報酬
「報酬は、前払いだ」
旅の戦士ドライオが自分の主義を曲げてまで、そう言ったのには当然理由があった。
彼が護衛を引き受けたその商人には、最初から約束の報酬を踏み倒そうという気配が漂っていた。
旅が始まってから毎日のように、取るに足らない、ごくささいな失敗とも言えないような失敗を針小棒大に取り上げて、そのたびにドライオの責任を問おうとしてきた。
こちらから何か提案をすれば全て却下し、二言目には報酬を減額しようとする。
あまりの苛立ちに、この山道でこいつをぶっ殺して報酬分だけ金を奪って立ち去るか、と半ば本気で考えたドライオだったが、商人はドライオの表情に殺気が漂い始めるといつも、急に態度を軟化してなだめにかかった。
それでドライオが渋々矛を収めると、またしばらくしてほとぼりの冷めた頃に、商人はねちねちと彼の非をあげつらい始める。
今までもこうしてやってきたのだろう。
ドライオは思った。
これは、布石のつもりなのだ。
ケチをつける材料を道中、あれこれと用意しておいて、目的地に着いていざ報酬を払うというときに、それらをまとめて蒸し返して報酬を払わないつもりなのだろう。
冗談じゃねえぞ。
ドライオは思った。
こっちは自分の命に値段をつけてるんだ。
減額する気なら、その分は命で返してもらう。
その日も、実りのない不毛な言い合いの後で口をつぐんだドライオを見て、反論できずに黙り込んだと思ったのだろう。商人は口元にいやらしい笑みを浮かべて、まあお前の気持ちも分かる、と言った。
「一獲千金を夢見てこの国に来たんだろうが、お前程度の腕の戦士はごろごろいる。思うように稼げないもんだから、儂に当たりたくもなるわな」
勝手なことをほざいて背を向けた商人の禿げ頭を、ドライオは後ろから呼び止めた。
「おい、待てよ」
その不遜な響きに商人が振り返る。
「お前、仮にも雇い主に」
そう言いかけた商人の頭のすぐ上を、ドライオの戦斧が通り過ぎた。
戦斧は商人の脇の木の幹に大きな音とともに炸裂し、それを半ばまで深々と抉ってようやく止まった。
口をぱくぱくとさせて喘ぐ商人に、ドライオは言った。
「うるせえんだよ、はげ」
ドライオは顔を歪めて唾を吐いた。
「報酬は、前払いだ。それができねえのなら、俺はここで帰らせてもらう」
しばらく顔面を蒼白にして喘いでいた商人は、ようやく言葉を取り戻した。
「ここで帰るだと」
商人はドライオを睨みつけた。
「こんな山の中で帰っていいわけがあるか」
「お前の意見は聞いてねえんだよ」
ドライオは唇を吊り上げて笑う。
そうすると、元から良くない人相がさらに凶悪に見えた。
「帰るのは俺だ。お前は一人で好きに行けばいい」
「貴様」
商人は自分の荷物を腹の前で抱きかかえて、顔を歪める。
彼が決して放さないその荷物の中に、売り物の貴重な宝石が入っていることはドライオも知っていた。
「契約不履行だ」
商人は叫んだ。
「信頼を裏切る最低の行為だ。私の力を知らんようだな。貴様、これからこの国でまともな仕事にありつけると思うなよ」
その言葉に、ドライオはにやりと笑う。
「おう、上等だ。お前は今日の飯にもありつけやしねえがな」
そう言って、商人の背後を指差す。
「何だと」
振り返った商人が、また言葉を失った。
背後の茂みからじわりと忍び寄る邪悪な小鬼どもの一団を目にすれば、それも当然だろう。
小鬼の数は十を超えていた。
「こんなところでもたもたしてるからだ」
ドライオはそう言って商人の肩を叩いた。
「俺の言うことを聞いて、さっさと先を急げば良かったものをよ」
商人の唇がぶるぶる震えた。
「減額だ」
意外な言葉に、ドライオは眉を上げた。
「何だと?」
思わずそう訊き返す。
「聞こえなかったか。減額だ」
そう言い放つ商人の唇はまだ震えていた。
「減額だ、減額。雇い主をこんな危険な目に遭わせおって」
ドライオは唖然として言った。
「いや、そんなこと言ってる場合かよ。もうそこまで鬼どもが」
だが、商人は激しく首を振った。
「だまれだまれ、だまれ! 報酬は半分しか払わんぞ」
ドライオはため息をつくと、木の幹に刺さったままの戦斧を手に取った。
「それなら俺の仕事はここまでだ」
そう宣言して、商人を睨みつける。
「こっから先は、自分でやりな」
さすがにこの辺りで商人も泣きついてくると思っていた。なにせ小鬼たちはもう目と鼻の先まで迫っていたのだ。
だから商人がもう一度首を振ったときは、ドライオは自分の目を疑った。
「勝手な真似は許さん」
商人は叫んだ。
「儂を守れ。半額でだ」
ドライオは小さく首を振る。
「おっさん。そんなこと言ってると本当に死ぬぞ」
それは脅しでも何でもなかった。ドライオは事実を述べただけだった。
だが、商人はそれでも首を振った。
「命など要らん。命より、金だ」
「そんなわけあるかよ」
ドライオは眉根を寄せる。
しかしもう問答をしている余裕はなかった。ドライオは戦斧を構えた。
「おっさん、それでいいのか。本当に」
最後にもう一度、念のためそう尋ねた。
商人の答えは、だまれ、減額だ、だった。
散らばった小鬼の死体を足で転がし、その下に商人の死体を見付けたドライオは、その懐を探って数枚のマレニウス金貨を手に取った。
ここまでの報酬としては、こんなもんか。
一人頷き、自分の懐に入れる。
脇に投げ出されている商人の荷物には手を付けなかった。
報酬以上の仕事はしねえ。
それはつまり、報酬以外の物には何があっても手を付けないということでもあった。
俺は野盗でも山賊でもねえからな。
ドライオは商人の荷物を彼の死体の脇に置くと、小さく祈りの言葉を呟いた。
命の代わりに金が守れたんだ。満足だろ。
ドライオは身を翻した。
一度、少しだけ名残惜しそうに商人の荷物を振り返る。
だが、すぐに真面目な顔で首を振ると、戦士はそのまま大股で歩み去った。