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空の鏡と聖上の恋人  作者: 朝比奈 呈
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59話・空木の精


「可愛いではないか。なぜ自らわざわざ墨で汚れるような真似をする?」


 友尊には納得出来なかった。黙って大人しくしていれば、ひな壇に飾っておきたいほど可愛い容姿をしている少女が、あのように墨のなかを這いずり回っていた者と、同一人物だとは思えなかった。少女は悪い? と、言うような目を返してきた。



「墨で汚れるのは当たり前のことでしょう? わらわは絵を描いてたのだから」

「紙以外の場所でか?」

「いけないの? わらわが描きたいものは、用意してもらった半紙なんかでは、収まりきれなかっただけだもの」



 その言葉に、型破りの姫だと思った。自分の者も含め、大概の貴族や皇族の子息たちは、一族や親の恩恵に甘んじて生きている。与えられたもの以上のものを得ようとは思わない。絵が描きたいと言って用意された紙が半紙だろうが、文紙だろうがそれに描こうとするだろう。それが自分の描きたいものが収まらないからといって、部屋中に落書きをする姫なんて聞いたこともない。



(あの女房、後始末が大変だろうな?)



 友尊が女房に同情してると、隣の少女が手を引き、広縁から庭へと導いた。庭の一角に小さな白い花が密集して、枝に連なっている木の前に連れ出す。都ではこの花が初夏を運んでくると言われている。


「こちらへどうぞ。今は空木の花が見ごろなの」


 青々とした緑色の葉の下から顔を覗かせるように、釣鐘の形をした真っ白な花たちが俯いて咲き誇っていた。遠慮がちに甘い香りをさせて、見学するふたりを誘った。



「良い香りがするな。見事だ……」

「そうでしょう? わらわはこの花が大好きなの。枝の心が空洞のせいで、(うつ)ろな木と呼ばれているけど、枝は固くてしっかりしてる」

「余も空木は好きだ。卯の花という名も。そなたの名前に似ているな。白い花も綺麗でいいが、その実は独楽にして遊べるし、そのなかを割ると種があるが、それが翼のような形をしてるのは知ってるか? 余はその翼を見つけるのが好きなのだ」

「知ってるわ。わらわはその翼を集めているの。宝物なの。見たい?」



 友尊が空木を好きだといった事で、少女は弾けたように顔を上げた。共通の仲間が出来たように思ったのか、少女は満面に笑みを浮かべていた。

 友尊は悟った。少女は白梅の精なんかじゃない。空木の精なのだと。少女の笑みはこの場を明るくした。


「見たいな。でもその前に、そなたの名前を呼んでもいいか?」

「……いいわ。特別よ」

「鵜野」


 友尊にとって、その日から鵜野は特別な存在となった。鵜野と顔を合わせるたびに、悪戯ごとに巻き込まれて、散々振り回された。その生活も良いかも知れないと思い始めた矢先に、鵜野は亡くなった……

 鵜野を亡くして哀しみにくれた友尊は、その後、成人しても女人を側に置くのを好しとしなかった。今後もそれは変わらないと思っていたのに、再び鵜野に出会った。


 初めは鵜野にそっくりな娘だと思って警戒していたが、側にいることによってどんどん傾いてゆく心を偽る事は出来なかった。鵜野を裏切っているような気持ちもあった。

 それが死んだと思っていた鵜野が、讃良として生きていたのだと知って、どんなに歓喜したことか。


 もう迷うことはない。自分は、讃良として生きてゆくことを決めた鵜野の支えとなって共に生きてゆこう。愛する者を再び失うようなことはしない。友尊は心のなかで強く誓った。

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