②
「陛下。
いえ、リリスさま」
モナサッドは主君へ向け、意外に落ち着いた口調で告げた。
「もうまもなく賊軍がこの広間にまでやってきます。
おそらくあと半刻ももたぬことでしょう。
いったん宮殿を逃がれ、いずこかへ身を寄せましょう。
わたしが一命に代えて御身をお守りいたします」
リリスは、わずかに不興をおぼえ、
その火の色をした双眸をうすくほそめた。
「何をいう。
わたしはここで死ぬ。
それはおまえたちも承知していたことではないか」
浅黒い膚の若者は深々と嘆息した。
「しかし、
陛下が身まかられてしまってはこの世から光が失われるも同じ。
どうかいまいいちどお考え直しください」
「くどい。
すでにくりかえし話しあったこと。
わたしはここで国と運命を供にすると」
「納得したわけではありません」
リリスは苛立たしく玉座に指を叩いた。
「良いか。
皇帝なき帝国はありえても、
帝国なき皇帝などというものはあってはならぬのだ。
夜の国を統べる大君主たる者が、
最後には命惜しさに逃げ出したなどと人間どもに語られては末期の屈辱。
なぜ、いまさらそのようなことをいい出す。
主君に恥をかかせたいのか」
「決して」
モナサッドはすがりつくような目でかれの少女皇帝を見上げた。
リリスはその必死な目つきのなかに、
ふと、
二十年前、
まだほんの二歳の子供であったころのかれを見いだし、胸を撞かれた。
かれとともに過ごした日々の豊饒な思い出が、
いまさらに思い出され、ほのかに切ない疼痛のような想いがよぎる。
帝国が滅ぶとわかっていなからモナサッドを三人目の眷属に選んだのは彼女であった。
あるいは、自分はかれの身上に対して責任を負っているかもしれぬ。
そう思った。
いくぶん口調を変え、主君たる皇帝ではなくかれの〈血の母〉として、諄々と説き伏せるように語りかけた。
「モナサッド、
何もおまえまでここで死ぬことはない。
おまえは逃げて先々まで生き残れ。
これから人間たちの時代が来る。
わたしの財宝の管理人として、わたしに代わって来たるその時代を見とどけるのだ。
わかったか」
「いやです」
モナサッドはわがままな幼児のように首を振った。
「おれもここであなたと供に死にます。
あなたのいない闇黒の世界にひとり生きのびて、何の歓びがあることでしょう?」
リリスもまたほそい首を振る。
「子供のようなことをいうな。
聞き分けておくれ。
おまえはまだ若い。
わたしと違って十分に生きてはいないはずだ」
「ですが――」
こんどはリリスのほうがちいさく嘆息した。
もし自分の胸を切りひらいて
この心臓に流れる熱い想いをかれに伝えられたなら
どれほど良いだろう。
それができぬのだとしたら、ただ言葉を尽くすよりほかない。
「わかってくれ。
愛しているのだ、モナサッド。
おまえは冷血と人間を含め、この一千二百年のあいだにわたしが心から愛したわずかな者のひとりだ。
ゆえにこのような無惨なたたかいで命を散らしてほしくはないのだ。
どうか理解してはくれぬか」
ふたりのあいだに、冷たい沈黙が横たわった。
そのあいだにも、
そとの戦場から激しく暴力と死の音がひびいてくる。
「陛下」
「ああ」
「わかりました」
「わかってくれるか」
「はい。
ですが、あえて死の運命をくつがえしひとりで生きのびろとおっしゃるのなら、
どうか陛下もお考えを変えてください」
リリスはわき上がる疑念に片目をすがめた。
「まだいうのか?」
「いいえ、
この上、無為に生きのびろとは申しません。
ただ、どうかいつかわたしと再会を遂げると約束していただきたい」
「何?」
「そう、
〈天祖〉直系のお子たるあなたさまはたとえ塵と化してもいずれよみがえることが可能であるはず。
転生の秘術をお使いください。
そのお約束がいただければわたしもこの場を去ります」
「ばかなことを」
夜の国最後の女帝は思わず玉座から立ち上がりかけた。
「たしかにその意志さえ持っていれば真祖は塵からでも生まれ変わることが叶う。
それはほんとうだ。
が、その秘術はおまえがいうようにかんたんなものではない。
真に転生を遂げるとしても、百年先になるか二百年かわからぬのだ。
モナサッド、
おまえはわたしとの再会のため、百年を、二百年を待ちつづけるとでもいうのか」
「百年が三百年であってもお待ちいたします。
あなたはわたしのたったひとりのお方。あなたをお待ちすることだけが、わたしの生きる意味なのです」
「戯れ言を」
リリスは吐き捨てた。
しかし、
モナサッドの目を見つめると、
そこに真実を見いださずにはいられなかった。
初めて驚愕し、
華奢な肢体を玉座のうえで前傾させる。
「ばかな、なぜそこまで」
モナサッドは頭を下げ、
血にぬれた剣をからだのまえでかまえ、騎士の一礼を示した。
その双眸には
いまやただの懇願でも戦闘の狂気でもなく、
なにかもっと切実な想いがひかっているようでもあった。
それはリリスの従僕としての忠誠だっただろうか。
あるいは〈血の子〉として母へ向けた愛情なのか。
さもなければ、あるいは――
「お慕いしております、リリスさま」
誇らかに口にする。
「あなたという星なきこの世界は闇。
どうして闇のなかたったひとりで永遠を生きられましょう。
どうか百年後の再会を約してください。
そうでなければ、おれもまたこの城で討ち死にします」
「そのようなことは――」
「いいえ。もう時間がありません。ご決断を」
モナサッドは血にぬれた頬に爽涼なほほ笑みを浮かべた。
死をも覚悟した表情を。
リリスとモナサッド、
運命の女神の嫋やかな繊手がひととき結びつけた〈血の母子〉は万感の想いをこめて見つめあった。
そうして、どれほどの時が流れたことであろう。
リリスには永遠が過ぎ去ったとも感じられたが、ほんの数秒にしか過ぎなかったかもしれぬ。
宮殿の防御を突き崩す大砲のすさまじい音が鳴りひびくなか、彼女はしずかに頷いた。
「わかった。
おまえのいうとおり、転生を試みよう。
いつか生まれ変わってよみがえることを念じながら死んでゆくと誓おうではないか。
わたしは冷血の真祖。
それだけでいつか生まれ変わることができるはずだ」