3話・讃良の日常
「…ら。…らら。ちょっと讃良」
「…ん?」
「讃良たらっ。起きなさいよ」
隣の席の真知に肘を突かれて、讃良ははっと顔を上げた。
「私の授業がそんなにつまらないかね? 朝凪讃良さん。聞く気がないなら廊下に立ってもらっていても構わないよ」
古典の教師の冷たい目線に促がされ、讃良は廊下に向かった。不機嫌な先生の手前どういいつくろってもいい訳にしかならないことは分かっていた。こんな時は素直に従ったほうがいい。古典は嫌いではないが、お昼を食べて満たされた午後一の科目に当たったことが最悪だった。窓側の席の一番後ろで、ぽかぽかした陽気に加え、先生のぼそぼそとした口調にあっさりと誘導されて、眠気に襲われたのだ。
「今日も気持ちよく寝ていたね。さすが讃良」
「確かにあの口調だと眠りに誘われるよね。あたしも危なかったもん。でもあのカマキリ先生、顔が引きつっていたよ」
放課後、居残っていた讃良は、仲のいい真知や貴子に冷やかされる。讃良は現在高校一年生。この春、この英和学園高等部に進級した。古典の授業をまともに受けていなかった為、真知からノートを借りて書き写している所だ。
「讃良姫に寝入られたら、立場ないもの。鎌倉先生も」
「よしてよ」
カマキリとは古典の鎌倉先生についた仇名だ。顔つきがほっそりしてるわりに背がひょろ長く、目がぎょろりとしている。一方、讃良はこの学園の理事長が大叔父で、曾祖父が元総理だった家系にあることから、先生方も気をつかっている部分も大きい。そこをふたりにからかわれ、讃良はため息をついた。
「でもここの所、多くない? どうしちゃったの?」
「それがね…」
真知に指摘され、ノートから顔を上げた讃良は、黒茶色した前髪をかき上げ、思案するように言葉を切った。真ん中分けされた髪から現れた、美しい富士額のもと覗くのは、そよ風に靡く茅の葉のような整った眉と、潤んだ飴色の大きな瞳。ナズナの葉が盛り上がって、ちょんとのってる様な愛らしい鼻。上唇よりも、下唇のほうがぽてりと厚く、蛍袋のような花弁を思わせる唇。思春期特有の、子供と大人の間を行き来する、危いような色香のようなものが感じられる。
背中まで伸びた髪は猫っ毛で、裾の方が飛び跳ねてるが、上手い具合にカールになって纏まり、見る人によっては、上品な印象を与えているようだ。
姫と呼ばれる所以は、その辺りにあると友人達は言うが、本人は全く意図していない。物憂い表情で、讃良は友人達を見返した。
「なんでもない」
「何よ。それ。気になるじゃない」
活発な貴子は、讃良の態度を不満そうに言う。貴子はショートカットの似合うスポーツ万能な少女。バスケ部のエースで発言も行動も自信に溢れている。
「ごめん」
「言いたくないなら別に無理に聞かないけど。でもほどほどにしなよ。いくら讃良姫でも特別扱いは許されないよ」
「うん。分かってる。ありがとう」
小中高と一貫でエスカレーター式に進学するこの英知学園では、貴子は珍しい存在で、スポーツ枠で入学してきた特待生だ。他の生徒から見れば先生方に、特別扱いされてるように見える讃良相手にも、容赦のない物言いをする。でも讃良はそんな貴子を気に入っていた。なかなか言いにくいことを口にしてくれる友人は、付き合いの長い真知以外にはいなかったからだ。
「じゃあ、あたしはこれで行くからね。次は気をつけなよ。あとは真知よろしく」
「了解。明日のバスケの練習試合頑張ってね」
「ありがとう。真知。讃良。じゃあ、連休明けにね」
スポーツバックやかばんを肩に背負った貴子は、手を振って廊下に出て行った。明日から二日間の連休は、練習試合が立て続けにあるそうで忙しそうだ。