第四話 異形の存在
少女は走っていた。月光すら届かぬ深い森林の中を必死の形相で。服は生い茂る草木によって、あちらこちらが破れ、汗によって頬に張り付く長い髪は乱れほつれている。
既に彼女は3日以上も逃げ続けていた。ほぼ飲まず食わずで、時に隠れ、時にに走り……ただひたすらに。彼女には逃げ続ける以外の手立てを思い付く事が出来なかったからだ。彼女が頼るべき相手は既に居ない。
いや、アレを相手に、果して頼ることの出来る相手など居るのか? 彼女には、それすら定かでは無かった。
ガサガサ、ガサガサと草の鳴る音に恐怖の表情と共に振り返る少女。自らの鼓動が、まるで耳元で鳴って居るように思え、次第に浅くなる呼吸のせいで、喉がヒリ付き、思考が麻痺して来る……
(来ています! ああ!! 誰か! 誰か助けて!!)
心の中で祈りながら、それでも必死で足を動かす、一歩でも前へと進める様に、一秒でも長く、あの者から離れられる様にと、何度も、何度も躓きながら、そうする事で少しでも、希望に近付けるとでも言うかの様に……
それでも無情にも、終わりは近付いて来る。それは少女の体力限界であり、追手との能力の差でもあった。背後から延びる手に、少女は……
熾火と成っていた、炭の赤い傷口の様なひび割れをぼんやりと眺めていた魁人は、大森林の方から聞こえた草木を鳴らす音に、咄嗟に身構えた。
決して、真っ直ぐに魁人達の所まで迫って来ている訳では無いが、それでも無視出来る距離では無かったからだ。
(獣? いや、気配は人の様だが……)
激しい息遣いと荒々しく木々を揺さぶる音が近くまで来たと思った瞬間、大森林の中から飛び出したソレに、一瞬、魁人の足が止まる……が、次の瞬間、ゾワリとした嫌悪感に、本能的に一気に踏み出し、渾身の右掌底を前方に突き出した。
掌に、分厚いゴムを殴った様な鈍い感触がした、その次の瞬間、魁人は大声で叫ぶ。
『シャゼム!! 敵だ起きろぉぉぉぉ!!』
魁人は、左手に最初に飛び出したソレを抱え込むように抱きしめると、バックステップで距離を取り、シェルター近くまで戻ると、森の方から来たソレ等へと熾火を蹴り飛ばす。
「ギャギャ! ギャ! ギャギャギャ!!」
後続で出て来たソレ等は、その炭と灰の為に、混乱した様に声を上げる。
『アニキ! どうし……! …!!!』
シェルターから飛び出したシャゼムは、魁人に声を掛けようとして外の状況を目撃し、その表情を険しくする。
『ヴォルーグ!!』
『? シャゼム! 何だ! 何なんだ!! コレは!!』
『例の……眷属だよ!』」
(! これが!? 魔獣の眷属!!)
短剣を抜いて叫んだシャゼムの言葉に、魁人が眉を顰める。それは、一目見て分かった。これは決して、人と相容れられる物では無いと……
森から出て来たソレは総計5体、その全てが濁った瞳に、魁人に対する怒りの様な物を漲らせながら、ジリジリと距離を詰めてくる。
四脚二腕、ガスタンクを思わせるシルエットは、おおよそ進化の果てにある様に思えない異形、それでも体の正面に向かって付いている顔は半ば胴体に埋まり、無毛の蝙蝠を思わせる。そしてその耳まで裂けた口には乱杭歯が見えていた。
その体には皮帯で無理やり纏めた様な金属製の防具を身に付け、手には剣の様な物を持っている個体も居る。その防具の隙間からは、どの個体もが張りの無い弛んだ灰色の皮膚を晒し、特有の獣臭さをまき散らしていた。
その5体の内の半分……2体が、シャゼムが威嚇するように牽制しているのを煩わしそうに睨んでいる。それを目の端で捉えながらも、魁人は左腕に抱えたソレに、チラリと視線を送る。
(追われていた? なぜ?)
最初に森から現れ、今は魁人に縋りつくソレ……10歳前後の少女……少なくとも魁人には、彼女は人間の少女に見えた。
眼前の生理的嫌悪感にまみれた生き物は、しかし、少なくともシャゼム達の一族の同胞である……と言う事なのであるが……
『……シャゼム、こいつ等に、会話は通じるか?』
『……分からない、一応、同じ魔人族だけど……いつも問答無用で襲ってくるから、会話が出来るかなんて、考えた事も無い』
言葉が通じていないのか、魁人たちの会話など、まるで気にした様子など見せず、魔獣の眷属……ヴォルーグは、一斉に襲い掛かって来た。
『シャゼム! 囲まれるな! 確実に一体ずつ相手できるように動け!!』
『わかった!!』
シャゼムが二体を引き付け、魁人も、言うが早いか、襲い掛かって来た一体目のヴォルーグの懐に入り込む様に移動すると、その体を二体目に対するブラインドにしながら、カチ上げる様に体当たりをした。
その所為でたたらを踏んだ一体目はそのまま後ろの二体目にぶつかる。と、魁人はすかさず一体目の鼻先に一撃を入れた。
(……こんな体でも、顔の構造は、地球の生物と違いが少ないらしい……けど!)
鼻先への一撃で一体目がよろめくのを確認するも、人間であれば崩れ落ちても可笑しくないその一撃が、この程度の威力しか発揮しない事で魁人は舌打ちをする。と、二体目の後方から右回りに三体目が回り込んで来るのを視界に捉え、鼻先への一撃で怯んだ一体目に耳部分に掌底を叩き込み脳を揺らす。
ブオォォォォンンン!!!!
空を裂く音、三体目が振り下ろした棍棒を右手の回転で弾き、魁人は体の右側に受け流す……がしかし、その心中は驚愕に見舞われた。
(!! ……何て馬鹿力だ!!)
まるで、丸太でも振るわれたかの様な一撃、これがまともに当たったら……と、魁人の背筋に冷たい物が流れる。
受け流したにも関わらず手が痺れ、その為、相手を捕まえる事を諦めた魁人は、そのまま相手の腕の付け根に自らの右腕を絡め、そのまま相手の背後にさらに踏み込む。
右肩を絡め上げられるような格好になった三体目は、その事で重心が後ろに動く、魁人体を沈めつつソレを大きく引っ張り、自らの腰を支点にする様にして払い上げ、頭から落とす。
それは丁度、三体目を追従するように動いていた二体目を巻き込んで、その二体のヴォルーグはそのまま地に伏す事となった。
(重い……が、その重量がこの場合は逆に仇になる!!)
魁人は、その二体がすぐに動けないことを確認すると、先程の一体目の懐に飛び込む。一体目は、脳を揺らされふらついていた所から、ようやく回復したが、そこに飛び込んできた魁人を見て、最初と同じ様に突き飛ばされる事を警戒し、腕をクロスさせて備える……だが、それは魁人の狙い通りであった。
魁人は、クロスされているその腕を取ると、捻りながら引っ張り、相手の重心が前に傾いた所で、右足を一体目の膝と思しき部分……その若干下辺りをめがけて踏み込んだ。
「ギャ!!」
(自重が重い分、コレは効果的だろ?)
前足の左膝と思われる部分を砕かれた一体目は短い叫び声を上げるが、魁人はそのままもう一方の前足を払い、掴んだままの腕を引っ張って自らの右横に引き摺り倒し、意識を刈り取る様に、その頭部を思い切り蹴り上げた。
その攻防に、シャゼムと相対していた四体目の援護に向かっていた五体目は、魁人側に行った者を助けるか迷い逡巡する……が、そんな隙を見逃すほど、シャゼムも甘くは無かった。
四体目の剣の一撃を叩き落とし、その隙を突いて、シャゼムは五体目の懐まで入り込むと、その耳後ろ……頭蓋骨と脊髄の間に、手に持っていた短剣を根元まで突き刺し、一気に上に引き裂く。
ハヒュッと言う空気が抜ける様な声を上げ、脳へと血液を送っていた太い血管から派手な血飛沫を上げながら、五体目はそのまま崩れ落ちる様に倒れた。
「ギュロロロロロロロロロォォォォォォォォ!!!!!」
叫び声を上げ、シャゼムの背後から渾身の力で振り下ろされた四体目の一撃は、しかし、そのまま横に転がる様に飛び退いたシャゼムに回避される……が、四体目は怒り心頭と言った様子で、ブンブンと剣を振り回し、力ずくの連撃をシャゼムに叩き付ける。
だがシャゼムはそれを必死の形相で受け流し、回避し、叩き落とす。
しかし、その四体目の猛攻も、背後から近付いた魁人によってあっさりと終わりを告げた。二体目、三体目の意識を刈り取った魁人は、少女を座らせると、そのまま四体目の垂れ下がった腹部と肋骨の間、人間であれば肝臓が存在するであろう、その部分に体当たり気味の一撃を入れる。
その衝撃で、強制的に肺を絞り上げられた四体目は、息を詰まらせ、少し仰け反る。魁人は、その仰け反った四体目の両肩に自らの両腕を掛けると、そのまま自分の体を梃子にする様に四体目を頭から投げ落とした。
自重で首が詰まり、意識を朦朧とさせた四体目を魁人は他のヴォルーグ同様に気絶させると、次いで、まだ生きている四体のヴォルーグ達を縛り上げた。
シャゼムはその魁人の手際を眺めながら、自らの手をじっと眺める。
(倒せた……オレが、ヴォルーグを……)
前に、シャゼムの村をヴォルーグが襲った時、シャゼムは自身の身を守る事で精いっぱいだった。その時は幾人かの村の娘が攫われ、戦士達が殺されはしたが、それでも、何とか退ける事は成功したのだ。
しかし、それは、先代の戦士筆頭達の力であり、シャゼムは自らの力の無さに悔しさを隠す事が出来なかった。
不幸中の幸いと言おうか、シャゼムの母と妹は、先代たちに囲われていたお陰で助かったのだが、その事が更にシャゼムの惨めさに追い打ちをかけた事も事実だった。
確かに、今回、シャゼムは一体のヴォルーグを倒した。しかし……
(アニキが居てくれたから出来たんだ……オレ一人だったら、倒せていたかどうか……)
『シャゼム? ……シャゼム!』
『うえ? ……な、何?アニキ!?』
考え込んでしまっていたらしいシャゼムは、魁人の声に慌てて返事をする。
『えっと、大丈夫か?』
自分の顔を覗き込んでいた魁人に気が付き、シャゼムは少し頬を赤らめながら仰け反った。
『あ、うん……その、大丈夫だよ』
『なら、良いけど……取り敢えず、これから、どうする?』
『え? あ、うん……』
シャゼムは辺りの様子を改めて見る。シャゼムの殺した一体は、そのまま地に打ち捨てられているが、気絶させた4体はザイルで縛られている。
先程座らせていた少女は、今は再び、魁人の腰に縋り付く様にしがみ付いていた。
『……その4人を殺して、移動しよう』
後続を警戒するなら、当然の提案だったのだが、魁人は眉を顰める。
『良いのか?』
実際問題として、魁人には殺し……と言う物に対する忌避感と言う物は有った。確かに、本能的に自分達とは相容れないと感じられる相手ではあり、襲って来たのも確かではある。
しかし、どうやら、シャゼムの一族とは同胞でもあるらしい……だとすれば、この異形の者達もまた、人なのだろう。
しかし、シャゼムは冷徹な光を瞳に宿し言い切る。
『うん。……アニキ、勘違いしちゃいけないよ、コレ等は、もはや獣だ』
実際、このヴォルーグ達の襲撃によってシャゼムの一族にも犠牲は出ているのだ。シャゼムにとってコレ等は、本能に忠実な獣に等しい物であった。
(殺す……か……)
その行動が正しい……その事が分かって居てなお、魁人はヴォルーグを殺す事に躊躇いを覚えた。シャゼムはそんな魁人に訝し気な表情をしたが、彼の腰にしがみ付く少女を見て、この娘がいる為に躊躇しているのであろうと思い、『オレがやるよ』と言って、縛られたヴォルーグ達の前に出た。
『アニキは、その娘の眼を塞いで……』
『いや、俺がやる』
不安そうに自分の顔を見つめる少女の頭を優しく撫でた魁人は、シャゼムから短剣を受け取ると、代わりに少女の背を押してシャゼムの方に行くよう促した。
短剣を手にヴォルーグの前に立つ。魁人にした所で、それが獲物であれば命を絶つことに躊躇いは無い。命を奪い、しかし、それを糧にして自らの命を繋ぐ。それは、生きて行く上で必須の事であり、相手の血肉が、自身の糧となるからこそ、その行為に忌避感を覚えなかったからだ。
しかし、今行おうとしている事は違う。殺す為に殺す。ただ無為に命を奪う。かつてスラムで出会った少年達は、命の重み……相手の人生、それに係わる時間や可能性を摘み取ると言う事も分からず、無邪気な残酷さ半分で命を弄んでいた。
そう言った無知のそれとは違い、魁人は、自らのエゴの為、保身の為、命を奪おうとしている。しかし、この行為は正しい。正直、魁人とシャゼムの二人だけで、このヴォルーグ達を連れて行く事は出来ない。
なら放置するか? ……と訊ねられれば、答えは否である。そもそも、生かして放置した場合に、魁人たちの情報が洩れれば、敵対する存在として追手がかかる可能性も有る。
少なくとも、同様の生き物が、あの城壁都市にはまだ居るのは確かであり、その上、このヴォルーグの上位種も居る事が分かっているのだ。
……だったら、殺すのはシャゼムに任せちゃえば良いのに……そんな幻聴が聞こえた気がした。が、しかし、その都度シャゼムに押し付けてしまう事に成れば、おそらく魁人はこれ以上進む事は出来なくなる、また、それを躊躇った事で、致命的な失敗に繋がってしまうリスクを考えた場合、他人任せにする事の出来ない事ではあった。
(己を殺し死者とならねば、死地にまた、生は拾えぬ……だったか? なぁ、師匠……)
かつて、己の師匠に訊いた事が有る「師匠は人を殺した事が有るのか?」と、その時彼は「戦争だったからな……」と答えた。
果たして、彼はその事を後悔していたのだろうか? それとも、仕方ない事だと割り切ったのだろうか? あの時の何の感情も感じさせない声からは、何かを感じ取る事は出来なかった。
目の前の動けない異形を見つめる。決して自分達と同じ様な人には見えない……魁人の心の中の何かが震えた。だが……
魁人の様子に、シャゼムが言葉を掛けようとした次の瞬間、魁人は、まるでその辺の草を刈り取るかのような気安さで、ヴォルーグ達の首を掻っ切った。そして、生気の無い様な声で、『離れようか』と、そう言ったのだった。
月明かりの中を三人は歩いた。時折シャゼムが足跡などの痕跡を消しつつ、それでも1時間ほど歩いたであろうか? それまで黙っていた魁人が不意に口を開く。
『月が、出ているんだな……』
『え? う、うん……』
見上げた夜空には歪な円形をした月が煌々と青白く輝いていた。その横には、昼間と変わらぬ感じで“魔神の目”が浮かんでいる。この世界に来た当初、魁人は魔神の目の事をこそ月だと思っていた。しかし、濃紺の空に輝く月とは一線を画し、魔神の目は、昼間と同じ様な薄ら白んだ、その威容をさらけ出している。
それはまるで、質の悪い立体映像の様に魁人の目には映った。
(……あれが、本当に魔神の目だと言うなら、魔人族は何処から来た?)
まともな生物と言い難い魔人族の姿を目の当たりにし、魁人はそんな風に思った。ヴォルーグの前に出会ったシャゼム達は、それでも、別の進化体系の生き物であるように感じられたのだが、アレ等は、もっと違う別の物であると、本能が警鐘を鳴らしていた。
その為であろうか? ヴォルーグの息の根を止めた時に感じたのは、殺したと言った罪悪感とは違う、何か別の物であった。
魁人には、その事が不思議で、何故か悲しかった。
魁人は、未だに自分の腰にしがみ付く少女に視線を落とす。健康的な褐色の肌、やや丸みを帯びた女の子らしい輪郭と体つき、柔らかなウエーブを描く栗色の髪、不思議な彩光の瞳。美人と言うより、可愛らしいと言った顔付ではあるが、その事を差し引いても、普通の少女に見えた。
これが、神人族のスタンダードな少女であると言うのであれば、成程、シャゼムが自分の事を神人族であると思ったのも納得が出来る……魁人はそう思った。
『なぁ、何で、この子が襲われたんだと思う?』
『女の子だからでしょ?』
『は?』
異形の怪物が襲って来たにしては、随分と軽薄な理由である。魁人が怪訝そうな表情をしたのを見たシャゼムは、そのまま言葉を続けた。
『ヴォルーグは、繁殖の為に、あらゆる生物のメスを攫うんだよ』
『は? え? はぁ?』
魁人は思わず、少女の顔を二度見した。シャゼムの説明通りであるなら、あの怪物はこんな年端もいかない子供を繁殖の道具にしようとしたと言うのだ。
シャゼムの話によれば、ヴォルーグと言う種族は、雄しか存在しない種族であり、生きとし生ける全ての種の雌と交配が行え、生まれた仔は必ずヴォルーグに成るのだと言う。
ただ、確かに卵生、胎生構わずに交配は行えはするが、それでも体格の著しく違う相手だと、奇形が生まれる確率が多いらしく、ヤツ等は好んで近しい体形の神人族や魔人族を攫うのだと言う話だった。
正直、魁人は、体形が近しい……のか? とか、それは生物としてどうなんだ? とは思いはしたが、理屈では説明のつかない生物であると言う事は分かって居た為に、それ以上の言及はやめておいた。
この娘が襲われていた理由はなんとなく……理解したくは無いが、分かった。しかし、何故この娘が森の中に居たのか? それが魁人には、まだ分からなかった。
魁人は少女の目線に合わせる様にかがむと、なるべく優しく聞こえる様に質問の言葉を口にした。
『きみ、名前は? ……あー、通りなでも、字名でも良いけど……』
その魁人の言葉に、少女は首を傾げる。それを見ていたシャゼムがバツの悪そうな顔で魁人に言う。
『あ、あのさ、アニキ……』
と、少女がシャゼムを指差すと『ゴポープ?』と訊ねる。
『!?』
『ゴポ? ……何?』
少女の言葉に、シャゼムが怪訝そうな表情をし、魁人は新しく出た単語に首を傾げた。
『……ゴポープ……オレの一族の種族名だよ……』
『……ああ、そう言う種族名なんだ……』
『言わなかったっけ?』
『聞いてないな……』
くーーー
小さな音が響き、少女が顔を朱に染める。魁人とシャゼムは顔を見合わせた。少女が何時から逃げていたのかは分からないが、魁人達の足で城壁都市から3日掛かっているのだ。
もしその付近から逃げて来たのだとすれば、お腹も空いているだろう事は想像に難くなかった。魁人達は、近場に座ると、火を使う訳にもいかなかった為、魁人の保存食を少女に与えた。
少女は最初こそ不思議そうな顔をしたが、魁人が一度食べてみせると、余程お腹が空いていたのであろう……その後は貪る様に口にした。
そうして、保存食をほとんど一人で食べ尽すと、そのままコテンと横に成って眠ってしまったのだった。
『やっぱり、疲れてたんだな……』
『まぁ、そうだろうね……』
魁人の言葉にシャゼムが同意する。何故森の中に居たのか? 一人なのか? もし親が一緒なのだったとしたら、その親は何処に?様々な問いは有りはする。しかし、少女が起きてくれなければ、それらの問いの答えは出ないであろう。
(これからどうした物かな?)
魁人はそう思う。少女をそのままにしておく事は出来ないであろう。もしかしたら、これから行く神人族の町の住人かも知れないのだ。
しかし、この少女にはシャゼムを……魔人族の姿を見られてしまっている。ヴォルーグの件もあり、おそらく神人族の魔人族に対する感情はあまり良い物とは思えなかった。
だとすれば、魔人族と同行している魁人の事はどう見られるのか? 少なくとも、現状では少女は魁人に少なからず懐いてはくれている様に見える。しかし、それはヴォルーグから身の安全を保障できる間だけの、一時の物であるかもしれない。
結局の所、全ては少女が次に目を覚ましてからの話であろう。
『なぁ、アニキ、少し眠ったらどうだ?』
『…………そうだな、そうさせてもらおうか…………』
魁人は少し考えた後、シャゼムにそう言うと、そのまま寝転がる。身体的な疲れもあったのであろう……魁人は瞼を閉じると、直ぐに意識を闇に中へと沈ませたのだった。
「ゔゔ……あう……ゔゔゔ……」
悪夢を見ているのだろう、うなされている少女の頬を涙が伝う。シャゼムはその様子を黙って見ていた。手を虚空で彷徨わせていた少女は、突然起き上がると、何かを探すようにきょろきょろと辺りを見回す。
シャゼムは、少し腰を浮かすと、咄嗟の場合に備える。
やがて少女は魁人の姿を確認すると、傍まで這って行き、しがみ付いたかと思うと、そのまま寝息を立て始めた。
(眠っている……だけ?)
シャゼムは一度浮かせた腰を再び着く。正直、少女が魁人にしがみ付いている様子は、あまり気分の良い物では無い。しかし、同情できなくもない部分も無くはなかった為、今は無理に引きはがす事はしなかった。
(しかし、何者だ? この小娘……)
シャゼムは、その少女を観察する。見ている限りでは、普通の神人族の少女に見える。最初、魁人が少女に語り掛けたとき、少女が首を振ったのは言葉が分からないからだとシャゼムは思った。
しかし、その後、この少女はシャゼムを見て“ゴポープ”と言ったのだ。ゴポープ……それは確かにシャゼムの一族の種族名ではある。しかし、この名称は魔人族側からの呼称であり、神人族側からは“子鬼”と呼ばれているのだ。
よくよく考えてみれば、魁人の質問は『名前は何か?』と言う物である。もしそれが、何を言っているか分からなかったから首を傾げたのではなく、名前など無いから首を傾げたのだとしたら……
馬鹿な事を考えている……シャゼムは自身の考えに苦笑をする。それは絶対に有り得ない事だからだ。しかし、この少女がヴォルーグに追われて居た事は確かであり、このまま追手が戻らなかった場合、果たしてあの魔獣は、どう動くか? その事を考え、シャゼムは眉を顰めた。
翌日、魁人が目覚めると、彼の体に昨日の少女がしがみ付いていた。シャゼムの方を一瞥すると、肩を竦めて『自分は関知していない』とばかりに、首を振った。
魁人は、しがみ付いている、その手を優しく剥がすと、立ち上がって周囲を見回した。
『……追って来ている気配は……無い様だな……』
『だ……ね……』
魁人は一先ず安心したかの様に息を吐くと、シャゼムの近くに座り直す。
『このまま、神人族の町に行って大丈夫だと思うか?』
『……正直、分からない……て、言うか、その小娘、連れて行くの?』
『……小娘って……見捨てる訳にも行かないだろう?もしかすると、その町の子供かも知れないんだし……』
何処か棘の有るシャゼムの物言いに、魁人は眉を潜めながら、そう答えた。しかし、シャゼムの方は、少女をチラリと一瞥した後、素っ気なく言う。
『……どうだろうね……』
『何?』
『あー、いや、確証もない話だから、気にしないで』
誤魔化す……と言うより、自分ですら信じて居ない事を口にした……と言った様子でシャゼムがそう言う。
魁人は、『そうか』と答えると、目を細め、今後の事についての思案を開始する。
シャゼムの話通りであるなら、ヴォルーグが少女を襲ったのは、繁殖の為だと言う。だとすれば、ヴォルーグにはあの少女だけに固執する理由等無いのであるが、しかし実際には五体ものヴォルーグが少女を追って来ていた。
偶々、哨戒に出ていた個体と出会したのであるなら兎も角、少女1人に五体もの追手が付くと言うのは過剰戦力であり、そもそも、城壁都市との距離を考えれば、哨戒にしては離れすぎている。
かと言って、何処かに偵察を行う為に出てきたのだとすれば、こんな少女に見付かっている時点でお粗末であると言う他は無い。
もし、少女一人で居た訳では無く、親と一緒に居た時に、偶々、遭遇したのだとしても、それならば、自分が助かった時点で少女が親を助けに行こうとしないと言う事が不自然に思えるし、深夜の森の中で何をしていたのか?と言う疑問も出てくる。
(だとすると、やはり、この娘だから追って居たって事なのか?)
もしそうだとすると、その理由が分からない。だが仮に、その説が正しいのであれば、このまま彼女を保護し続ける事の方がリスクが高いと言う事になる上、町に連れて行くのも問題に成って来る。
ただ、何にしても確証の無い話であり、そんな半ば妄想じみた考えで、現状、彼女を見捨てると言う選択肢は魁人には無かった。
『取り敢えず、この娘も連れて行こう』
『町まで……だよね?』
『え?』
『町に着くまでだよね?』
『……まぁ、そうなるかな?』
この世界の社会システムがどうなって居るかは、まだ分からないが、少なくとも、魁人の帰還方法を探す為の旅に付き合わせるつもりは毛頭無い。
それ故に、その町に親族が居れば良し、居なくても、それなりに信用の出来る相手に少女の事は預けるつもりであった。
(魔神とやらの眷属が、あの異形だと言うなら、魔神と言う存在についての信憑性は上がるからな……伝承で語られる限りで言えば、穏和そうな印象は受けるんだが……従えている物がアレだと考えると、何処まで信用出来るか……)
魔神の眷属……魔人族が、どう言った物であるにせよ、シャゼムの所属していた一族、ゴポープの様に対話可能な者だけでは無い事をヴォルーグの存在によって証明してしまったのだ。
魔神が異世界から来た者であり、異世界間移動の術を知っていたのであるなら、魁人の当面の目的は、魔神についての情報を集める事に成るだろう。
そうなれば、当然、魔人族と相対する状況も多くなる。それが穏和な種族であれば良いが、もし、魔獣へと成り下がった一族であった場合は……
そんな危険度が高い旅に、当然、あの様な少女を連れて行ける訳など無かった。例え、彼女に身内がおらず、天涯孤独であったとしても、そのまま行動を共にすると言う選択肢など有り得なかったのだ。
シャゼムは、魁人の答えに満足そうに頷く。しかしそれは、決して少女の身を案じるから……と言う訳では無かった。
(アニキは人が好いから、気にしないのかもしれないけど、あの小娘は危険な感じがする……)
『なら良いよ、じゃ、アニキ、火の用意をしててくれよ、オレは、獲物を探してくる』
『あ? あぁ、うん、分かった」』
やけに機嫌の良くなったシャゼムに首を傾げながらも、魁人は狩りに行くシャゼムを見送って、朝食の準備を始めたのだった。