鏡の国の手紙
街外れの古道具屋は、埃と古びた香りに包まれていた。
セラは店の奥で、妙に存在感のある大きな鏡を見つけた。
縁には複雑な蔓草模様の彫刻が施され、ところどころ金箔が剥がれている。
けれど、鏡面は驚くほど澄んでいた。まるで向こう側に、もう一つの世界があるかのように。
「いい買い物だよ」
店主の老人は、にやりと笑った。
「古いものだけど、ちゃんと映る。大事にするんだよ」
セラは深く考えもせず、鏡を買った。
引っ越し祝いに何か特別なものが欲しかったし、なぜかその鏡に惹かれるものを感じたのだ。
***
新しい部屋に鏡を設置した夜のこと。
セラは、ふと違和感を覚えた。
鏡の端に、何か紙のようなものが挟まっている。
「……え?」
引き抜いてみると、それは手紙だった。
ざらりとした羊皮紙に、丁寧な筆致でこう書かれている。
『この手紙を見つけたあなたへ。
どうか、話を聞いてください。私はノア。この鏡に囚われた者です。』
セラは思わず笑った。
誰かの悪戯か、奇妙な趣向の品なのだろうと。
だが、なぜか胸がざわついた。
まるで、文字の一つひとつが、心に直接語りかけてくるようだった。
手紙には続きがあった。
『あなたがもし、私の声を聞いてくれるなら、どうか返事をください。
答えは、鏡の下に置いて。』
(……まさかね)
セラは苦笑しつつも、机に座り、簡単なメモを書いた。
『ノアへ。本当に鏡の中にいるの?』
そして、鏡の下に滑り込ませた。
数分後。
何気なく鏡を覗き込んだセラは、愕然とした。
先ほどのメモは消え、代わりに新しい手紙が置かれていた。
『はい。本当に、ここにいます。』
震える指でそれを拾い上げる。
いたずらではない。
何か、本当に――鏡の向こうに存在している。
「……ノア」
セラは、思わず鏡に向かって呟いた。
鏡は何も答えない。
ただ、静かに、彼女自身の姿を映しているだけだった。
それでも、確信があった。
この鏡には、何かがいる。
***
それから、セラはノアと手紙を通して会話を続けた。
ノアは、かつて王国に仕える騎士だったこと。
呪いによって、鏡の中に囚われたこと。
そして、誰にも気づかれず、長い時を過ごしてきたこと。
彼の手紙は、いつも丁寧で、寂しさと優しさが滲んでいた。
『あなたと話せるのが、久しぶりに感じる暖かさです』
そんな一言が、セラの胸にじんわりと広がる。
次第に、手紙のやり取りは日課になっていった。
学校や仕事で疲れた日も、嬉しいことがあった日も、セラは鏡に向かってノアに語りかけた。
ノアはそれに、必ず温かな返事をくれた。
彼の存在は、次第にセラの生活の一部になっていった。
まるで、そこに本当に「誰か」がいるかのように。
***
だが。
ある夜、ノアから届いた手紙は、いつもと違っていた。
『セラ。
伝えなければならないことがあります。
私は、もう長くはありません。』
手紙を読みながら、セラの手が震えた。
『次の満月の夜までに、助けに来てほしい。
そうでなければ、私は完全に消えてしまう。』
満月は、あと十日後。
猶予は、わずかしかない。
セラは、鏡に向かってそっと手を当てた。
冷たい鏡面の向こうに、確かに、誰かがいる。
(ノアを、助けたい)
心の奥から、自然にそう思った。
これまでのやり取りが、ただの幻ではなかったことを、セラは信じていた。
たとえ誰にも信じてもらえなくても、たとえ馬鹿だと笑われても――。
だから、セラは決意した。
鏡の中に入る方法を探し、必ず、ノアを助け出すのだと。
***
次の日から、セラは必死に動き始めた。
図書館に通い、古い魔術書や伝承を片っ端から読み漁った。
鏡にまつわる伝説、呪いに関する記述――どれも曖昧で、確かな情報はほとんどなかった。
それでも、幾つかの文献に共通して書かれていたことがある。
『鏡の世界は、満月の夜にのみ境界が緩む』
『心から誰かを求める者は、儀式を通じて鏡を越えることができる』
満月の夜。
そして、心からの願い。
条件は揃っている。
問題は――どうやって、鏡を越えるかだ。
さらに調べ続けるうちに、セラはある小さな記述を見つけた。
『銀の粉と月光の水を混ぜ、鏡に祈りを捧げよ。
それが境界を開く鍵となる』
銀の粉、月光の水。
それらを探すのは容易ではなかったが、セラは諦めなかった。
***
日が過ぎ、満月の夜が迫る。
学校の帰り、セラは路地裏の魔具屋に立ち寄った。
埃っぽい店内で、銀の粉末を見つけ、月光を浴びせた清水も手に入れた。
荷物を抱えて外に出た時、夜空にはすでに、欠けることのない白い月が昇り始めていた。
(間に合う……)
セラは走った。
胸が痛いほどに高鳴る。
鏡の中で、ノアが待っている。
彼を助けるためには、今日しかない。
***
部屋に戻ったセラは、急いで儀式の準備を始めた。
鏡の前に、銀の粉と月光水を捧げる。
月明かりが鏡に反射し、幻想的な光を放った。
セラは深く息を吸い、手紙を鏡の前に置いた。
『ノアへ。
私、あなたを助けに行く。待っていて。』
そして、そっと目を閉じた。
心の中で、強く、強く願う。
――どうか、彼に届いて。
その瞬間だった。
鏡面が、微かに震えた。
セラが目を開けると、鏡の表面に波紋のようなゆらめきが広がっている。
それは、まるで水面のように揺れていた。
(これが……境界……?)
恐怖はあった。
だが、それ以上に、セラは強い想いに突き動かされていた。
ノアを助けたい。
彼と、きちんと向き合いたい。
その一心だった。
セラは、そっと手を鏡に伸ばした。
指先が、鏡面に触れる――その瞬間。
水面のような感触とともに、手が吸い込まれる。
「……!」
驚きながらも、セラは覚悟を決めた。
躊躇わず、鏡の中へと身を投じた。
重力が反転するような奇妙な感覚。
目の前が、真っ白に染まる。
そして、セラの意識は――鏡の向こう側へと、落ちていった。
***
次に目を開けた時、そこは異世界だった。
空は白く、地面はガラスのように透き通っている。
全てが鏡に映したような、奇妙な世界。
そして、ほんの少し離れた場所に、見覚えのある姿があった。
銀髪に、青い瞳。
手紙に綴られていた通りの、優しげな青年。
「ノア……!」
セラは叫んだ。
青年が振り向き、ゆっくりと、驚きに目を見開く。
「……セラ?」
その声を聞いた瞬間、セラの胸に溢れるような喜びが満ちた。
たしかに、彼はここにいる。
たしかに、出会えたのだ。
ノアは信じられないものを見るように、セラを見つめた。
「……本当に、来てくれたんだね」
「うん」
セラは力強く頷いた。
鏡の中の世界は静かで、どこか時間さえ止まっているようだった。
だがその中で、ノアだけが確かに存在していた。
セラは駆け寄ろうとしたが、何かに阻まれた。
透明な壁のようなものが、二人の間に立ちはだかっている。
「これは……?」
「僕を閉じ込めている結界だ」
ノアは苦笑した。
「この世界が崩れかけているんだ。結界は不安定になってる。
でも、同時に――僕自身も、限界が近い」
セラは、はっとした。
ノアの輪郭が、微かに揺れている。
まるで、風に吹かれる煙のように、不安定に。
「この鏡の世界は、僕の存在そのものと繋がっている。
時間が経つにつれて、僕自身が消えていくんだ」
ノアの声は穏やかだったが、セラにはそれが悲しい諦めに聞こえた。
「嫌だ……!」
セラは壁に手をついた。
冷たく、硬い感触。
簡単には壊れそうにない。
「どうにかして、ここから出ようよ。
あなたを現実に連れ戻す方法、きっとあるはずだよ!」
ノアは首を横に振った。
「一つだけ、方法はある」
セラは息を飲んだ。
ノアは静かに続ける。
「満月の力を借りて、この結界を破壊できれば、外の世界に出られる」
「できるんだね!」
「……ただし」
ノアは寂しそうに微笑んだ。
「ここから出られるのは、一人だけだ」
「一人だけ?」
セラは凍りついた。
「この世界は、魂の牢獄だ。二つの魂は耐えられない。
もし僕を連れ出そうとすれば、代わりに君がここに取り残されるかもしれない」
「そんな……!」
セラは足元が崩れそうな感覚に襲われた。
自分がここに来たのは、ノアを救うためだ。
でも、それは――自分自身を犠牲にするかもしれないということ。
ノアは、そんなセラの気持ちを見透かしたように、微笑んだ。
「君には戻ってほしい。
君は、まだこれから人生を生きるべき人だから」
「そんなこと、できない!」
セラは叫んだ。
「だって、ノア、あなたを……!」
好きだから。
まだ言葉にはできなかった。
けれど、胸の奥には確かにある想いだった。
ノアは一歩、セラに近づいた。
透明な壁越しに、そっと手を重ねる。
「ありがとう、セラ。
君と出会えて、本当によかった」
セラは、泣きそうになりながら手を伸ばす。
「私が、必ずあなたを助ける」
「セラ……」
「だから、諦めないで。
最後まで、希望を捨てないで!」
その声は、鏡の国全体に響き渡った。
そして、ノアの目にも、微かな希望の光が宿る。
***
満月が、鏡の世界を照らしている。
境界が開かれる瞬間は、刻一刻と迫っていた。
選択の時は、すぐそこにあった。
満月の光が、鏡の世界を銀色に染め上げていた。
空も大地も、すべてがきらめきながら揺れている。
世界そのものが、静かに崩れかけていた。
ノアとセラは、透明な壁越しに向かい合っていた。
「セラ、もう時間がない」
ノアが、静かに告げる。
「満月が頂点に達する瞬間――境界が一度だけ開く。
そこを突破すれば、君は現実に戻れる」
ノアは、自分ではなく、セラの帰還を促していた。
まるで当然のように。
「……あなたは?」
セラは問うた。
ノアは、微笑んで答える。
「僕は、ここに残るよ。それが、正しいんだ」
「それが正しいって、誰が決めたの?」
セラは震える声で叫んだ。
「私は、あなたを助けに来たの! あなたを置いて帰るためじゃない!」
「でも、君がここに残れば――」
「それでもいい!」
セラの叫びは、世界の揺らぎすら一瞬止めた。
「私は、自分で決める。
誰かを助けるためにここへ来たんだから、最後まで、自分の意思で選ぶ」
ノアの目に、戸惑いが浮かぶ。
そして、初めて、彼の表情に深い悲しみが滲んだ。
「……君は、優しすぎるよ、セラ」
セラは涙ぐみながら、強く頷いた。
「あなたを独りにしたくない。それだけなの」
満月が、頂点に近づく。
時間は、もうない。
***
「境界を破るには、二人の強い願いが必要だ」
ノアが、低く告げた。
「どちらか一人が外へ出る強い意思。
その想いだけが、道を開く」
セラは迷わなかった。
「だったら、私はあなたを願う」
「セラ……」
「あなたに、生きてほしい。
あなたに、もう一度、自由な空の下を歩いてほしい」
透明な壁越しに、セラは両手を広げた。
「私の願いは、あなた」
その瞬間、鏡の世界に大きな亀裂が走った。
地面が砕け、空が崩れる。
すべてが終わりに向かって加速する中で――
ノアは、最後の一歩を踏み出した。
セラの元へ、手を伸ばす。
そして、透明な壁を超えた。
手が、触れた。
現実のように、確かに、触れ合った。
***
眩い光が、二人を包み込む。
セラはノアの手を握りしめたまま、目を閉じた。
このまま、すべてを捧げてもいいとさえ思った。
けれど――
気づくと、自分は鏡の中に立っていた。
そして、鏡の向こう側に、ノアの姿を見た。
今度は、彼が外に出ていた。
ノアは、こちらに向かって叫んでいた。
「待ってろ! 必ず、君を助けに戻るから!」
セラは、微笑んだ。
ガラスの壁越しに、そっと手を重ねる。
(うん、待ってる)
声は出なかったが、想いはきっと届いた。
鏡の世界は、音もなく閉じていった。
***
現実世界。
ノアは、倒れ込むように床に落ちた。
呼吸が荒く、全身が痛んだが、それでも生きていた。
目の前には、大きな鏡がある。
そこに、セラの微笑む姿が映っていた。
今度は、彼が彼女を助ける番だった。
そして、必ず、彼女を連れ戻す。
そう、心に誓いながら――。
現実の世界に戻ったノアは、目を覚ました。
長い時間を鏡の中で過ごしていたためか、身体は思うように動かず、世界は眩しく、やけに生々しかった。
だが、そんなことはどうでもよかった。
彼の胸にあるのは、ただ一つ。
(セラを、助けなきゃ)
鏡の中に、今度はセラが囚われている。
彼女を救うためなら、どんなことでもする。
***
だが、ノアはすぐに気づいた。
――この世界も、完全に安全ではない。
鏡の中にいた間に、現実世界では微妙に時が流れていた。
レグレア地方に伝わる「鏡の封印法」を知る者たちが、古代の力を取り戻し、鏡の封印を強めようとしていたのだ。
もし鏡を完全に封印されれば、セラは二度とこちらに戻れなくなる。
「急がないと……!」
ノアは、かつての騎士としての勘を頼りに動き出した。
かつて王国に仕えていた時の知識を総動員し、必要な儀式、材料、すべてを集める。
満月の夜、境界が再び開くまで、あとわずか。
その時こそ、セラを取り戻すための唯一の機会だった。
***
夜。
ノアは鏡の前に立った。
手には、銀の粉と月光の水、そして彼自身の血を混ぜた特別な印。
それを使い、儀式を始める。
月光が鏡に注がれ、鏡面が静かに波打つ。
彼の声は低く、祈るように響いた。
「セラ、迎えに来たよ」
願いは真っ直ぐだった。
かつてセラが自分を救いに来てくれたように。
今度は自分が、彼女を救う番だ。
***
鏡面が大きく揺れた。
次の瞬間、ノアの身体は再び鏡の中へと吸い込まれていく。
異様な重力に引きずられる感覚。
だが、ノアは迷わなかった。
どこへでも行ける。
どんな困難でも、越えられる。
彼女が待っているのなら。
***
気がつくと、ノアは再び、あの鏡の国にいた。
しかし、前とは違っていた。
空はひび割れ、地面は砕け、世界そのものが崩壊寸前だった。
この世界の寿命も、もう長くない。
「セラ!」
ノアは叫んだ。
どこかで、彼女が助けを求めているはずだ。
その声に応えるように、遠くで微かに名前を呼ぶ声が聞こえた。
「ノア……!」
ノアはその声を頼りに走った。
崩れる大地を飛び越え、裂け目を駆け抜け、ひたすらに。
待ってろ、セラ。
もう、絶対に君を一人にはしない。
崩れゆく鏡の世界を走り抜け、ノアはついに、彼女を見つけた。
セラは、割れた大地の裂け目の先にいた。
白いワンピースを纏い、必死にこちらを見つめている。
その姿は小さく、儚く、それでも強く光を放っていた。
「ノア!」
セラが手を伸ばす。
ノアも、全力でその手に向かって走った。
だが、間には深い亀裂があり、一歩間違えれば奈落へと落ちてしまう。
「動かないで! 俺が行く!」
ノアは叫び、剣を抜き放った。
その刃を地面に突き立て、崩れかけた大地を必死に渡る。
一歩、また一歩。
世界は軋みを上げ、空間そのものがひび割れていく。
セラも叫んだ。
「急いで、ノア! この世界が……!」
ノアは最後の力を振り絞り、裂け目を飛び越えた。
そして、ようやく――セラの手を、しっかりと掴んだ。
二人の掌が重なった瞬間、周囲の世界が眩い光に包まれた。
***
「……来てくれたんだね」
セラは、震える声で呟いた。
「当たり前だろ」
ノアは苦笑した。
セラは、涙をこらえながら微笑む。
「ありがとう、ノア……」
互いの存在を確かめるように、しっかりと手を握り合ったまま、二人は崩壊する世界を見上げた。
だが、ここで終わりではない。
「……出口を探さなきゃ」
ノアが低く呟く。
セラも頷いた。
このままでは、二人とも世界と共に消えてしまう。
出口は、必ずどこかにあるはずだった。
ふと、ノアは気づいた。
空の中心に、ひときわ強く輝く場所がある。
「あれだ!」
ノアはセラの手を引き、走り出した。
崩れる地面を踏みしめ、砕ける空間をすり抜けながら、二人は光の方へ向かう。
だが。
光の門にたどり着いた時、そこに現れたのは――
鏡の番人だった。
透明な鎧に包まれた、巨大な存在。
無表情の仮面を被り、無言で道を塞いでいる。
「……この世界を管理する存在だ」
ノアが低く唸る。
番人は、明らかに彼らの脱出を阻もうとしていた。
「通してもらうわけにはいかない、よね」
セラが、きゅっと拳を握った。
ノアは剣を構える。
ここを突破しなければ、未来はない。
「行くぞ、セラ!」
「うん!」
二人は、並んで駆け出した。
***
番人との戦いは熾烈だった。
剣も魔法も、ほとんど効かない。
だが、二人はあきらめなかった。
互いに信じ、力を合わせ、少しずつ、少しずつ道を切り拓いていく。
「ノア、今!」
セラが叫び、ノアが跳躍した。
剣を振り下ろし、番人の胸に一撃を叩き込む。
透明な鎧が砕け、光が弾けた。
番人は、無言のまま崩れ落ちる。
***
静寂が訪れた。
目の前には、光の門が開かれている。
そこへ辿り着けば、現実に戻れる――
だが。
「……一緒には、出られない」
ノアが苦しげに言った。
「この門を通れるのは、ひとりだけだ」
またしても、残酷な選択だった。
セラは震えた。
でも、ノアは、そっと彼女の肩に手を置いた。
「君が行くべきだ。
君が、この世界を越えて、生きていくべきだ」
「でも……!」
「君は、僕を助けに来てくれた。
今度は、僕が君を生かしたい」
ノアの瞳は、真剣だった。
セラは、涙を浮かべながら、それでも頷いた。
「……わかった。
でも、必ず、また会おうね」
「約束だ」
二人は、最後に強く手を握り合った。
そして、セラは一歩、門へと進んだ。
セラは、光の門の前で立ち止まった。
振り返ると、そこにはノアがいた。
微笑んで、そっと手を振っている。
崩れかけた世界の中で、たった一つ、変わらない存在。
「行って」
ノアは優しく言った。
「君が生きる未来を、俺は見たいんだ」
セラは、目に涙をためながら、それでも一歩を踏み出した。
門の中から、暖かな風が吹きつける。
現実の世界の匂いがした。
あと一歩。
それだけで、元の世界に戻れる。
けれど、セラの足は止まった。
(本当に、これでいいの?)
ノアを、置き去りにして。
自分だけ、救われて。
それで、本当に――?
***
ぐらり、と世界が傾く。
時間が、ない。
もし今決断しなければ、門も、すべての道も消えてしまう。
セラは、ぎゅっと目を閉じた。
そして――振り返った。
「ノア!」
走り出す。
驚くノアのもとへ。
彼の手を、ぎゅっと握った。
「一緒に行こう!」
「でも、門は……!」
「いいの! 一緒に行くの!」
セラは叫んだ。
「あなたと一緒じゃなきゃ、意味がない!」
ノアの目が、大きく見開かれる。
そして、笑った。
それは、セラが今まで見た中で一番綺麗な笑顔だった。
「……わかった」
ノアは、強くセラの手を握り返した。
「一緒に、行こう」
***
ふたりは、手をつないだまま、光の門へと駆けた。
崩れ落ちる世界。
迫る終焉の気配。
だが、ふたりの心には、もう恐れはなかった。
たとえどんな困難が待ち受けていようとも――
ふたりなら、乗り越えられる。
***
門をくぐった瞬間、世界が弾けた。
眩い光に包まれ、セラはノアの手の温もりだけを頼りに、意識を保とうとした。
(絶対に、離さない)
そう強く誓いながら。
目を開けたとき、セラは眩しい光に包まれていた。
冷たい感触はなく、あたたかい春の空気が肌を撫でる。
そこは、間違いなく現実の世界だった。
ゆっくりと身体を起こすと、すぐそばに――ノアがいた。
彼もまた、目を開け、セラを見つめていた。
「……帰ってこられたんだな」
掠れた声で、ノアが言った。
セラは答えず、ただノアに飛びついた。
ぎゅっと、力いっぱい抱きしめる。
「……バカ、どうして、こんな危ないこと一緒にしようって言うのよ」
震える声に、ノアは優しく微笑み、セラの髪に手を添えた。
「君が、俺を一人にしないって言ったから」
それだけだった。
それだけで、ノアは迷わず、セラの手を取ったのだ。
セラは顔を上げ、ノアの瞳を覗き込んだ。
深い青の中に、自分だけを映してくれている。
この瞳を、失わなくてよかった。
「ねえ、ノア」
「うん?」
「また、これからもずっと、一緒にいてくれる?」
それは、セラにとって勇気のいる言葉だった。
でも、ノアは迷わず答えた。
「当たり前だろ。……約束する」
その瞬間、二人は微笑み合った。
もう、何も恐れるものはなかった。
***
後日、セラの家には、あの大鏡が今もある。
だが、もはや鏡の中に手紙は届かない。
それはもう、必要ないからだ。
互いに、直接言葉を交わせるのだから。
それでも、二人は時々、鏡の前に立つ。
初めて手紙を交わしたあの日のことを思い出すために。
ノアはふざけて言った。
「今度は、手紙じゃなくて口でちゃんと伝えるよ」
セラは笑った。
「じゃあ、ちゃんと書いてくれた初めての“好き”は、鏡の国に置きっぱなし?」
「……それも、取り戻さないとだな」
照れたように笑うノアの横顔を見ながら、セラは幸せを噛みしめた。
***
たとえ世界がどんなに変わっても。
たとえ運命がどんなに二人を引き離そうとしても。
セラとノアは、もう迷わない。
初めて交わしたあの日の約束――
『また、会おう』
それを、今度は永遠に誓ったのだった。