第8話 入学編Ⅷ
一通りの訓練が終わる頃には、空気はすっかり熱を帯びていた。
床にはうっすらと亀裂が走り、破損した人形の残骸が端に寄せられている。汗と鉄の匂いが混ざり合い、重たい空気がホールを満たしていた。
「午後は予定通り神素ありでやるからな〜。覚悟しとけよ〜」
間延びした声を残し、サスカ教官は片手をひらひらと振りながら出入口へ向かう。
その背中が消えた瞬間、あちこちで膝に手をつく生徒の姿が増えた。
肩で息をし、汗を拭い、壁にもたれかかる。思っていた以上に体力を削られていたらしい。
ロウリーは特に酷かった。
人形へ執拗にラッシュを叩き込み続けた代償は大きく、今は仲間の一人に肩を貸されなければ歩くことすら危うい。
荒い呼吸の合間、視線だけが前へ向く。
その先では――
まるで訓練などなかったかのように、平然と歩き出す三人の姿。
セダン。マナ。スンズ。
息は乱れず、足取りも軽い。
(クソが、俺が見せつけてやろうと思っていたが、アイツ……)
歯を食いしばる。
悔しさが胸を焼く。
だが、その視線に気づいた者は、誰もいなかった。
*
食堂はすでに賑わい始めていた。
長い窓から光が差し込み、白いテーブルクロスを照らしている。金属製のトレイが触れ合う音と、談笑が混ざり合う。
セダンとスンズは並んでメニューを眺めた。
「日替わりランチ、これでいいか?」
「うん、これにする」
選んだのは“チヤハン”。
輪切りにされたギネという野菜と細かく刻まれた肉を、熱した鉄鍋に放り込む。
油が弾け、ジュッという音とともに湯気が立ちのぼる。
そこへ溶き卵を流し入れ、半熟のうちに一気に米を加えてかき混ぜる。
鍋肌に押しつけて水分を飛ばしながら、強火で何度もあおる。
米粒一つ一つに油と卵が絡み、表面がわずかに光を帯びる。
仕上げに塩と香草をひと振り。
立ち上る香ばしい匂いが鼻腔をくすぐる。
国の下町では定番の、腹持ちのいい庶民的な一皿だった。
一方で、マナが頼んだのは“レッドタスパ”。
貴族から引く手数多のシェフが手掛ける特別料理。
白磁の皿の中央には、艶やかな細麺が高く巻き上げられている。
一部地域でしか収穫されないマトマをすりおろした濃紅のソースが、ゆっくりと麺を伝い落ち、光を受けて宝石のように艶めいていた。
香りは甘く、それでいて僅かに酸味を含む。
煮詰められた果肉の濃厚さが、ただの野菜ではないことを物語っている。
一束銀貨二十枚もするタスパは、麺に絡むよう繊細に散らされ、淡い緑の彩りを添えていた。
噛めばほろりと崩れ、芳醇な香草の香りが広がる高級食材だ。
ヒトジンは低温でじっくり火を通され、外側だけが香ばしく焼き締められている。
ホソニクは薄く削がれ、花弁のように盛り付けられていた。
そしてデザート。
真白な生地を三層に重ね、その間にマトマの果肉を挟んだケーキ。
表面には空気をたっぷり含ませたホイップクリームが波打つように絞られ、頂には鮮紅の果実が一粒、誇るように置かれている。
それはもはや昼食ではなく、貴族の余暇そのものだった。
同じ学院、同じ学年。
だが、皿の上には確かな“順位の差”が表れていた。
それでも。
「めっちゃ美味しい!」
セダンはチヤハンを一口運び、素直にそう思った。
三人は六人掛けの席へ腰を下ろす。
しばらくして、先ほどマナに教わっていた女子三人が近づいてきた。
高い位置で髪を結んだ快活そうな少女が先頭に立っている。
その一歩後ろを、静かな青色の髪の少女が控えめに歩く。
さらにその隣には、眼鏡をかけた細身の少女が周囲を気にするように視線を巡らせていた。
三人は一度立ち止まり、互いに小さく目配せをする。
どうする?
行く?
今なら大丈夫そう?
そんな無言のやり取り。
やがて、ポニーテールの少女が意を決したように一歩踏み出した。
「あ、あの……」
声は思ったより小さい。
セダンとスンズが同時に顔を上げる。
マナもフォークを持つ手を止めた。
少女は一瞬たじろいだが、ぐっと息を吸う。
「さっきの訓練、すごかったから……その、もっとお話聞きたくて」
横の青髪の少女が小さく頷く。
「……迷惑、じゃなければ」
眼鏡の少女は胸の前で指を組みながら続ける。
「よ、よかったら……相席、してもいい?」
六人掛けの席。
まだ三つ空いている。
断る理由は、ない。
スンズとセダンは同時にマナを見る。
「僕はマナちゃんがいいなら......」
「俺も構わない」
マナは一瞬だけ迷った。
本音を言えば、あまり気は進まない。
だが――セダンの隣は確保している。
「……いいよ」
女子たちが座ると、すぐにセダンへ視線が集中する。
「さっきの訓練すごかったね!」
「私たちにも戦い方を教えてほしい!」
「セダン君ってマナちゃんの弟なんだよね?」
矢継ぎ早に放たれた質問が、間を挟むことなく次々と重なっていく。
一人が話し終えるよりも早く、次の声がかぶさり、さらにその上から別の問いが降ってくる。
息を整える隙も、考える余白も与えられない。
逃げ道は、どこにもない。
セダンの手が、ぴたりと止まった。
箸の先でつまんでいたチヤハンが、支えを失ったようにゆっくりと崩れ、ぱらぱらと皿の上へ落ちていく。
視線が、落ち着きなく泳ぎ始める。
まず右を見るが、そこにも期待に満ちた瞳。
反射的に左へ向けるが、やはり目が合う。
最後に正面を向いた瞬間、三対の輝く視線が真正面から突き刺さった。
三人とも、目をきらきらと輝かせ、返事を今か今かと待っている。
そこにあるのは敵意ではない。
むしろ、まっすぐで、無邪気で、疑いのない好意。
期待。
好奇心。
純粋な興味。
その無垢な感情が、じわじわと形を持った圧力になって、胸の奥へと迫ってくる。
喉が、小さく鳴った。
何か言わなければ、と焦りだけが先に立つ。
しかし、口を開こうとしても、言葉が喉の奥で絡まり、外に出てこない。
脳が、情報の処理を拒否している。
質問の一つ一つが頭の中で反響し、ぐるぐると渦を巻く。
すごかったね。
教えてほしい。
弟なんだよね。
どれから答える?
順番は?
全部まとめて?
いや、無理だ。
思考が完全に渋滞を起こす。
前に進もうとする考えと、止まれと叫ぶ本能がぶつかり合い、動けなくなる。
一瞬、周囲の音が遠のいたような感覚に包まれた。
時間が、ほんのわずかに引き延ばされたかのように感じられる。
瞬きが止まる。
呼吸が浅く、細くなる。
背筋だけが妙にぴんと伸びたまま、身体がぎこちなく固まっていく。
――人見知り、発動。
完全にフリーズした。
まるで誰かに見えない指で「一時停止」を押されたかのように、その場で微動だにしない。
その様子を見て、マナの眉がぴくりと動く。
「これ以上の質問は、ね? また今度にしてくれる?」
柔らかい声。
だが有無を言わせない圧があった。
女子たちは「あ、ごめんね」と笑いながら引く。
スンズはその様子を横目で見て、ため息をついた。
やがてセダンも復帰し、ぎこちないながらも会話が再開される。
その時だった。
「全くお気楽だな。セダン・ロード」
背後から声。
振り向くと、ロウリーが数人を引き連れて立っていた。
「あれぐらいなら……あの修行に比べたら、まだ楽だよ」
無意識か、意識的か。
セダンの言葉は、煽りにしか聞こえなかった。
取り巻きたちがわずかに顔を引きつらせる。
「ほう?そのような煽り文句も言えるようになったか。感心したぞ」
ロウリーの声は低い。
内心は怒りに震えている。
「いや、本当のことを言っただけなんだけど……」
さらに油を注ぐ。
スンズが目を見開く。
マナは――ニヤニヤしていた。
(なんかあの優しいセダンが煽ってるようにしか見えないのがとても……ふふ)
ロウリーの拳が震える。
「おお、それ以上はとてもまずいことになるぞ」
「とてもまずいって?昼ごはんのこと?」
沈黙。
次の瞬間。
机が揺れた。
「……どうやら、今すぐ死にたいようだな?」
一歩踏み出したその時。
「おいおい」
すぐ近くで声。
だが姿は見えない。
次の瞬間、ロウリーの腕が不自然に曲がる。
「なっ……ぐっ!」
客観的に見れば、自分で腕を捻って倒れ込んだ奇妙な姿。
やがて空間が揺らぎ、そこに姿を現す。
「サスカ教官!?」
何もない場所から現れた彼に、食堂全体が静まり返る。
「お前ら学園のどこで喧嘩しようが構わないが、ここはやめとけよ〜」
ロウリーの腕を離す。
「みんなの飯が不味くなるだろう〜?」
マナが口を開く。
「サスカ教官、今のは……?」
「あ〜言ってなかったな。俺の加護は透明だ。俺自身を透明化できる。まあ俺が売れたやつも一部を除いてできるが、俺が触れてないといけない」
軽く説明する。
「これで俺が強いのもわかっただろう?今後、ここではすんなよ〜」
背を向けた、その時。
「貴様!今の行為、たとえ教官であっても許されないぞ!覚悟しておけ!」
ロウリーの叫び。
サスカが振り向く。
「うわ〜怖いね〜。でも……」
それまでの気怠げな目が、ほんの一瞬だけ光を失う。
「その時は道連れだよ〜。名も家も、綺麗さっぱりな」
空気が凍る。
冗談ではない。
本気だと、全員が理解した。
ロウリーは何も言えず、取り巻きを連れて去っていく。
静寂。
食堂全体から、音が消えた。
食器の触れ合う音も、談笑も、椅子を引く音すら止まる。
時間が、ほんの数秒だけ凍りついたようだった。
サスカの最後の言葉が、まだ空気に残っている。
「名も家も、綺麗さっぱりな」
軽い口調のはずなのに、重い。
やがて——
ざわり、と空気が揺れる。
止まっていた呼吸が戻る。
小さな囁き声が波のように広がる。
「今の……本気?」
「家ごとって……」
「サスカ教官、あんな顔するんだ……」
誰も大声では話さない。
しかし確実に、食堂の空気は変わっていた。
セダンたちは顔を見合わせた。
(サスカ教官怖ぇ……)
昼食は続いた。
だが、その日。
食堂の空気は最後までどこか重かった。
そしてセダンはまだ知らない。
この静かな昼が、確実に何かを動かし始めていたことを。




