プロローグ
炎の中で、誰かに抱えられていた。
腕に回された力だけが、やけに現実味を帯びている。
焼ける空気の中で、その体温だけが異様に鮮明だった。
指先は服越しに食い込み、決して離すまいとする必死さが、震える鼓動とともに伝わってくる。
視界は白く滲み、輪郭というものが存在しない。
世界は溶けかけた絵の具のように混ざり合い、ただ周囲を囲む赤い光だけが、ゆらゆらと揺れていた。
火だ。
そう理解するよりも先に、皮膚を刺す熱と、乾いた空気が喉の奥を焼く痛みだけが、容赦なく現実として押し寄せてくる。
息を吸うたび、胸の内側が削られるように痛んだ。
抱えていた人物の身体が、唐突に大きく揺れる。
何かが空気を裂く鋭い音。
直後、短く、押し殺された悲鳴。
身体が浮いた。
支えを失い、重力に引かれて落ちていく感覚だけが、異様にゆっくりと流れていく。
地面に叩きつけられる――そう思った、その瞬間。
別の腕が、乱暴なほどの勢いで身体を掴み取った。
最初とは違う。
そこには一瞬の迷いも、躊躇もない。
ただ、生かそうとする焦燥だけがあった。
視界の端で、最初に抱えていた人が力を失ったように崩れ落ちるのが見えた。
飛び散った血は炎に照らされ、一瞬だけ鮮やかに赤く弾け、次の瞬間には黒く沈んでいく。
何かを叫んでいた気がする。
名前だったのか、警告だったのか。
あるいは、ただの祈りだったのかもしれない。
けれど音は歪み、遠ざかり、耳の奥で波のように崩れ、言葉として形を結ぶ前にほどけていく。
意味になる前に溶け、ただ残響だけが胸の奥に沈んだ。
世界が傾く。
立っているのか倒れているのかさえ分からなくなり、重力がどこへ向かっているのかも曖昧になって、景色そのものがゆっくりと滑り落ちていくように歪んでいく。
赤が広がる。
燃え盛る炎の色と、飛び散った血の色と、焼けた空の色とが混ざり合い、境界を失ったまま視界の奥からじわじわと滲み出してくる。
熱が遠のく。
肌を刺していたはずの灼熱は嘘のように薄れ、代わりに指先から順に感覚が抜け落ち、冷たさとも違う、ただの“無”が静かに身体を占領していった。
重さだけが、身体から抜け落ちていく。
――そこで、意識が途切れた。
*
「……セダン、朝だよ」
やわらかな声と、頬に触れるぬくもりが同時に届き、それだけで少年はゆっくりと、けれど迷いなく目を開けた。
視界に最初に映ったのは、朝の光を背にした淡い色彩で、それが誰のものか理解するまでに時間はかからない。
セダン・エリクス。
耳の少し下まで伸びた白い髪は、差し込む陽光を受けて透けるように輝き、寝返りを打っても乱れない柔らかな質感を保っている。
中性的な顔立ちは初対面の相手に一瞬だけ迷いを与えることがあるが、本人はそれを気に留めることもなく、ただ与えられた容姿を受け入れているだけだった。
身長は百五十ほどで、腕も脚もまだ細く、成長途中の身体つきは頼りなさを残している。
「……おはよう」
感情の波をほとんど乗せない声音でそう返すと、その平坦さに呆れたように姉が息を吐いた。
「もう、反応薄いんだから」
至近距離で顔を覗き込むのは、姉のマナ・エリクスで、肩より少し下まで伸びたピンク色の髪がさらりと揺れ、その前髪の横には白い花のヘアピンが小さく光っている。
リリウム――百合の形をしたその飾りは、以前露店でセダンが何気なく手に取ったもので、理由を問われても「なんとなく」としか答えなかったが、マナはそれを宝物のように大切にしていた。
「はい、朝のちゅー」
宣言するように言ってから、当然のようにセダンの頬へ軽く口づける。
それは照れや冗談を含んだものではなく、この家ではごく自然に繰り返されてきた日常のひとつであり、特別視されることのない習慣だった。
満足そうなマナを、セダンは無言で見返すが、拒絶も照れもなく、ただ受け入れるだけの静かな眼差しだった。
家の中は穏やかな静寂に包まれている。
木造の一軒家は派手さこそないが、壁も床も丁寧に手入れされ、余計な装飾はなくとも、そこに積み重ねられた時間の温度が感じられた。
生活に必要なものだけが過不足なく配置され、誰かが長いあいだこの場所を守り続けてきたことを、言葉にせずとも伝えてくる空間だった。
「行ってくるね」
台所の方から届いた声に振り向くと、ピンク色の髪をポニーテールにまとめた女性が立っている。
マナの母であり、そして今はセダンの母でもある人。
三十七歳という年齢を聞かなければ信じがたいほど若々しく、肌には張りがあり、動きには余裕があり、微笑みの奥にはどこか妖艶さすら滲ませているが、その瞳は紛れもなく優しかった。
「ちょっと買い物してくるだけだから、夕方までには戻るわ」
何気ない一言だった。
だが、その言葉が、あとになってどれほど重みを持つのかを、このとき誰も知らない。
「はーい。気をつけてね、お母さん」
明るく手を振るマナの横で、セダンも小さく頷く。
セダンはこの家の実の子ではなく、数年前、家の前に捨てられていたところを彼女に拾われた存在だったが、その理由が深く語られることはなく、それでも彼はここで暮らし、ここを帰る場所として受け入れてきた。
扉が閉まり、母の足音が遠ざかると、家の中の静けさはいっそう濃くなる。
この家は街から少し離れた場所にあり、周囲には畑とまばらな林が広がり、人の気配は常に遠く、同年代の子どもたちの笑い声も届かない。
その孤立にも似た静寂は、普段であれば安心を意味していた。
争いの気配がないという証だったからだ。
――そのとき。
遠くで、低く鈍い衝撃音が響いた。
空気がわずかに震え、静寂が破られる。
「……今の、なに?」
眉をひそめるマナの声を背に、セダンは何も言わず玄関へ向かい、扉を開けて外へ出る。
視界に飛び込んできたのは、街の方角を覆う赤。
火が上がり、煙が立ち昇り、空の色を侵食している。
「……火事?」
震えを含んだ声。
だがセダンは、ただ黙ってそれを見つめる。
恐怖は湧かなかった。
代わりに胸の奥に沈んだのは、言葉にならない既視感に似た重さで、それは夢の続きを無理やり現実に引き戻されたような感覚だった。
夢の内容は思い出せない。
だが、炎の色と、奪われる予感だけが、どこかで重なる。
遠くで揺れる炎はまだここには届いていないし、この家も、磨かれた床も、朝のぬくもりも、何ひとつ失われてはいない。
それでも空の色は変わり始め、風に混じる匂いはわずかに焦げていて、この穏やかな日常が音もなく軋み、確実に終わりへ向かっていることを、否応なく告げていた。
*
扉が開いた音に、マナは弾かれたように顔を上げ、その瞬間、胸の奥に押し込めていた期待と恐怖が同時にせり上がった。
「……お母さん?」
かすれた声は、祈りにも似ていた。
だが、返事はなかった。
代わりに聞こえてきたのは、規則性を失った重たい足音と、床へぽたり、ぽたりと落ちる液体の鈍い音だった。
次の瞬間、玄関の奥に立っていたのは、全身を血に染めた母の姿だった。
「っ……!」
言葉にならない息が喉で詰まる。
身体には無数の傷が走り、裂けた衣服は赤黒く張りつき、立っていることそのものが奇跡であるかのように、その姿はかすかに揺れていた。
それでも母は、二人の姿を認めた瞬間、痛みに歪むはずの顔をゆるやかに緩め、かすかな微笑みを浮かべる。
「……よかった……無事、だったのね」
震え、途切れそうになりながらも、その声だけはどこまでも優しく、子どもを案じる母そのものだった。
マナが衝動のまま駆け寄ろうと一歩踏み出す。
その瞬間。
「だめ……来ちゃ、だめ……」
母は震える腕を必死に持ち上げ、血に濡れた手のひらをこちらへ向けて制した。
「……お願い。少しの間でいいの。ここに……隠れていなさい」
指先が、床の一角を指し示す。
そこには、地下倉庫へと続く小さな扉があった。
「お母さんが……いいって言うまで……絶対に、出てきちゃ……だめよ」
それは、以前から何度か繰り返されていた“約束”だった。
もしもの時は迷わず隠れること。
誰が来ても、母の許可があるまで決して出ないこと。
その言葉の重みを、今ほど痛いほど実感したことはなかった。
マナは唇を強く噛みしめ、滲みそうになる涙を無理やり飲み込みながら、震える声で答える。
「……分かった」
セダンの手を掴み、その小さな体温を確かめるように握り締めたまま、二人は地下へと降りる。
扉が閉まる直前、視界の端で母の姿がわずかに揺れ、そして、闇に切り取られるように消えた。
――それが、最後だった。
どれほどの時間が経ったのか、分からない。
地下に満ちた闇は濃く、時間の感覚を奪い、思考を溶かし、恐怖と静寂だけを残していく。
眠ったのか、起きていたのかも曖昧で、意識は何度も浮上し、沈み、現実と夢の境界を見失った。
何度も足音が聞こえた気がした。
何度も名前を呼ばれた気がした。
だが、それは現実だったのか、それとも恐怖が生んだ幻だったのか、確かめる術はない。
それでも、扉は開かなかった。
そして――
あるとき、不意に、上から細い光が差し込んだ。
きぃ、と長い時間を軋ませるような音が響き、地下への扉がゆっくりと持ち上がる。
逆光の中に立っていたのは、見知らぬ男だった。
黒髪の短髪。
薄く整えられた髭。
動きやすさを優先した戦闘服の上に、くたびれた革のハーフコートを羽織り、長い戦いを潜り抜けてきたことを物語る傷が随所に刻まれている。
鍛え上げられた体躯と高い身長は、自然と視線を圧迫する威圧感を放っていた。
だが、その目に宿る色は、決して敵意ではなかった。
「……やっと、見つけた」
低く、野太い声が地下の空気を震わせる。
男は二人の姿を確認すると、胸の奥に溜め込んでいたものを吐き出すように、小さく息を吐いた。
「もう大丈夫だ。出ておいで」
その言葉に、マナは即座に問いかける。
「……お母さんは?」
震えを押し殺した声。
男はわずかに目を伏せた。
「今は、君たちをここから出すことが先だ」
男が一歩近づく。
革靴が床を鳴らし、距離が縮まる。
その大きな手が、セダンへと伸びた。
「時間がない。さあ、早く――」
その瞬間。
「――来ないで!」
マナの叫びが地下に反響し、同時に空間が歪む。
彼女の横に淡い光の陣が浮かび上がり、幾何学的な紋様が回転しながら輝きを増していく。
次の瞬間、そこから現れたのは、武士のような装束を纏った男だった。
黒髪は肩まで伸び、荒々しく揺れ、精悍な顔立ちには迷いのない覚悟が宿る。
身長は異様なほど高く、細身ながらも研ぎ澄まされた筋肉が確かな強さを示していた。
眷属――
斬麻呂『キリマロ』。
一言も発さず、静かに体重を沈め、床を蹴る。
刃が空気を裂き、男へと一直線に迫る。
男は反射でナイフを抜き、瞬間、鋼同士が激しくぶつかる。火花が散り、金属の甲高い音が地下倉庫に響く。
至近距離で交わる刃。互いの呼吸と体重が伝わる緊張の中、キリマロの鋭い眼光が男を貫き、力と意志を押し付ける。
その距離で、男はほんのわずかに口を動かした。
マナたちには決して届かないほどの、小さな声で。
「……敵じゃない。この子たちを、守るために来た」
キリマロの動きが、刹那だけ止まる。
その鋭い視線が、男の背後――
マナと、セダンへ向けられる。
ほんの一瞬。
だがそこには、明確な理解と、迷いのない決断があった。
キリマロの腕から、静かに力が抜ける。
受け止めていた刃が、わずかに下がる。
男は、それを見逃さなかった。
「……そうか」
次の瞬間、拮抗が崩れ、力が解放される。
キリマロはゆっくりと膝を折った。
抵抗はない。
恐怖も、憎しみもない。
まるで、自ら役目を終えることを選んだかのように。
光が溢れ、身体は粒子となって崩れていく。
最後に残った表情は、どこか穏やかだった。
「……すまない」
男の低い声が落ちる。
その言葉と同時に、
マナとセダンの意識は、静かに、抗うことなく、闇へと沈んでいった。
*
目を覚ましたとき、最初に感じたのは、身体が沈み込むほど柔らかなベッドの感触で、それがあまりにも現実離れしていたせいで、ここがどこなのかを理解するより先に、夢の続きなのではないかという疑念が胸をよぎった。
「……?」
マナはゆっくりと瞬きを繰り返し、焦点の定まらない視界のまま天井を見上げる。
そこに広がっていたのは見覚えのない木目の模様で、鼻をくすぐるのもまた知らない家の匂いだったが、それでも身体をそっと動かしてみると、どこにも強い痛みはなく、骨が軋む感覚も、血の匂いも、炎の熱も、ここにはなかった。
――生きている。
その事実を遅れて理解した瞬間、胸の奥でずっと張りつめていた何かが緩む。
「……セダン」
隣から、規則正しい寝息が聞こえた。
横を見ると、弟が無防備な顔で眠っている。
小さく上下する胸、かすかに動くまつ毛、何も知らないまま眠るその姿を見た途端、胸の奥がぎゅっと締めつけられ、同時に、言葉にできないほどの安堵が込み上げてきた。
(……ここ、どこ……?)
記憶を辿ろうとすると、頭の奥がじくりと痛む。
記憶を辿ろうとするたびに、頭の奥深く――まるで鍵の掛けられた扉の向こう側を無理やりこじ開けようとしているかのように、じくり、と鈍い痛みが脳裏を刺し、その痛みが波紋のように広がって思考を濁らせる。
炎。
血。
地下へと続く扉。
そして――母の背中。
振り返らなかった背中。
炎に照らされながらも一度も揺るがず、ただ真っ直ぐ前を向き、何かを守るように、何かを決意するように、そこに立っていた背中。
そこまで思い出した瞬間、胸の奥を掴まれたような息苦しさに襲われ、肺が空気を求めることを忘れたかのように止まり、マナは思わず喉を震わせながら息を呑み、反射的に顔を上げた。
――声がする。
壁の向こう、部屋のドアの先から、複数人の話し声が聞こえてくる。
低く落ち着いた男の声。
それに応じる、柔らかく穏やかな女性の声。
さらに、若い声が二つ。
(……誰……?)
遅れて、恐怖がじわじわと湧き上がる。
マナは息を殺し、セダンを起こさぬよう慎重にベッドを抜け出すと、足音を消しながらドアへと近づき、わずかに隙間を作って廊下の向こうを覗いた。
そこにいたのは、四人。
地下倉庫で現れた、あの男。
無骨な顔立ちに刻まれた深い皺は、年齢以上の疲労を物語っているが、完全に老け込んでいるわけではなく、まだ戦いの只中にいる者だけが持つ緊張と鋭さを纏っていた。
その隣には、金色の髪を腰まで伸ばし、丁寧に三つ編みにした女性が立っている。
薄手の長袖にエプロン姿という穏やかな装いで、糸目の優しい顔立ちが、そこにいるだけで空気を和らげていた。
そして少し離れた場所には、自分たちと年の近そうな男女が二人。
黒髪を後ろに流した筋肉質の少年は落ち着いた様子を見せながらも、何度もこちらを気にする視線を隠しきれていない。
金髪の少女は肩にかかる長さの髪を揺らし、場違いなほど可愛らしいパジャマ姿で、けれどその瞳には好奇心と不安が混じっていた。
(……この人たちは……)
その瞬間。
「……起きたみたいだな。見てないで、こっちに来なさい」
低い声が、空気をまっすぐに切り裂いた。
心臓が強く跳ねる。
男は、こちらを正確に見ていた。
「大丈夫だ。こっちに来なさい」
逃げ場はない。
マナは一度、背後のベッド――セダンが眠る方を振り返る。
(……大丈夫。私が、守る)
そう胸の奥で呟き、ゆっくりとドアを開け、廊下へ足を踏み出した。
男は、ほんのわずかに表情を和らげる。
「……君は、ライラ・エリクスさんの娘さんだね」
その名を聞いた瞬間、胸が強く締めつけられた。
「話は聞いていた。本当によく似ている」
「ライラさんには昔、とても世話になった。強くて、優しい人だった」
耐えていたものが、音もなく崩れる。
「……お母さんは?」
震える声で尋ねると、男は一瞬目を伏せ、ゆっくりと首を横に振った。
「……すまない。助けられなかった」
それだけで、すべてが終わった。
喉が詰まり、視界が滲み、気づけば声を殺して泣いていた。
どれほどの時間が経ったのか分からない。
ただ、金髪の女性が何も言わず背中を撫でてくれていた温もりだけが、現実をつなぎ止めていた。
やがて。
「……落ち着いたかい」
男の問いに、マナは小さく頷く。
「助けてくれて……ありがとうございます」
「……これから、私たちは……どうすれば……?」
男は迷いなく言った。
「ライラさんから頼まれた。君たちを守ってほしいと」
一拍置いて、続ける。
「だから――君たちを、新しい家族として迎え入れたい」
その言葉はすぐには理解できなかったが、胸の奥にあった“ひとりになる恐怖”を、静かに包み込むものだった。
新しい父――リザルド・ロード。
静かに腰を落とし、マナたちの目をまっすぐに見つめる。
「……これから先、俺たちが君たちを守る」
新しい母――ヘルス・ロード。
柔らかな笑みを浮かべ、そっと手を差し出す。
「初めまして。ここが、あなたたちの新しい家よ」
兄――クリスノット。
腕を組んで少し離れた位置から観察し、わずかに眉を上げる。
「ふふ、勝手に暴れたりするなよ」
姉――レイ。
軽く手を振り、好奇心いっぱいの瞳で近づく。
「よろしくね! あ、私の名前はレイ!」
名が告げられ、静かな沈黙が落ちる。
マナは深く息を吸い、覚悟を決めたように言った。
「……ひとつだけ、お願いがあります」
「この話は……弟には、まだ言わないでください」
それ以上は語らない。
だがその沈黙の奥にある意志を、リザルドは理解したように静かに頷いた。
やがて、セダンが目を覚ます。
事情を知ったあとも、彼は多くを語らなかった。
ただ、兄姉の背後に立つリザルドの姿をじっと見つめ、その視線の奥で何かを測るように静かに目を細めていた。
日を重ねるごとに、少しずつ、少しずつ。
ここが居場所になっていく。
だが失ったものは、消えない。
数週間後。
朝の光が窓から差し込むリビングで、セダンはまだ半分眠ったまま椅子に座っていた。母・ヘルスはその横で、ふわふわのパンケーキを皿に盛りつける。香ばしい匂いが部屋いっぱいに広がった。
「ほら、セダン、あーん」
突然、姉のレイがセダンの口元にパンケーキを運ぶ。セダンは驚きながらも口を開けると、甘い生地が口の中に入った。
「ちょっと、私にも!」
マナが慌てて割り込む。レイは一歩も引かず、取り合いは軽くヒートアップ。
「……落ち着け、二人とも」
兄のクリスノットが呆れ顔で注意する。声の硬さに、二人は小さく黙ったが、まだ目はセダンから離せない。
その様子を、父・リザルドは淡々とした表情で見守る。言葉少なに座る彼だが、その瞳の奥には確かな愛情と安心感が宿っていた。
セダンは口の端にパンケーキのかすをつけたまま、にっと笑う。母はそっと頭を撫で、姉はまだじっと見つめる。マナは悔しそうに唇を尖らせ、兄は微かにため息をつく。
家族の声がリビングに響き、笑い声とパンケーキの香りが混ざり合った。火事の記憶はまだ胸の奥に残っているが、この小さな日常が、二人にとって確かな“居場所”であることを、ゆっくりと実感させてくれた。
ある日、セダンはリザルドの書斎の前で立ち止まり、少し緊張した表情で言った。
「……もう、家族を失うのは嫌です」
リザルドは硬い表情のまま、ゆっくりと頷く。
「今度は、守れるようになりたい」
その声には、子どもらしい願いだけでなく、失った者だけが持つ強さがあった。
リザルドは長く見つめたあと、静かに答える。
「力は、俺がつける」
その一言で、セダンの胸に確かな安心感が広がる。
そして、マナもまた、胸の奥に小さな決意を固めた。
そっと母・ヘルスの手を握り、目を見上げる。
「……お母さん、私、もう怖くない。セダンと一緒に、家族を守りたい」
ヘルスは少し驚いたように眉を上げたが、すぐに微笑み、柔らかく頭を撫でる。
「……いいのよ、マナ。あなたならきっと、守れる」
その言葉に、マナの胸に力が満ちる。
小さな日常の中で芽生えた決意が、静かに確かなものになっていった。
二度と、あの日のような背中を見送らないために。
守るという言葉の意味は、この日、静かに変わった。
血の繋がりだけでなく、ここにある日常そのものが、二人にとっての“家族”だった。




