んでいる震えだった。
一歩、踏み出す。
床に落ちた影が揺れる。
その瞬間、取り巻きの一人が顔色を変えて叫ぶ。
「待て! ここで俺たちを潰しても、居場所は分からないぞ!」
焦りが滲んだ声。
彼らもまた理解している。
今、目の前に立っている存在が、これまでとは違うことを。
理性が、怒りを押し留める。
喉の奥で熱が渦巻く。
だが、踏み込んだ足はそこで止まった。
「……マナちゃんはどこ?」
低い声。
感情を削ぎ落としたような、底の見えない声音。
取り巻きの喉が、ごくりと鳴る。
「ついて来い」
短い指示。
従うしかない。
情報がない今、選択肢はそれだけだった。
だがその背後で、廊下の空気は、確実に変質していた。
怒りは、まだ解放されていない。
ただ、静かに、確実に、臨界点へと近づいている。
*
辿り着いたのは、第1ホール。
普段は訓練や模擬戦に使われるその広大な石造りの広間は、本来なら汗と掛け声が交差する実践の場であるはずだったが、今はまるで趣旨の違う催しを待つ劇場のような、張り詰めた異様な空気に包まれていた。
天井近くに吊るされた照明石が白く光り、中央の舞台をくっきりと照らし出している。
その中央に、悠然と立つ影。
ロウリー。
両足を開き、腕を組み、すでに勝利を確信しているかのような態度で、入ってきたセダンを見下ろしていた。
観覧席には、明らかに生徒とは雰囲気の違う大人たちの姿がある。
貴族風の衣装を纏い、宝飾品を身に着け、品定めをするような冷たい視線を舞台へ向ける者たち。
その間に混じる数多くの生徒。
好奇心、嘲笑、緊張、期待――様々な感情が渦巻いている。
教官の姿もあった。
スンズ。
サスカ教官。
そしてアリア教官。
誰一人として、この場を止めようとはしていない。
整えられた観客、照らされた中央、立ち位置まで計算された配置。
完全な“舞台”だった。
「よう、この俺を待たせるなよ」
ロウリーの声が、広間へ響く。
セダンは取り巻きを押しのけるようにして前へ進み、そのまま舞台へ視線を固定したまま叫ぶ。
「マナちゃんは!」
怒りと焦燥が混じり合った叫びが広間に響き渡り、その余韻が観覧席へと波のように広がっていくが、ロウリーは一切動じることなく、ゆっくりと口元を歪めた。
「安心しろ。ここにはいない」
わざとらしく間を置き、観客の視線を煽るように視線を巡らせる。
「今ごろ別室で震えているはずだ。貴様の無様な姿を見せる前に、な」
ざわり、と空気が揺れる。
その言葉は、事実であるかのように自信に満ちていた。
セダンの胸の奥で何かが軋む。
「……何をした」
低く、押し殺した声。
ロウリーは肩をすくめる。
「大したことはしていない。ただ少し、現実を教えてやっているだけだ」
観覧席の一角から、くすりと笑い声が漏れる。
緊張が、怒りへと変わる直前――
そのときだった。
観覧席の奥から、小さなざわめきが波紋のように広がる。
誰かが振り向き、次々と視線が後方へ流れていく。
規則正しい足音。
石造りの通路を、軽やかな靴音がこちらへ近づいてくる。
ロウリーの眉が、わずかに動いた。
現れるはずのない人物。
だが、確かに歩いてくる。
制服の裾を軽く払いながら姿を現した少女を見た瞬間、観客席の空気がはっきりと変わる。
マナだ。
その背後には、壁にもたれかかるように崩れ落ちた男子生徒が数人転がっており、ひとりは白目を剥いたまま完全に意識を失っている。通路の石床には鈍い擦過痕が幾筋も刻まれ、手すりには打撃で生じた亀裂が走り、砕けた石片が足元に散乱していた。
短時間で、しかも一方的に制圧された痕跡。
マナ本人は呼吸一つ乱していない。
何事もなかったかのように観覧席の最前列へ進み、ひょいと手すりを越えて舞台を見下ろせる位置に腰掛けると、腕を組んで小さく首を傾げた。
「セダン、なんできたの?」
その声音は、拍子抜けするほどいつも通りだった。
セダンは言葉を失いかける。
「攫われたって……」
視線が、マナの後方へ向く。
倒れ伏した取り巻きたち。
崩れた隊列。
一瞬で理解する。
マナは肩をすくめる。
「バカね。あたしがこんな連中にやられるわけないでしょ?」
その言葉と同時に、ロウリーの計画の全貌が浮かび上がる。
怒らせ、理性を奪い、暴れさせ、その姿を観客に晒し、貴族に逆らう者の末路として見世物にする――それが筋書きだった。
だが、その前提は今この瞬間、崩れ落ちている。
ロウリーはほんの一瞬だけ視線を伏せたが、すぐに笑みを作り直し、ゆっくりと両腕を広げた。
まるで、この状況すらも自分の演出だと言わんばかりに。
「まあいい。すでに貴様をここに誘き寄せるという目的は果たした」
「今から貴様は見せ物だ。ここで、貴族に逆らった愚民の末路を示す」
観覧席がざわめく。
「本当に98位なのか?」
「身の程知らずが……」
「面白い」
好奇と侮蔑が混ざり合った声が、波のように広間を満たす。
ロウリーはその反応を満足げに受け止め、続ける。
「安心しろ。他の者は手を出させん。俺一人で貴様を処刑する」
処刑。
その単語が、わざとらしく強調される。
処刑されるのは、自分だと言わんばかりに。
「処刑、ね」
セダンは小さく呟き、視線を逸らさないまま一歩踏み出す。
舞台中央へ。
石床に足音が響く。
怒りは、消えていない。
だが先ほどの廊下とは違う。
冷えている。
静かに、澄んでいる。
「いいよ。あれぐらいの襲撃なら別にいいと思ってたけど」
「もう我慢の限界。マナちゃんに手を出そうとしたからね」
その声は大きくない。
だが、なぜか広間の隅々まで届いたように感じられた。
観客の何人かが、無意識に息を呑む。
――処刑されるのは、どちらだ。
空気が、張り詰めた。
*
ロウリーの全身を濃密な青い神素が奔流のように包み込み、その出力の高さを示すかのように空間そのものが軋みを上げる中、構えられた大剣から放たれる圧力が観覧席にまで伝播し、息を呑む気配が広がっていく。
踏み込んだ瞬間、石床は爆ぜるように砕け、その反動を推進力へと変換した身体は視界から掻き消えるほどの速度へ到達し、加速の唸りを伴った大剣が一直線にセダンの頭上へと振り下ろされた。
轟音と共に床が深々と裂け、粉砕された石片が衝撃波に弾かれて宙を舞うが、その破壊の中心にあるはずのセダンの姿は存在せず、振り下ろされる軌道を最後の瞬間まで見切った彼はすでに跳躍しており、空中で体勢を制御したまま落下の勢いを乗せて踵をロウリーへ叩き落とす。
大剣で受け止めたロウリーの膝が、想定を超える質量を叩きつけられたかのように沈み込み、腕を通して伝わる衝撃に表情が歪む。
(重い……!?)
ただの反撃ではない、神素の密度そのものが違うと理解した瞬間、ロウリーは歯を食いしばって強引に剣を振り抜き、セダンの身体を押し返す。
「貴様……力を隠していたのか!」
怒号が響く中、着地したセダンは揺らぐことなく視線を固定したまま答える。
「試験は失敗した。でも――勝負で負ける気はないよ」
その言葉と同時に床を蹴った踏み込みは爆発的で、間合いを一瞬で潰した右拳が大剣へと叩き込まれ、刃で受け止めたはずの衝撃が剣を伝って腕を貫き、ロウリーの身体そのものを後方へ吹き飛ばす。
観覧席にどよめきが走る。
貴族たちの目が見開かれ、生徒たちの間に動揺が広がる中、ロウリーは膝をつき、痺れる腕を震わせながら視線を上げる。
(父上……)
無意識に向けたその先で、父は立ち上がることもなく、怒鳴ることもなく、ただ静かに息子を見下ろしていた。
無表情。
だがそこに滲むのは、微かな失望。
その視線が胸を抉った瞬間、ロウリーの内側で理性が焼き切れる。
「この俺が負けるわけねぇぇぇぇ!!」
叫びと同時に神素の出力が限界まで引き上げられ、青いオーラが爆発的に膨れ上がって周囲の空気を歪ませ、砕けた石片すら浮き上がらせるほどの圧を生み出す。
「俺がトップだぁぁぁぁ!!」
もはや技の形を保たぬ突進と共に振り抜かれた大剣が唸りを上げて迫るその刹那、二階席から響いたマナの声が空気を裂く。
「今よ、セダン!」
呼応するように、セダンの身体からこれまで一度も解放されなかった赤い神素が噴き上がり、青とは質の異なる熱と密度を帯びた圧力が床を割り、壁を軋ませ、観覧席の最前列にまで衝撃を走らせる。
赤が、青を塗り潰す。
ロウリーの刃は確かに届き、手応えを感じたはずだったが、次の瞬間に視界へ映り込んだのは、自らの大剣が内側から砕け散る光景だった。
「は……?」
特別製の剣を正面から貫いたセダンの拳が、神素を濃密に纏った刃を軋ませ、次の瞬間には金属とは思えぬ甲高い破砕音を響かせながら粉々に砕き散らす。
飛散する刃の破片が銀色の雨のように宙へ舞い上がるその只中を、すり抜けるように踏み込み直したセダンの左拳が、迷いのない軌道でロウリーの顔面へと叩き込まれた。
頬骨を砕く鈍い衝撃。
鼻梁が歪み、歯が砕け、血飛沫が弧を描いて空中に散る。
拳が触れた瞬間、ロウリーの視界は白く弾け、鼓膜の奥で何かが爆ぜるような轟音が鳴り響き、意識と平衡感覚が一瞬で引き剥がされる。
首が不自然な角度に捻じれ、制御を失った身体は軽々と宙を舞い、そのまま一直線に観覧席へと叩き飛ばされた。
空気を裂く音。
次の瞬間、石造りの座席に激突。
分厚い石板が衝撃に耐えきれず亀裂を走らせ、砕け、粉塵と破片を巻き上げながら崩壊する。
観客たちの悲鳴が遅れて上がる。
崩れ落ちる石材の中へ、ロウリーの身体は無様に埋もれた。
かつて誇示していた貴族の顔は、もはや原形を留めていない。
轟音が消えた後、広間を支配したのは重い静寂だった。
爆発的に膨れ上がっていた赤いオーラは、観客がそれを異質だと認識するよりも早く、まるで幻のように霧散し、次の瞬間には澄んだ青へと戻っていた。
揺れていた空気が静まり、軋んでいた石床も沈黙する。
舞台中央に立つのは、セダンただ一人。
傷はない。
姿勢も崩れていない。
そして――
「……ふぅ」
長く、ゆっくりと息を吐く。
それは荒れた呼吸ではない。
内側で暴れかけた何かを、完全に押し込め、閉じ込め、再び鍵をかけるような一息だった。
青い神素が静かに揺らぐ。
観客の目に映るのは、ただ無傷で立つ98位の少年。
赤を見た者はいない。
気づけた者もいない。
ただ一人、マナだけがわずかに目を細める。
(今の……)
だが何も言わない。
舞台中央で、セダンは何事もなかったかのように視線を上げる。
観客は言葉を失い、先ほどまで余裕を浮かべていた貴族たちの表情から笑みが消え去る。
98位という数字が、音もなく崩れ落ちた瞬間だった。
セダンは静かにロウリーの倒れた方向を見つめたまま、淡々と告げる。
「……勝負は、数字じゃ決まらないよ」
その声が広間を渡り、抜けていった風だけが、最後に残った。




