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彷徨う海亀、死にたがりのマンボウ  作者: みーなつむたり
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4話


 更紗の毎日の一端に、長江洸の作品を1話ずつ読むことが加わった。


 長江の作品は短編ばかりだったが、どれも暗くて心を挫く。なのに物語が終わる度、何故か不思議と次の作品への淡い期待を抱かせた。


「もしかしたら、次の主人公たちは幸せになれるかもしれない。」と。


 しかし次の作品を読んでもやはり同じように心を挫かれる。毎度、期待は裏切られた。


(この人は、本当に人間が嫌いなんだろうなぁ。)


 更紗は漠然とそう思った。

 本来ならば、これほどまでに他者を拒絶する人間に、関わるべきではないと脳が訴える。

 しかし心が、『長江洸』の作品を読むことを止めようとしない。そんな未知の感覚だった。


(不思議だわ。とても、…面白い。)


 人間嫌いの人間に興味があったと言われれば、確かにそうなのかもしれない、と更紗は思う。


 この感情へ付ける名前を、更紗は今は知らなくてもよいのではないかとも考えていた。


     ※ ※ ※


 その日、更紗はいつものように出勤して、ロッカールームで作業着に着替えていると、背後で若い女性二人が楽しそうに会話を始めた。


 彼女たちは先日入社した新入社員で、大学卒の幹部候補生だった。着ている作業着は更紗たち期間工のものとは違い、袖に金糸で社章が刺繍してある。


「え?マジで?」

「うん、花梨の紹介だから間違いないって。IT企業の男揃えるって言ってたし、」

「マジで行くよ!行く行く!今日の何時?」

「6時。定時でも間に合わないから、早退けするよ。」

「だね。あいつ小心だから、うちらの言うこと逆らえないしね。」


 『あいつ』とは、更紗の働く課の課長、堤下のことに他ならない。


「………ッ」


 更紗はギリっと奥歯を鳴らした。


 堤下は、更紗が中途採用された時から世話になっている直属の上司で、今年大学生になる娘を持つ。柔和だが頭の回転が早く、部下のミスをきちんと注意した上で、幹部に頭を下げることができる、目立たないが辣腕家だった。


(ひどいッ、堤下さんがどれだけあんたたちのミスをカバーしてくれてると思ってるのッ)


 彼女たち幹部候補生は、仕事に対する責任感がとても薄い。残業を断ることはもちろん、トイレに行けば戻ってこないし、くだらない理由を並べてはライン作業に入ろうとしない。彼女たちの日常は、ひたすら事務所で談笑することに費やされている。


 ゆえにライン作業を主とする古株たち年配工員の評判はすこぶる悪い。だが、彼女たちは将来的には本社における事務仕事が約束されているため、一般工員や期間工たちは、ただただ厄災が去るのをじっと我慢するより他に術がなかった。


 本来ならば、更紗も無視を決め込むべきだった。だが、


「ちゃっと、すみませんけど。…仕事、そんな理由で早退けするなんて、無理ですよ。堤下課長もそんな理由での早退けは認めてくださいませんから。」


 あえて更紗は振り返り、背筋を伸ばして彼女たちと対峙したのだ。


「はあ?何なの?盗み聞きとかキモいんだけど」


 突然の抗議に対し、当然のように彼女たちは悪態を吐く。

 苛立ちを隠しきれずに更紗はキッと目を尖らせた。


「こんな狭い部屋であんな大きな声で話されてて、聞こえないようなら私、耳鼻科行かなくてはいけませんね。」

「はあ?しょうもな。何言ってんの?」

「とにかく、仕事なんですから、プライベートは二の次にしてくださらないと、また堤下課長にご迷惑が、」

「はあ?何なの、ていうか、あなた誰?あれ、もしかして…堤下と付き合ってんの?」

「………。はい?」


 呆気に取られた更紗の反応に、幹部候補生の彼女たちは、途端に顔を見合わせクスクスと笑い始めた。


「………な、」


 更紗は、彼女たちのあまりの発想の幼稚さに二の句が継げず、唖然とした。思考が止まる。


 その沈黙を彼女たちがどう解釈するのか、更紗は咄嗟に判断することができなかった。


「うわぁ、もしかして、この人、マジで堤下と不倫してんの?…うわ、キモ」

「………なっ、」


 彼女たちの言葉に、更紗の背筋は一気に寒くなる。刹那、血が激しく頭部へと逆流した。


「何言ってんの!そんなわけないじゃない!」


 声を荒げ、怒りから顔が紅潮していくのが自分でもわかる。だが、更紗が激昂すればするほど、彼女たちの真っ赤な唇はみるみるいびつに歪んでいく。


「………っ」


 更紗の、太股の影で握りしめた拳は、虚しくただ、震えていた。


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