ハイセンスノーセンス
冬のショッピングモール七階、催事場の片隅。若い外国人女性がいた。長い赤毛とブルーの瞳が白い肌を際立たせていた。屋台に似た店構え、黒と紫を基調とした装飾。その中に彼女はいて、西洋占星術でも始めそうな雰囲気だった。
彼女はうすい唇を閉じたまま、行き交う人々を目で追っていた。そのキレイな瞳の中を僕と僕のガールフレンドが過ぎ去った。
「ねぇ、今の何のお店かしら?」とガールフレンドが言った。
「うーん、よくわからない。もしかしたらタロットカードの店かも」と僕は言った。彼女の手にカードのようなものがチラリと見ていたような気がした。よってタロットカードなのか不確かだ。僕は憶測で言ったに過ぎない。
「キレイな人だったね」
「たしかに。あの雰囲気はなかなか出せない。とくに僕ら日本人には」
「どこの国の人かしら?」
「アメリカかヨーロッパのどこか」
「そんなの私にだってわかるわよ」
そう言って彼女はまるで花畑を見つけた紋白蝶のようにひらひらと、とある店の中へ吸い込まれた。看板がないから、具体的に何を取り扱った店なのかわからない。僕が見る限り、くだらないガラクタばかりのように思えた。
店の中央には丸いガラステーブルがあってその上に木彫りでできた置き物がいくつかのせられていた。そして、そこに彼女の目を惹いたものがあった。赤いハイカットスニーカーの中から頭と手を出したクマの置き物だった。
ありがちな安っぽいクマじゃなくて、本物に近いビジュアルだった。それこそかの有名なクマの木彫りにそっくりだ。品の良いメロンくらいの大きさで、ニスが塗ってあるのかやたらとテカテカしていた。
そのクマは外に出たくて仕方がないような、居心地悪い顔をしていた。もしかしたら、靴の底で誰かが彼の足を掴んでいるのかもしれない。そう思うと、僕は何だかクマが気の毒に思えてきた。できることなら救ってあげたい、そんな気持ちになった。
僕がクマに対して哀れみの目を向けていると、彼女はそいつをそっと手に取った。そして、その道の鑑定士のように念入りに品定めしていた。いろんな角度から眺めたり、手のひらで重さを計ったり、振ってみたりしていた。
「それ、気に入ったの?」と僕は言った。 買ってあげようか? の意味も含んでいた。もうすぐクリスマス。贈り物として。あるいは気の毒なクマのためにも。
「うーん。何かおしいのよね。悪くはないんだけど」と彼女は不満な顔をした。
何がおしいのか、僕にはさっぱりわからなかった。でも、僕はそれを聞いて内心ホッとした。というのもさり気なくそいつの値札を見ると、八千円もしたからだ。八千円も! クマと彼女には申し訳ないが、さすがに手が出せない。正直な話、あまり趣味が良いとは言えないものにそんな金を払う価値はないと思った。
「うんうん、たしかに。何か足りないよね。全体的にバランスも悪いし、もうひと回り小さい方がいい」と僕はそれっぽいことを言ってみた。彼女をあきらめさせるために。無慈悲な言葉を使えば、彼女をクマから引き離すために。
そしてしばらくの葛藤があった後、ついに彼女はかわいそうなクマをガラスのテーブルに置いた。そいつを見ると、僕は何だか複雑な気持ちになった。ごめんね。悪いのは君じゃない、ふざけた値段を付けた店主だ。
「ねぇ、さっきのお店に行ってみない?」と彼女が気を取り直して言った。
「外国人の店? タロットカードの」
「そう。ずっと気になってたのよ。せっかくだし、行ってみましょう」
僕たちは踵を返し、あのミステリアスな店へ向かった。相変わらず店頭には人影はなかった。誰ひとりとしてその店に見向きもしない。まるで僕らだけしか見えない魔法の店のようだ。
「ハロー!」とガールフレンドは言った。子ども向けの英語教材の主人公みたいにお気軽に。だけど僕は知っている。彼女は英語が不得意だと言うことを。
彼女はいつだって無鉄砲なんだ。怖いもの知らず。行き当たりばったり。困ってしまったら、後で考えればいい。そんな考えの持ち主だった。
「ハロー」と外国人女性は返した。ネイティヴの発音だった。そして、ひととおりの英語を僕らにぶつけてから(彼女は日本語が話せないようだった)、どうぞゆっくり見てくださいといった感じに両手を広げた。
驚いたことに、といっても驚くようなことじゃないけど、彼女が売っていたものはタロットカードじゃなかった。ポストカードだった。日本郵便のお馴染みのサイズのもので、手描きの絵が描かれていた。
時期的に年賀葉書か? と僕は思った。しかし、よく見るとネズミもウシもトラも描かれていなかった。もちろんウサギもドラゴンも。そこには十二支の中にいない生き物がいた。ネコだった。
シンプルに絵の具を使って、独特なタッチで描かれたネコ。ずんぐりとした体つき、とんがり耳、不満そうな目と素っ気ない口元。上向きのヒゲだけがやたらとやる気に満ちていて、尻尾はどこにも見当たらなかった。そして風景もない。ネコの周りは切ないほどの空白だ。
ポストカードは四十枚近くあって、すべてにその個性的なネコが描かれていた。黒、白、三毛、茶、いろんな色と柄をしたネコが一枚に一匹ずつ太々しく佇んでいる。ポーズはそれぞれ若干の差はあるが、あまり変わらない。怠そうに寝そべり、こちらを見ている。何か文句ある? といった具合に。
「一枚二百円ですって。お互い一枚ずつ買いましょうよ」と彼女は言った。彼女はぎこちない英語で、店員から値段を聞き出していた。
「いいよ。そうしよう」と僕は言った。ネコは嫌いじゃない。それにそのネコは何か僕の心を惹きつけるものがあった。記念に買っておこう。
僕らはポストカードの束から物色した。彼女は例の鑑定士みたいな目で、お気に入りのネコちゃんを探していた。対して僕はずっと気になっていたことがあった。思わず眉を潜め、首を傾げたくなることだ。
それはどのポストカードの隅にも『広島』と書かれていたことだ。まだ漢字に馴れていないぶきっちょな筆で、サイズは一円玉の半分くらいだった。
「どうして広島?」と僕はガールフレンドに言ってみた。ここは広島じゃない。埼玉だ。
「さぁー、私にわかるわけないでしょ。署名かなんかじゃないの」彼女はそんなこと御構い無しといった様子だった。
「いや、署名じゃないだろ」
「そんなに気になるなら、店員のお姉さんに聞いてみれば?」
「無理だよ。僕も英語が苦手だ」
「じゃあ、気にしないこと。きっと英語のTシャツと同じようなものよ。その意味なんてわからなくたっていい。飾りよ」と彼女は言った。
『広島』という文字には何か深い理由がありそうで、どこか腑に落ちないが、僕は気にしないよう努めた。知らなくたっていい。僕の人生に支障をきたすことじゃない。そう自分に言い聞かせて。
ガールフレンドは三毛ネコ、僕は黒ネコのポストカードを買った。地下へ向かうエレベーターの中、僕はその二枚を僕らの冷蔵庫に貼ろうかと考えた。カラフルなマグネットを使って冷蔵庫の扉に貼ればキッチンは少し華やかになるかもしれない。ささやかなインテリアとしても悪くない。
そして、エレベーター特有のあの不自然な沈黙を破り、僕はそのアイデアを彼女に伝えた。すると彼女は言った。僕の耳元で囁くように。
「冷蔵庫に貼るなんて、そんな所帯染みたことしないで。悪趣味よ」
僕はショックを受けた。良いアイデアだと思っていたから。僕は割と自分の価値観というものに自信があった。趣味が良い、悪い、そんな良し悪しがわかっているつもりでいた。だからまるで僕のこれまでの人生を否定されたような気分になった。
「じゃあ、君はこれを何に使うの?」と僕はどうにか持ち堪えながら彼女に訊いた。
「手紙を書くに決まってるじゃない。そのためのポストカードでしょ」
「たしかに」と僕はつぶやいた。「それで、誰に書くつもりなの?」
「福岡の妹に。妹はネコが好きなのよ」と彼女は言った。
果たして、彼女の妹はポストカードの『広島』という文字に首を傾げるだろうか、それとも姉のようにそんなこと気にも留めないだろうか。わからない。
でも、もしかしたらその妹はキッチンの冷蔵庫にそれを貼るかもしれない。僕がそうしようと考えたように、彼女も僕と同じ価値観を持ってるかもしれない。
そう、僕が良いと思ったものは決して間違ったものじゃないんだ。誰に何を言われようが、かまうもんか。
エレベーターが地下にたどり着くまで、僕はそんなことを思っていた。