梅雨の匂いに誘われて
「…」
窓側の席から外を眺めている。
天気は雨、ここ数日はずっと降っている。梅雨なのだから仕方ないが、日差しの暖かさすら感じられないのも寂しいものだ。
だからと言って、日差しが暑いのも好きではないのだが。
「そんなにぼやっとしてるとコーヒー冷めるぞ」
ふと、カウンターから男性の出て来る。
見た目が少しダンディでヒゲを生やしたここのマスターだ。
「コーヒーが冷める前に雨やまないかしら」
「それは難しそうだな」
そんなすぐにも起こりそうもないことを言いながら、コーヒーを飲み始める。
「…苦い」
「まだ、ブラック飲めないのか?」
「前に比べたらましにはなってきたけど、砂糖少し入れないとやっぱり無理ね…」
「これからはブラック一筋とか言ってた時期が懐かしいな」
「ぐっ…」
自分で頼んだとはいえ、時間が経てば飲めるようになると思っていた。…がそんなことはないと改めて実感する。ちなみに今日は意地でもコーヒーに砂糖を入れないで飲むことにしている。
「まぁ、少しはマシになったんじゃないか?」
「そうかしら?」
「前はもっと子供っぽかったしな」
「…そうねー」
そのことに関しては否定できない。
「ま、今も変わってないと言えば変わってないがな」
「えー、少しは変わったでしょー」
「例えば?」
「少しは仕事に行くようになった」
「それは当たり前にしてくれ」
「…とりあえず、今の時間から行くなら雨が止んだらかしら」
外を見ると雨は強くなり、風も吹き始めてきた。
今、出れば持って来ている傘では確実に風で折れるだろうし、わざわざ濡れにいくようなことはするものではない。外の様子を見ているとマスターが声をかけてきた。
「まだ、いるようなら新作でも用意するかな」
「あら、今日は何かしら?」
マスターはそう聞かれると嬉しそうに答える。
「クッキーだ」
「思ってたよりシンプルね」
「それは持って来てからのお楽しみだな」
飲み始めたコーヒーはようやく半分なった。
いっそ雨に濡れていくのも潔くいいかもしれない。
そうすれば、ぼんやりしているこの気持ちも洗い流せるかもしれない。
そんな事を考えてるうちにカウンターからマスターがクッキーを持ってくる。
「はいよ、お待ちどうさま」
「ありがとう…ん?」
一口食べて気付く。今日のクッキーは甘くない。
でも、不思議とあったかくなるような味だ。
「しょうが…かしら?」
「その通り、たまにはいいだろ?」
「でも、あまり甘くないわね」
「もともと、甘さひかえめにしてあるからな。まぁ、砂糖をブラックに多量に入れる常連にはこれくらいがちょうどいいんじゃないか?」
「私がブラック以外を頼んでたらどうしたのかしら?」
そういうとマスターはメモを見て言う。
「常連は曜日で注文するものが決まってるから問題ないな」
「…全然意識してなっかたわ」
「だろうな」
クッキーを食べながら外を見る。雨は相変わらず強く降っている。ここまで強くなると、もう外に出ている人はいない。そうして外を眺めていた時、ふと昔のことを思い出していた。
「…大人の定義って何かしらね」
「それはなかなかに哲学的な問題だな」
「少し前までは、ブラックのコーヒーが飲めるかだったきがするわ」
先ほど半分以下になっていたコーヒーはクッキーが来てからもあまり減らことはなく、後から来たクッキーの方は半分以下になっている。
「それはだいぶ子供らしい表現だな」
「確かにね、そんなこと言ってたら今も子供かしらね?」
「でも、定義なんて人それぞれじゃないか?」
「マスターはどう考える?」
マスターは少し考えてから続ける。
「そうだな、まず例えで言えば立ち振る舞いとかあるだろ?」
「雰囲気が大人っぽいってことかしら?」
マスターは頷く。
「ま、これは人の目から見てだよな。そういうのも一つの定義だな」
「確かにねぇ…でも、それは見た目だけよね…マスターの中で何かこれができたらとかないのかしら?」
そう聞くとマスターはまた少し間をおいて答える。
「しいてあげるならば…」
「ならば?」
「自分の意志をしっかり持ってる事と、その思いを相手に伝えられる事かな?」
「ふふ、参考になったわ」
マスターの意見を聞いたあと、残っていたコーヒーを飲み切る。
「これで私の定義とマスターの定義では大人になりえたかしら?」
そう伝えるとマスターは苦笑する。
「まぁ、マシにはなってるけど、その定義が当てはまらないくらいには常連は子供っぽいけどな」
「…次もブラックで頑張って飲み切るわよ」
外を見ると、いつの間にか雨が途切れていた。雲の切れ目から日差しが現れる。
「コーヒーを飲みながら待つにはちょうどよかったかしら」
「でも少ししたらまた降り出しそうだな」
「じゃあ、積もりそうな話はまた来た時かしら?」
「次に常連が来るまでに考える時間は充分足りそうだな」
会計を済まして、店を出ようとしてマスターに呼び止められる。
「おっと、忘れてた今日のおまけだ」
マスターから小袋を渡される。
「それ食べて頑張りな」
「えぇ、また来るわ」
そのやりとりを終えて店を出た。
外に出ると湿っぽい風が通りる。
「これは早くいかないと雨降りそうね…でも…」
日差しが当たる道は雨が降る前の冷たさはなく、代わりに夏の日差しの暑さを感じられるものへと変わっていた。
「雨が止めばもう夏なのね。暑いのもそれはそれで嫌ね…」
そう呟いて、日差しの当たる道を早足で進んだ。