私の天使
春は、疼くから。
そう言ってどこか悲しそうに微笑んだ彼、私の天使の心は、一体どこにあるのだろう。
女性的とも思える面差しに琥珀がかった不思議な色の瞳が瞬いていた。
桜の花がひとひら、ふたひら、宙を舞う。
彼は友人をこの時節に亡くしたのだ。
違うよ。そのせいじゃない。
彼は私の心の声が聴こえたかのように否定した。私はまだ大人ではなくて、彼の心の全てを推し量ることは出来ない。
ただ、私の頬に伸びる大きな手を見逃すまいと凝視した。
大きな手は意外に節くれ立っていて、私は触れられることを切望した。
だがその手は中途で止まり、行き場を失った迷子のように彷徨うと、彼の定位置に戻った。
私はまだ駄目なのかと悔しく、悲しい思いで言った。
兄さんが死んだのは、貴方のせいじゃないのに。
それでも彼は悲しく微笑むばかり。
庭の桜の樹の下で、彼は桜の精のように見えた。
僕には贖罪の義務がある。
あの日、車を運転していたのは彼だった。車がスリップして横転し、同乗していた兄は亡くなった。それだけのことなのに、彼は全ての罪は自分にあると思い込んでいる。
愚かで愛しい人。春の物悲しい空が似合う人。私の天使。
彼は真っ向から見据える私から視線を逸らして桜に逃れた。
春は、疼くから。
その声は桜の花より濃い熱情を帯びていた。彼の真意を私は悟った。言わんとしていることを。
桜の花が舞う。彼の想いを証立てるように。
突き抜けたような晴天の青。桜は満開で世界を祝福するようで。
彼に触れて欲しいと願った。
私が一歩近づくと、彼は一歩下がる。
私の唇のあわいから、自分とは思えない言葉が漏れる。
無茶苦茶にしてくれて良いのに。
彼は驚いたように私を見てゆっくり首を横に振る。
そんなことは出来ないよ。
私の唇を注視している癖に、まだ足掻こうとする。
強い一陣の風が吹いた。春の嵐だ。桜の花びらを根こそぎ持って行こうとする。
彼が私を庇うように風上に立つ。当たり前のように強風から守ってくれる。
そう、彼は私を守ってくれた。
兄から、私を。
両親が逝き、兄と二人暮らしとなった私は、兄から性的虐待を受けていた。毎晩、毎晩が地獄だった。
彼はそれを知っていた。
知っていて、兄をドライブに誘った。
罪深い私の天使。
風が止んでもなお、彼は私を庇うように立っていた。
距離が近くて、彼の鼓動や吐息さえ聴こえそうで、私は募る愛しさに俯く。
彼のシャツにそっと触れる。兄から虐待を受けていた頃は、どんな異性も怖く思えた。けれど彼だけは例外だった。私は彼になら触れられても良いと思い、そして兄により穢れてしまった我が身では相応しくないと嘆いた。
その彼が、今は私の眼前で葛藤している。
私は背と首を伸ばし、彼の頬に口づけた。彼の身体がびくりと揺れる。
堰を切ったかのように、彼の唇が私のそれに。
何という甘露。
どちらからともなく桜の褥に横たわる。
真っ白いワンピースで良かった。彼に少しでも綺麗と思って欲しいから。
けれど彼はそれ以上、進もうとはしなかった。起き上がり、自分を嫌悪するように首を一振り、二振りする。私は私の天使を悪魔の誘惑で再び、引き摺り倒す。彼は透き通った瞳で私を見つめる。
春は、疼くから。
そう言って私の天使は目を閉じた。
罪を、受け容れようとするかのように。