0000 『目覚め』
神と呼ばれる存在は二つの世界と数多の生命を創造し、創暦という時代が産声を上げた。
あらゆる生命、物質、現象の源泉とされる魔力に満ち、人間が暮らす世界、地上。
淀んだ魔力が充満した資源に乏しく、荒廃した過酷な、悪魔が生きる世界、魔界。
二つの世界は隔絶され、不規則かつ一時的に発生する《暗穴》という穴を通ってのみ行き来が可能となる。悪魔は、豊穣な世界を求めて地上に侵攻を繰り返し、人間と悪魔の争いが絶え間なく続いていた。
永くに渡る争いが何時まで続くのか、知る者は創造主である神を含めて誰一人としていない。
分かっていることは、一つ。
悪魔は、他の生物より圧倒的に優れている。
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目蓋を陽光に温められ、夢に沈んでいた意識が現実へと浮上してゆく。
靄が晴れていくように明瞭となる意識の中、最初に感じたのは柔らかな何かへと沈む感覚。どうやら、ここは寝室でベッドか何かに寝転がっているらしい。体の自由は利かず、頭が重くて立ち上がれない。
どこか見覚えのある木製の天井を視界に映し、何とか立ち上がろうと踠いていると、視界の外から若い男が声を掛けてきた。
「ん? 起きたか、ちょっと待ってな。直ぐに母ちゃんのところに連れていってやるからな」
「だうぇ?」
だれ?、と言ったつもりが上手く発音できない。寝起きで呂律が回らないわけではなく、もっと根本的な理由。物理的に舌足らずなのだ。
手足も舌と同様に短くなっている。ばたつかせてみてわかったが、自分の体格が三頭身ほどに縮んでしまっている。
「うーうー」
「どうした、じたばたして? オシメか?」
「てぃあう!」
「そうだよな、臭ってないしなぁ。わかった、腹ペコでぐずってんだな」
「てぃあ~う!」
「これも違うかぁ……、あっ、母ちゃんに会いたいんだな」
そう言うと男は片手で軽々と俺を抱え上げ、寝室を後にする。
(まだ、寝てんだな)
寝室を後にして、廊下に出たあたりで、自分が赤ん坊だった頃の記憶を夢の中で追体験していることに気づく。
まだ鏡を見たわけではない。だが、重い頭、舌足らずな言葉、短い手足、三頭身の体、オシメの心配、片手で抱き抱えることができる軽い体重。
これだけ該当する条件があれば、赤ん坊となっていることは間違いないだろう。
夢であると判断したことにも理由がある。俺は、この夢を何度も、何十度も繰り返しているからだ。
毎回内容は同じ。不思議なことに朝起きても夢の内容を明確に覚えていて、正直、見飽きている。
(来た)
夢だと決めつけたことで、世界の見え方に変化が起こる。
赤ん坊の自分という主観的な見え方が、夢を眺める自分という客観的な見え方に切り替わる。男に抱えられて天井を見上げていた視界が、赤ん坊の自分を見下ろすような視界に瞬きの間に変わるのだ。
初めの頃は驚いていたが、もう慣れた。
ただ、
(父さんの顔は相変わらず、見えねぇな)
赤ん坊の俺を抱き上げる男の顔がぼやけていて判然としない。状況的に、父さんで間違いないはずだが、今まで見てきた夢で男の顔を見れたことは一度もない。
(記憶が夢を形作るって、どっかで聞いたな。まぁ、赤ん坊の頃の記憶なんてこんなもんか)
父さんの顔がぼやける理由も、この夢を見る理由も、なんとなくだが予想はついている。
ただまぁ、毎度隠されていると気にはなる。
「よっし、着いたぞ!」
「ういたー!」
視界が変わったことによる影響か、赤ん坊の俺の行動は俺の意思に反し始める。
もしかしたら、今の状態はただ単に視界が変わったのではなく、赤ん坊の俺の体から、この光景が夢だと気づいた俺の意識が追い出された状態、噂に聞く幽体離脱のようなものかもしれない。
「ほれ、もう少しでお待ちかねの母ちゃんに会えるぞ」
「あいっ!」
「元気いいなっ、やっぱ母ちゃんに会いたかったんだな。一発で見抜くなんて、流石だな俺」
(いや、一発目はオシメの心配だったよな?)
自画自賛する男にツッコミ入れるのと同時に、特徴のない木製の扉を潜り、赤ん坊を抱き上げた男はダイニングにたどり着く。
広くも狭くもない四人掛けのテーブルが置かれただけの質素な一室。これといった特徴のない部屋だが、白いレースのカーテンを透かす温かな陽光と隣接したキッチンからの朝食の香りは、不思議と郷愁をくすぐる。
「おはようございます。もうすぐ朝食ができるので少し待っててくださいね」
ダイニングとキッチンを繋ぐカウンターから声が掛けられる。若い女性の声だ。
「おはよう。いつも朝飯を作らせちまって悪ぃな、何か手伝おうか?」
「あなたは夜まで働いているんだから、家に居るときくらいはゆっくりしてください。料理は趣味みたいなものなので気にしない下さい。むしろ、あなたが勝手に料理をしていたら、この間みたいに拗ねちゃいますよ?」
「そういや、そんなこともあったな。ってことだ、母ちゃんはもうちょっとお預けな」
「うーうー」
母ちゃん、声の主である女性のことだろう。言葉通り、俺の母親。
(母さん……)
出来上がった料理を一度カウンターに置き、俺の母さんがダイニングへとやって来る。
成人女性では平均的な身長に、太っても痩せてもいない体格、綺麗というよりは見ている人を安心させる優しい顔つき。肩まで伸ばした白髪と黒曜石のように澄んだ瞳の対比が印象的な、若い女性。
父さんと思われる男とは違い、母さんの顔ははっきりと見える。
単純に母さんと接する時間の方が長かったから、記憶に残っているのだろう。
「んじゃ、料理を並べて朝飯にしようぜ!」
赤ん坊を幼児用の椅子に座らせ、男と母さんがカウンターに置かれた朝食を食卓へと並べていく。
メニューは葉野菜のサラダ、目玉焼きの乗ったトースト、ベーコンとポテトの炒め物の三品。
(いつ見ても、旨そうだ)
料理が趣味というだけあって母さんの料理は手間が掛からないものにも関わらず、とても美味しそうだ。事実、夢の登場人物たちの反応から見て、とても美味しいのだろう。
(見せつけられる方は、たまったもんじゃねぇけどな)
毎度同じメニューとはいえ朝食を食べる光景を見ていると、俺にも食べさせろ、と言いたくなる。
しかし、この夢の中の俺は意識だけ。夢に干渉できず、見ていることしかできない。
「んじゃ、いただきます」
「いただきます」
「いたーあきあう」
仲良く号令して食事を始める。
「ん? どうした、こっちをじっと見たりして」
「うー!」
「あぁ、こっちが食べたいんだな。だよなぁ、パン粥よりこっちのほうが旨そうだもんな。でも、なぁ……」
「ダメですよ、離乳食を卒業するには早すぎます」
「うぅ、う……?」
「そ、そんな子犬みたいな目で見つめても、ダメなものはダメです! 私は屈しません!」
「だそうだ、惜しかったなぁ。でも、今の感じだと明日はいけんじゃね?」
「いけません! もうっ、あなたまで変なこと言わないでください!」
大人と同じ食事をねだる赤ん坊を嗜める母さん。
その様子を楽しげに見守る男性。
パン粥がおいしかったらしく、口の周りをベタベタにして頬張る赤ん坊の俺。
三人の少し騒がしく、優しく、温かな時間が緩やかに過ぎてゆく。
(……いいなぁ)
陽だまりのような幸せな時間を、俺も一緒に過ごせたなら……この夢を見るたびに、そう思う。
ただ、赤ん坊への羨望だとか、嫉妬だとかは直ぐに霧散する。
(そろそろ、だな)
瞬間、朝食、家具、男性、母さん、……目の前の光景の全てが漂白され、赤ん坊と俺の意識だけが取り残される。
「お前だけは……生きて、……し、あわせに」
息も絶え絶えとなった男性の声が聞こえたと同時に、漂白された光景が黒く染め上げられ、俺の意識と赤ん坊は、黒い空間に取り残された。
これも、いつものことだ。
夢が終わろうとしている。
「ぱぁぱ」
夢の終わりという自覚を持った俺の意識とは違い、夢の登場人物である赤ん坊にとっては突然に訪れた幸せの喪失。
「まぁま」
赤ん坊が両親を喪う孤独感に耐えられるはずもなく、両親を呼ぶ声は次第に涙と嗚咽で掠れ、数分としないうちに泣き声に変わる。
(ったく、胸糞悪ィ)
意識だけの俺は現実で目を覚ますまで、延々と、永遠と、黒く染め上げられた世界の中心で赤ん坊の自分が泣き続ける光景を見せつけられるのだ。
いい加減にして欲しい。
赤ん坊が泣き続ける光景に嫌気が差した頃、俺の意識に変化が生じる。
(がっ、は!?)
殴られたような衝撃を腹に感じ、意識が現実へと急上昇してゆく。
目覚めの兆しだ。あと数秒としないうちに、俺は現実で目を覚ますだろう。
(この起こし方はやめろって、何度も言ってんだけどな……いい加減、体がもたねぇぞ)
起きたら下手人たあ値に文句を言ってやる、と心に決めて、レンヤ・アルーフは夢の世界を後にする。