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「ビアンカ、私達は確かに婚約者同士だ。けれど、それ以前に年頃の男女なんだよ。わかるだろう」
跡がつきそうな程強く握られた手首に、ビアンカは危うく興奮しかける。
しかし、王太子からの圧力に流石に今その余裕はなかった。
(こわ、怖すぎますわ…!そんな人を食べてしまうかのような目で…っいや、魅力的ではありますが、…いやいや決してそのようなことは!)
「申し訳、ございません…っ」
心の中でさえ大変なのだから、表情を取り繕う余裕はビアンカにはなかった。
自分がどのような表情をしているかなんてわからなかったが、王太子の瞳に映っているのは蕩けた顔をした女であった。
「君は――…はぁ…まったく…」
長く息を吐き出した王太子は、何かを堪えるように舌打ちをした後足に手を翳し、さっさと腫れを治してしまった。
これで終わりかと気を抜いたビアンカのふくらはぎを、王太子の指先がなぞった。
「っ…?!」
ビアンカは鏡がなくてもわかるほどに顔に熱が集中するのを感じ、王太子に文句を言おうとして言葉が出なかった。
それほどまでに、王太子の指先はいやらしかったのである。
「こういうことは結婚してからお願いするよ。それじゃあまた明日の朝迎えに行くから、その時話そう」
じゃあね、と爽やかな笑顔で立ち去った王太子は、ビアンカがしばらくそこから動けないことも予想済みなのだろう。
「うううう…アル…!」
「なんだ」
「裏切り者…!」
「馬に蹴られたくないだけだ。結果的に喜んでるんだからいいじゃないか」
契約した精霊には何でもお見通しなのがこの時ばかりは憎いと感じる。
ビアンカは心を落ち着ける為、日が落ちるまで訓練に励んだ。
翌朝、宣言通り迎えにやってきた馬車に乗ると、王太子は指先を動かして何かを作り出した。
出来上がったものは、ビアンカの大好物、鞭であった。
瞬きを繰り返すビアンカに、王太子はそれを自分の掌に打ちつけ感触と音を確かめていた。
いや、正確には、それを見るビアンカの様子を確かめていた。
「これ、欲しい?ビアンカが頑張ってくれたら、毎朝私からプレゼントしてあげる」
どうする?と首を傾げる王太子に、即座に頷き手のひらを差し出す。
同時に頭も下げてどのような刺激が来るのかと待っているが、いつになってもビアンカの元には鞭が来ない。
「ウォルシュタイン様…?」
「何?もしかして、ビアンカはまだ何もしていないのに私からご褒美が貰えると思っているのかな?呆れた。そんなにこれが欲しいならきちんと働いておねだりしないとね」
王太子は鞭の先でビアンカの顎をクイ、と持ち上げた。
自分の浅ましさを恥じたビアンカが手のひらを引っ込めようとした瞬間、鋭い音とともに鞭が降ってきた。
「ぃ…っ!」
「痛い?これはね、魔法で作ってあるから傷にはならないけれど痛みは普通の鞭よりも強いんだ。嬉しいだろう?」
不意打ちで襲ってきた痛みの余韻を楽しむビアンカと、その様子を楽しみながら気分で鞭を振るう王太子。
結局学園に到着するまでに5回叩いたのであった。
(朝から最高でしたわ…!まだ痛みが続いているもの…、この痛みを私だと思うように、だなんて!!もうアルがハインツ様の姿になることはなさそうね)
悪役令嬢で通っているビアンカが教室に入ると、クラスではザワザワと噂話が始まる。
ここしばらくこういった状態が続いているが、ビアンカから何かをされることが無い為、クラスの中にはビアンカに聞こえるように悪口を言う者もいる。
ビアンカとしてはそれも餌であるため、逆効果であるが。
(今日は素直に中庭に行くように言われたし、またメリーアン様に何かされると思うと…!今日はなんて素敵な日なのかしら!)