北川古書店【第8話 写真整理と贈り物と白スミレ】
千冊を超える蔵書調査の中で、三人は一冊一冊に宿る想いや記憶、そして山口さんの静かな優しさに触れていきます。
本と人との繋がりを感じる、静かで豊かな時間が流れます。
北川古書店【第8話 写真整理と贈り物と白スミレ】
雅人は写真のデータ作りに気持ちが急いていた。 「カメラのデータ処理を手伝ってくれますか」 「もちろん、お手伝いいたします」 「和美は家の手伝いがあるから帰るね」 「和美さん、ありがとう。助かったよ」
二人は古書店に戻り、写真の整理を始めた。雅人は家を出る際にノートパソコンを持参しており、デュアルモニターも用意していた。スマホの写真データをパソコンに取り込み、作業を進めていく。
「綾乃さん、この段ボール五個の写真、物置のだよ」 「何があったの?」 「一葉全集だと思う。博文館、明治45年とあった」 「これね……私、これが欲しい」 「調査が終わってから決めよう」
モニター二台が作業の効率を高め、写真の中から主な蔵書だけを選び、勇叔父に送った。三十分ほどして電話があった。 「ご苦労様。チェックした本の発売日を確認したいね」 「すぐにでも伺おうかと」 「それを見せてくれ。ありがとう」
電話を切るとすぐに綾乃に聞いた。 「次はいつ行ける?」 「乗りかかった船ね。明日、同じ時間でどう?」 「山口さんに連絡するね」 「OKよ」
山口さんの了承も得られた。 「明日の午前中にデータを整理しておくよ」 「そのお手伝い、してもいいわよ」 「嬉しいな。10時頃からお願いできる?」 「了解しました」
お腹が空いた二人は、夕食を上野商店の弁当に決めた。叔父のノートからおすすめ弁当リストを見せる。 「どれがいい?」 「豪華幕の内がおいしそう」 「ビールも買ってくるね」
雅人が買いに出かけると、配達員が来た。 「毎度ありがとうございます。上野商店です」
綾乃は笑いこけた。机の上には弁当三つ、おつまみ、ビール四本、お茶が並んだ。「おつまみはサービスです」と添えられていた。
冷蔵庫からコーラを出して和美に渡す。 「和美さんの分もあるから、一緒にどうぞ」 「ありがとう」
夕食を囲みながら、翌日の打ち合わせが始まった。 「和美も手伝いたい」 「明日三時、大丈夫?」 「全然OK!」 「一人でも多い方がいいよね」 「決まり!」
にぎやかな食事会となった。
翌日、山口家の前で雅人と綾乃はノートパソコンを抱えて和美を待っていた。 「こんな大きな家に入れるのは、今度だけかもしれない……」
綾乃が到着し、三人で玄関の呼び鈴を押す。分厚い扉が開き、奥様が出迎えた。 「本日もよろしくお願いいたします」 「若い方が来てくださると家がにぎやかで嬉しいわ」
「奥様、この家を見て回ってもいいですか?」 「案内いたしましょう」
綾乃と雅人は書斎へ入り、リストに従って本を探した。写真に記録された棚の位置を見ながら、効率よく作業を進める。
和美が戻ってきた。 「ごめんね、勝手なことをして」 「大丈夫。じゃあ、順番に発売日を調べよう」
三人は手分けして、夏目漱石、志賀直哉、島崎藤村、太宰治、堀辰雄、宮沢賢治、高村光太郎、谷崎潤一郎、牧野富太郎の植物図鑑などを調べ、綾乃がパソコンに入力していく。
脚立で本を探していた雅人のそばで、和美が小さな声で訊いた。 「綾乃お姉さんって、雅人先生の恋人なの?」 「ただの友達よ」 「そうなの、ふーん……」
「和美さん、写真を見ながら元の場所に戻しておいて」 「はーい」
綾乃と雅人は物置に向かった。昨日見た段ボールには『樋口一葉日記』などの初版本らしき書物があり、他にも珍しい本が数冊確認された。
「めずらしい本が見つかりましたか?」と奥様が顔を出した。 「素敵な本ですね」 「主人の父が集めたもののようです」
山口家とその蔵書に触れることで、雅人は改めて古書への強い惹かれを感じ、綾乃は資料の価値と収集家の熱意に感動した。 「和美も、文学部に行こうかな……」とぽつりとつぶやいた。
その経験は、三人にとって将来を考えるきっかけとなった。
翌日、雅人は再び山口家を訪れ、奥様にリストと契約書を提示した。 「これで問題は無いと思いますが……北川さんのご子息ですか?」 「北川勇の甥になります」
「実は主人は都会議員をしながら工場を経営しておりました。選挙支援に来ていた古書好きな方がいらっしゃって、お名前が似ておりましたの」
「段ボールの中身、綾乃さんが卒論のテーマにしたいそうです」 「そうでしたの。ではその本、二人に差し上げます」 「リストから外していただいても……?」 「もちろんです。贈与の旨、私が書きますから」
その厚意に、綾乃は笑顔で頭を下げた。
後日、大澤書房と相談し、買い取り金額を決定。業者と共に蔵書を搬出した。
「段ボールの蔵書、ありがとうございました」 「いえいえ、有効に使ってね。これが贈与書です」
搬出後、蔵書は古書店の二階に、贈与分は雅人の自宅に運ばれた。
日曜日、二人は手土産を持って山口家を訪問した。
室内を掃除しながら、奥様と話をした。 「奥様、この度は本当にありがとうございました」 「いえいえ、私の方が楽しく過ごせました」
学校の様子を話すと、奥様は懐かしそうな表情を見せた。 「主人は一人っ子で、私たちには子供はいません。以前も申し上げたかしら……」 「同じ話を繰り返すと、嫌がられますからね」
「老人ホームに入ろうと思っております」 「お年を伺ってもよろしいでしょうか」 「恥ずかしながら、86歳になります」
「お元気ですので、お手伝いさんとお住まいになっては」 「何かあれば便利屋に頼みますし、警備会社とも契約しております」
「お二人は60年、70年先の未来を描けますでしょう? 私には、数年先の小さな未来しか見えません」
そう言って、奥様は小さな円を両手で描いた。 「でも今回皆さんとお話できて、この円が大きくなりました。蔵書が無くなり寂しくなりましたが、心の円は大きくなったのです」
「老人ホームでも楽しく過ごします」 「お引っ越しの日には、お手伝いに伺います」 「業者に頼みますから……」
奥様は紅茶とクッキーを出してくれた。 「奥様のお部屋にあった白スミレの日本画、とても素敵でした」 「親しかった画家の方に描いていただいたものです。ホームにも持っていくつもりです」
「ミニコンポとスマホがあれば音楽も楽しめますし」 「選挙時代に励ます会の会員登録などで、パソコンやスマホを使っておりましたから」
「お元気でいてくださって、またお話しできると嬉しいです」 「こちらこそ、またいらしてください。これも何かのご縁ですね」
多彩な蔵書を集めたご尊父、ご主人、そして奥様に、三人は深く感謝して山口家を後にした。
古書の調査を通して、若者たちはその価値と重みを感じ取っていきます。
人の記憶が宿る一冊を通して、彼らの心もまた静かに変わり始めます。
物語はやがて、大きな転機へ──。次回もどうぞお楽しみに。