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「水晶の魔女」の魔法塾

言葉の魔道と未来の魔女たち

作者: 蒼久斎

 「水晶の魔女の魔法塾」シリーズ第5弾。第4弾の続きでもあります。ついに明らかになる(?)「詩歌の魔女」マリ門下「双璧」の片割れ、「修辞の魔女」アヤの実力。そして、ようやくファンタジーな魔法が実現。

 ところで今回、文系魔女の活動にあたって、宮沢賢治の「春と修羅」の「序」と、中原中也の「山羊の歌」の「サーカス」をまるごと引用しています……著作権は消えてるんで、たぶん問題はないと思うのですが。

 あと、ミルトン・エリクソン(1901~1980)がちょこっと出ますが、題材ってほどでもないのでセーフ、かな、と。




 二酸化ケイ素。地質学・鉱物学的には石英と呼ばれ、俗には水晶と呼ばれる鉱物。酸素は地球上に最も多く存在する元素であり、ケイ素はその次の多く存在する元素である。

 それゆえに、いわゆる「水晶」を小さな地球に見立て、それを媒介として、大自然と、そしてその向こう側に感知される「世界」のチカラを引き出す。

 それが「水晶の魔女」である。

 いわゆる通名としての水晶クリスタルは、内包される不純物やその他の要因により、様々なカタチを現出する。たとえば、同じ鉄イオンの含有による発色でも、条件が異なれば黄色のシトリン、紫色のアメジストと、その姿を変える。さらに、その双方の条件を経験すれば、黄と紫という対極の色を同じ石の中に存在させる、「アメトリン」が生成される。

 一つとして同じモノはなく、しかし似たようなモノは大量に存在するという点で、あるいは、いわゆる「水晶」と人間とは、似通った存在であるのかもしれない。

 であるからこそ、まるで運命に導かれるように惹かれ合う恋が生まれるように、互いに共鳴し合い、その存在を身近に感じて心が支えられる「番の石」というものが存在するのだ。でなければ、それに巡り合うまでの過程の中に経験として蓄積されていく、友人のような「適合水晶」が。

 こういった「小さな地球」に日々向き合い、鋭敏な神経と感覚受容器とを鍛えながら、大自然から発される信号を受け取り、そのふるわれるチカラと向き合いながら、人を支えて生きていく存在。それが「水晶の魔女」だ。

 そういった「魔女」たちに対して、人間という存在を「小さな世界」と考え、その操作からやがて大規模な現象を引き起こしていくことを目指す。それが「魔術師」だ。魔女が支える存在であるなら、魔術師は導く存在である。似て非なるモノであり、だからこそ反発し合う。だが、非なるモノであるが、似ているモノでもあるが故に、時には惹かれ合い、その垣根を超える者も少なくはない。

 魔女も魔術師も、目指すのならば、まずは基礎学力を必要とする。知識のない者に力は使えない。どの植物に薬効があるかを知らない者が薬を作ることは出来ないし、どんな言葉が相手の心を揺り動かすのかを考えられない者が、人を使うことはできない。

SCIENTIA(スキエンティア) EST(エスト) POTENTIA(ポテンティア)」(知は力なり)

 その基礎を学び、そこから思考の訓練を積んで、応用の実践へと至るのが、常道。

 だが、時にはその基礎から、一足飛びに才能を発揮する者もある。

 「歴史の魔女」マヤと「詩歌の魔女」マリの門下では、ソクラテスや宮沢賢治などの歴史上の人物を、勝手に「野生の魔女」と呼んでいる。それはソクラテスが「ダイモニオン」なるものの声を聞いていたという記録や、宮沢賢治が生前に出版した詩集「春と修羅」の「序」の記述による。

 特に「春と修羅」の「序」は、「魔女」の感性が端的に表れている。

 だが、宝石を人工的に作ろうと試みたりした賢治は、いわゆる正統派の「魔女」の範疇には収まらない。そう考えれば、彼は「野生の魔女」であり「境の魔術師」だった。

 一学期期末考査も無事終了、成績処理も無事完了、あとは終業式を待つばかりの短縮授業期間に入ったその日、仲間彩こと「詩歌の魔女」アヤは、夫にして「錬金の魔術師」でもあるリョウとともに、魔法塾で三人の生徒もとい弟子に、そう語り聞かせた。

「では、このような『前提』がある、という認識を共有した上で、序を読み直します」

 プリントを机の目の前に置き、アキ、モモ、マイの三人は、じっと集中する。

 朗々と、アヤ先生が「春と修羅」の「序」を読み上げ始めた。





 わたくしといふ現象は

 仮定された有機交流電燈の

 ひとつの青い照明です

 (あらゆる透明な幽霊の複合体)

 風景やみんなといつしよに

 せはしくせはしく明滅しながら

 いかにもたしかにともりつづける

 因果交流電燈の

 ひとつの青い照明です

 (ひかりはたもち その電燈は失はれ)


 これらは二十二箇月の

 過去とかんずる方角から

 紙と鉱質インクをつらね

 (すべてわたくしと明滅し

  みんなが同時に感ずるもの)

 ここまでたもちつゞけられた

 かげとひかりのひとくさりづつ

 そのとほりの心象スケツチです


 これらについて人や銀河や修羅や海胆は

 宇宙塵をたべ または空気や塩水を呼吸しながら

 それぞれ新鮮な本体論もかんがへませうが

 それらも畢竟こゝろのひとつの風物です

 たゞたしかに記録されたこれらのけしきは

 記録されたそのとほりのけしきで

 それが虚無ならば虚無自身がこのとほりで

 ある程度まではみんなに共通いたします

 (すべてがわたくしの中のみんなであるやうに

  みんなのおのおののなかのすべてですから)


 けれどもこれら新生代沖積世の

 巨大に明るい時間の集積のなかで

 正しくうつされた筈のこれらのことばが

 わづかその一点にも均しい明暗のうちに

   (あるいは修羅の十億年)

 すでにはやくもその組立や質を変じ

 しかもわたくしも印刷者も

 それを変らないとして感ずることは

 傾向としてはあり得ます

 けだしわれわれがわれわれの感官や

 風景や人物をかんづるやうに

 そしてたゞ共通に感ずるだけであるやうに

 記録や歴史 あるいは地史といふものも

 それのいろいろの論料データといつしよに

 (因果の時空的制約のもとに)

 われわれがかんじてゐるのに過ぎません

 おそらくこれから二千年もたつたころは

 それ相当のちがつた地質学が流用され

 相当した証拠もまた次次過去から現出し

 みんなは二千年ぐらゐ前には

 青ぞらいつぱいの無色な孔雀が居たとおもひ

 新進の大学士たちは気圏のいちばんの上層

 きらびやかな氷窒素のあたりから

 すてきな化石を発掘したり

 あるいは白堊紀砂岩の層面に

 透明な人類の巨大な足跡を

 発見するかもしれません


 すべてこれらの命題は

 心象や時間それ自身の性質として

 第四次延長のなかで主張されます





 読み進んで行くにつれて、三人の体がそれぞれ、ぐらぐらと揺れ始める。

 真っ先に反応したのはマイ、続いてモモ、最後にアキだ。

「大正十三年一月廿日……宮沢賢治……」

 アヤ先生が朗読を終える頃には、三人の目はぼうっと霞み、まるでここではない、どこか違う世界へと飛んでいったかのように、虚ろにも、満ち溢れているようにも見えた。

「……アキの耐性すら、まだこの段階止まりか」

 賢治の「言葉の魔力」に、あっさりと押された弟子たちを見やり、二人はぼやく。

 手順を踏んで訓練を受けた魔術師の「ことば」に対抗するのは、正統派の対抗訓練でなんとかなる。逆にもっとも対抗訓練が厄介なのは、自分の「ことば」の暴走をとどめられなかった者たちの、残りの声だ。すなわち、世に言う「詩人」たちの言葉である。

 名声を求めるでもなく、ただ受信したままを変換して暴発させたような、初期の賢治の詩は、しかし後世の評によって有名であるが故に、共通認識を持ちやすい。初心者でも「呪文」がわりとして手軽に扱いやすい反面、共有知識であるが故に、反動で崩される可能性も高くなる。

 見事に撃沈した三人を見回しながら、アヤ先生は頭をかく。

「宮沢賢治は知名度も高く、残っている草稿も、推敲のあとについての研究蓄積も多い。現状、私たちの門下が把握している限りで、もっとも『トレース』しやすい『野生の魔女』の一人……最低限、この『春と修羅』の詩のいくつかは、使いこなせるレベルになってもらわないと、戦闘にすらならない」

 リョウ先生も、妻の言葉に苦笑い混じりに頷く。

「『序』でこれか……君の『修辞の魔女』としての能力を割引しても、あるいは『魔術師』としての言語使いの技量を差っ引いても、この子たちはまだまだだな」

「何も『原体剣舞連はらたいけんばいれん』まで使えるようになれ、とは言わないけど」

 同じ「春と修羅」に収録されている、きわめてリズミカルな、そしてチカラに満ちあふれた詩だ。花巻の宮沢賢治博物館にいけば、この背景にあるイメージを垣間見ることも出来る。それらをつけ加えることで、アヤ先生はただでさえ強力なこの詩を、さらに強力なエネルギー源にかえて「ことば」を操れる。

「君とエリカさんだけだろう?」

 夫の言葉に、アヤ先生は肩をすくめて笑った。

「マリ先生もよ」

「ああ……彼女は『詩歌の魔女』だったね」

 詩歌の魔女が、詩を操れないでは、話にならない。



「あなたも知ってのとおり『ことば』を使った魔法と魔術は、きわめて近い。アンリもおそらく、言語魔術を駆使してくるでしょう。現状たどれている限り、アンリが関わった結社にはドイツ系の所も多い……ドイツ系言語魔術の強力さは、言うまでもなく、最強クラス」

 アヤの言葉に、リョウも神妙な顔で頷く。

「もちろんドイツ語は、汎用性の高さでは英語に負けるし、僕の知る限りの『個人戦レベル』で『最強』の『言語の魔術師』は、英語使いだ……だが、史上最強最悪の『黒の番の魔術師』はドイツ語使い……アンリがどのフィールドで勝負をしかけてくるのか分からない以上、弟子の育成による対抗勢力の成立は必要不可欠だ。しかも三人とも、本当に基本中の基本の知識だけで、きわめて強力な対抗術を使える素養がある」

 リョウは、三人の本名を思い返しながら、アヤの目を見つめる。

 一瞬だけ夫の目を見つめ返し、それから弟子たちを見て、アヤは頷いた。

「ええ」

 何百人もいる生徒の中から、この三人を危険を伴う道に導いた。

 それは偶然ではない。意図であり、必然だ。

山瀬やませ秋津あきつ……坂之上さかのうえもも……そして、上代かみしろ麻衣まい……この三人は、三人ともが、自分の名前を礎として、言語魔術を行使できる。秋津は変幻自在に相手を翻弄するでしょうし、もし目覚めるなら……麻衣は化けるでしょう」

 すでに「番の石」に出会っている、という点を差し引いても、この三人の中で、最も未知数の可能性を秘めているのは、マイ、こと上代麻衣だ。

「親御さんにその意図があったか不明だし、非常勤講師の身で家庭事情に関わることは出来ないけれど、桃は誕生日が三月三日……そして、適合水晶はピンク色の紅水晶ローズクォーツ……彼女は『防御・守護』型へ、早期に特化させて問題ないでしょう。むしろ、この適性に関してだけなら、彼女は他の二人よりも早々に戦力にカウントできるはず」

 アヤの言葉に、リョウは同意を示すように、頷く。

「アキの使える言語魔術は、あまり上げすぎないようにしてね」

「もちろんだ。彼女の名前は、複雑な言語魔術を組み上げる下地にもなるが……言語魔術は、君も知ってのとおりの、諸刃の剣だ」

 リョウはウランガラスを嵌め込み、真鍮線で紋様を描いた、己の杖を持つ。

「言語魔術の最大の特徴は、強くなればなるほど、同時に弱くなること。知識が広がれば広がるほど、言葉遊びが高等で難解になればなるほど、分かるものだけがダメージを受け、分からないもののダメージは軽減される。知識が仇となるわけだな」

「原初のエネルギーそのもののような、宮沢賢治の初期の詩は、私たちのような高レベルの術者にも、未熟な者にも、一定以上の効果が見込まれる。だからこそ、対抗能力を身につける必要があるのに」

 まだ放心状態の三人の弟子を見やり、アヤははぁっ、とため息をついた。

「三大歌集で言うならば、この三人には『万葉集』ベースで『古今和歌集』をギリギリ利用可能、ぐらいになってほしいんだけれど」

「君やエリカさんは、すでに『新古今』のレベルで『ことば』を使うからな」



 ええ、とアヤ先生はコキコキ首をひねった。

「あまり説明しすぎると、それはそれで戦力を損なうのが、言語魔術の難しいところね。知れば知るほど強くなるのが、基本的な『学習』だけれど、この道は一筋縄ではいかない」

 隠された意味に気づくだけの知識を身につけてしまうと、逆にその知識に引きずられて、今までは引っかからなかった罠に、はまってしまうこともあり得る。

「君の言うところの『魔道』か」

 リョウ先生は、くるくると宙に杖で円を描く。いや、渦を描く。

「ええ。いわゆる日本仏教的なアレとは別の、ココロというもののチカラを、内的外的な方向性を問わずに行使する『みち』のことね。そう……基礎の段階では『知は力』だけど、応用と実践、そして実戦は全くの別……」

 同じ「じっせん」も、漢字の変換で、意味は異なる。

「日本語は、魔術行使に向いた言語よ。近親言語との連携を利用した、いわゆる『互換性』は低いけれども、同音多義語の豊富さは強みの一つだし、古語の『語源』の応用は、セム系言語の『語根』にも通じる部分がある……日本語の『修辞の魔女』として、私はこの言語の可能性に夢さえ見てる……だけど夢は『dream』だけじゃない」

 日本語の「ゆめ」。それは、"dream"とも"nightmare"とも受け取れる。

 それを日本語の強みと取るか、英語の強みと取るかは、術者次第だが。

「……アンリがあの『黒』を再現するのなら、僕は『白』の誇りにかけて、ゲーテの力だろうと、使えるだけのチカラを使って、君を支える」

 夫の言葉に、ふふ、とアヤ先生は、少しいたずらっぽく笑う。

「あなたにゲーテが扱えるなんて、知らなかったわ」

 ドイツの大文豪ゲーテの詩は、押韻も強弱も計算し尽くされた、言語芸術だ。

 それを「呪文」がわりに使うなど、生半可な者には不可能な業である。

 リョウ先生は、お返しのように小さく笑い返した。

「無論、短いもの限定だが、練度は上げてある。時間稼ぎにはなるだろう。そして対個人戦の場合なら、エリクソンに勝てる者はいない。無論、彼のチカラには、僕は到底及ばないが」

 ミルトン・エリクソン(1901~1980)。

 アメリカの精神科医にして心理学者。そして、アメリカ臨床催眠学会の創始者にして、初代会長でもある。彼の特異な点は、精神医学も、そしてその驚異的なまでの催眠の能力も、ほぼ独学で身につけた点にある。臨機応変・変幻自在に、日常会話と催眠誘導とを自由に行き来する彼の催眠技法は、他者には到底使えるものではなく、またクライエントごとに異なるアプローチをするべしとして、自らの技法を体系化しなかったため、彼にしかなしえない完全な「名人芸」であった。

 それほどに、ミルトン・エリクソンの「ことば」の扱いは卓越していた。それには、表情・動作・姿勢・音調・接触などによって行われる「ノンバーバル・コミュニケーション」も含まれる。独学による彼の催眠は、それまでの「古典催眠」を一変させる「現代催眠」への道を拓いた。その技法が、彼の名前を冠して「エリクソン催眠」とさえ呼ばれることからも、その凄まじさはうかがい知れよう。

 つまり彼は、極めて稀な「野生の魔術師」の可能性が高い。



 魔術師に「野生」は、極めて少ない。感受性という天性の素質が勝負を分けがちな「魔女」とは異なり、「魔術師」は言語から発達した理論など、後天的に学習・修得可能なものによって、その素養が左右される。当然、先達の研究蓄積を受け継ぐ者の方が優位にあり、また、そういった「系譜の魔術師」たちの共同体コミュニティは、必然的に閉鎖的なものになりがちだ。彼ら「系譜の魔術師」たちの技術が流出するケースも、皆無ではない。

 だが、そういったことを企めば、共同体内での地位を失い、庇護も何もない状態となる。人権の概念が浸透してきた現代では、リョウ先生のように「フリー」状態になることも、過去ほどには難しくない。だが、歓迎されることではないのも事実である。現代風に例えるなら、社内の重要機密を持ち出すような真似だ。看過する会社は、まずないだろう。

 基本的に「系譜の魔術師」たちは、自分たちの存在を表に出すわけにはいかない、と考えている。そういった「系譜の魔術師」たちからの干渉が、ほとんどない「野生の魔術師」の技術分析は、魔女と魔術師の対立が激化した第二次世界大戦以後の世界において、「魔女」たちが相手方の技量を推し量る、貴重な目安になっているのだ。

 リョウ先生は、ヒュッ、と杖を一度振った。

 賢治の「ことば」に押されていた生徒たちが、もぞもぞと身動きを開始する。

「視界に『渦』という中心を持つ構造を築き、急激な動きの変化で注意を引き戻す、か」

 夫の行使した魔術を、アヤ先生は端的にそう表現する。

 これも、ノンバーバル・コミュニケーションの一つ、と言い得るだろうか。

「言うのは簡単、やるのは難関、だぞ」

「知ってるわ。だから『引き戻し』はあなたの仕事。専門でしょ?」

「心理誘導については、僕の方が専門なのは否定しないが……」

 夫の言葉をスルーして、アヤ先生はもう弟子たちに、その集中を向けている。

 パン、パン、と手を二回叩く。

「起きなさい!」

 アヤ先生の声が響いて、三人は完全に意識を回復する。

 悔しそうに額を抑えているのはアキだけで、モモとマイは首を傾げている。

「ああ……『われわれがかんじてゐるのに過ぎません』で、オチた!」

 アキが、プリントの当該箇所を叩き、そう叫ぶ。

「あら。かなり伸びているわね」

 アヤ先生の言葉に、アキは「おや?」と目を開いた。

「1年生がいるから、手加減したとかじゃないんですか?」

 いいえ、とアヤ先生は首を振る。

「去年と全く同じにしたつもりよ。たしか去年は、『けれどもこれら新生代沖積世の』に入りかけたあたりで、オチてたわね」

「あの時は、ユイ先輩が初クリアでしたね……」

 あー、悔しい!

 アキはべったりと、インクが頬に転写されそうに、机に顔を伏す。

「ユイね……あの子も『序』のクリアに3年かかったわね、そう言えば……」

「……つまり、来年はクリアしてみせろと」

「あなたのペースで成長しなさい。決して『向こう』に堕ちないように」

「はーい……うう、悔しい……」

 先輩と先生の会話に、首を傾げるばかりだった1年生二人が、ようやく参加する。

「その『ユイ』先輩って、私たち、会ったことありますか?」

 マイの質問に、アヤ・アキ・リョウの、三人が揃って首を左右に振る。

「私の2学年上の先輩よ。だから、あなたたち二人とは入れ違い」

 アキの言葉に、なるほど、とマイは頷く。

 それにしても、と呟いたのは、モモであった。

「『魔法の呪文』と意識して、受信センサーを切り換えただけで、国語の教科書みたいな文ですら、こんな影響力パワーを持つなんて、本当にびっくりしました」

 本当に、ただ単純に、いつもの水晶の声を聞くような、感覚を研ぎ澄ました状態になって、アヤ先生の朗読を聴いただけなのだ。

「私、もう『あらゆる透明な幽霊の複合体』あたりで、意識ブレたよ。その後も頑張って持ちこたえたけど、二回目の『ひとつの青い照明です』で、意識消えた」

 両のこめかみを押さえて、最初にオチたマイがそう述べる。

「マイの場合『幽霊ファントム水晶クォーツ』が適合水晶だから、かもね」

 アキの言葉に、そうね、と頷いたのは、アヤ先生だった。



 意外そうな顔をする1年生二人に、別に不思議でもなんでもないわ、と返す。

「宮沢賢治は『野生の魔女』であると同時に『境の魔術師』……単語の共通事項に反応を示し、それに呑まれて自分のリズムを乗っ取られるのは、十分にあり得る」

「つまり、私が『そのとほりの心象スケツチです』でオチたのも……」

 モモの言葉に、ええ、とアヤ先生は頷く。

「賢治の言葉の『魔力』に、あなたの意識のリズムが乗っ取られた、ということ」

 詩を読んでいると、時々、意識が詩の中に吸い込まれるような気分になる。

 そんな経験は、ないだろうか?

「そういう時、あなたは詩人の『言葉の魔力』に捕まっているの。それが、たとえばさっきの『序』や、賢治の初期の詩のような、自然から受信した信号を、言語に変換しただけのようなものなら、リズムに乗っ取られるだけで、実害はさして発生しないわ。意識が朧気になるけどね。つまり、自分自身の意志で認識をコントロールできなくなる、けれど」

 それ、すでに実害じゃないのでは、とマイもモモも思ったのだが。

「詩集を読んでいる分には、単なる集中で済む話よね」

 アヤ先生の言葉に、あーそのシチュエーションね、と一瞬だけは納得した。

 だが、本題が続きにあることぐらい、もう二人にだって分かる。

「けれど、それが『詩』じゃなくて、実は『演説』とか、そういうのだったら……」

 モモの言葉に、ええ、とアヤ先生は頷く。

「リョウの説明したとおりよ。下手をすると、とんでもないことに加担させられる」

 モモが、鳥肌の立った二の腕を、少しさすった。

 今度はマイが発言する。

「あるいは、詩集を読んでいる、じゃなくて、敵対意識を持つ相手との対面状態で、『意識のコントロールを外される』状態になったら、それも危険ですよね?」

「ええ。もっとも、相手が明らかに攻撃の意志を見せていたら、あなたたち、感度を落として防御できるでしょう? これは不意打ち対策の訓練なの。本当の『悪』は、最初から『悪』の顔なんてしてない。まるで優しい顔をして、最後にどん底に突き落とす」

 だから、と、アヤ先生は、ひときわ険しい目つきで、二人を見つめた。

「自分の意識の手綱を掴みなさい。繊細に感じ取りながら、けれども決して手放さないように、細心の注意を払いなさい。感受性の高さが重要な魔女にとって、感度を落とす対抗は、素質の芽を摘むことに等しいわ。今、あなたたちに出来る唯一の対抗手段がそれであるのは分かったと思うけれど、そのままでは『魔女』としての素質も伸ばせない」

 神妙に、二人は頷く。

「幸か不幸か、あなたたちは全員が『言語魔術』に対する適性と耐性、両方に素質を持つ。そして、言語魔術と親和性の高い『修辞の魔女』である、この私と、心理誘導を専攻した『魔術師』の二人が、師匠についている……マリ先生の系譜の中で、現状『魔術師』勢力に反撃可能な素質を持つ弟子は、私とサヤの門下にしかいない。しかも、サヤの門下生の適性は、理数系の対魔術。専門性が高いため、威力の高さに反比例して、効果範囲は狭くなる。より危険度の高い、言語魔術への対抗は、あなたたち『修辞の魔女』門下にかかっています」

 アヤ先生の言葉に、二人はきりり、と表情を引き締める。

「宮沢賢治などの詩は、有名であるが故に『引き込み』やすい……強さを知ることと弱さを知ることが同義の世界を、これからあなたたちは歩んでいくのです」

 そう告げると、アヤ先生は「教室」の少し広めに取られたスペースに立った。





 幾時代かがありまして

   茶色い戦争ありました


 幾時代かがありまして

   冬は疾風吹きました


 幾時代かがありまして

   今夜此処(ここ)での殷盛さか

     今夜此処での一と殷盛り


  サーカス小屋は高いはり

   そこに一つのブランコだ

 見えるともないブランコだ


 頭(さか)さに手を垂れて

   汚れ木綿の屋蓋やねのもと

 ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん


  それの近くの白い灯が

   安値やすいリボンと息を吐き


 観客様はみな鰯

   咽喉のんどが鳴ります牡蠣殻かきがら

 ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん



      屋外やぐわいは真ッくら くらくら

      夜は劫々(こふこふ)と更けまする

      落下傘奴らくかがさめのノスタルヂアと

      ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん





 朗読されたのは、中原中也の詩集「山羊の歌」の「サーカス」だ。

 だが、これは国語の時間の朗読ではない。

 『修辞の魔女』が、魔力を込めて紡ぎ出す、詩人のチカラのこもったリズム。

 マイもモモも反射的に、言語受信の感度を落とした。

 だが、先輩の意地にかけてか、受信感度を「春と修羅」の「序」の朗読を聴く時と同じレベルで維持していたアキは、途中で目から生気を失い、リズムに合わせて揺れ出した。

(ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん)

 国語の時間には、ただひたすら「意味不明」の一言に尽きた「ことば」が、アキの揺れるリズムとなって体現されている。少なくとも、感度を下げても、二人はそう感じる。

「……キッツぅ」

「魔女モードで聴き続けてたら、国語の時間で発狂できる気がしてきた」

 マイの呟きに、モモがそう応じる。マイは「同感」と答えた。

「で、リョウ先生は?」

 そう呟きつつ目を上げれば、平然と立っている「魔術師」がいた。

「……さすがは言語操作と心理誘導が専門。詩ぐらいで揺らいだりしない、か」

 マイの一人合点に、いやいや、と当のリョウ先生から声が降る。

「詩だからこそキツい部分はあるさ。ただ僕の場合、かわし方を心得ているだけだよ。今のアヤによる『サーカス』の朗読は、生の『ことば』のエネルギーを、さらに強烈に体感させる、という意図のもとに実行されている。なら、ことば遊びや連想ゲームなどの回路を切って、リズムへの耐性を上げるという方法で、感度を落とさずに対抗できるのさ」

「……さっぱり分かりません」

 マイの言い分は、モモが完璧に代弁してくれた。

 友の断言に、マイはこくこくと頷いて、同意を表現する。

 リョウ先生は、魔術師なりにではあろうが、丁寧に説明をしてくれた。

「さっきマイは、賢治の使った『幽霊』の語と、自分の適合水晶とのイメージとがシンクロして、意識を持っていかれたね? あれは、ことば遊びや連想ゲームの初歩が、無意識に発動したんだよ。君たちは和歌の技巧とかを教わっただろうけど、さっきのマイは、意図せずしてそれを、自分を巻き込む形で発動させたのさ。だから、きいた語から何かを連想しないように集中を上げて、引きずられないようにする。そして、一拍か二拍ほどずらして、頭の中でランダムに復唱することで、相手が引っ張っていこうとするリズムを、自分の脳内でぶち壊す……これが『ことば』による意識乗っ取りへの、対抗の初歩だ」

 分かったような、分からないような。

「……でも、それアキ先輩、知ってるんですよね?」

 モモの疑問に、うん、とリョウ先生は、少しばつが悪そうに頷く。

「知っているからって、できるとは限らないさ。半人前のアキと、専門家のアヤじゃ、そこらの中学生が大関あたりに、相撲で勝負を持ちかける程度の無茶だよ」



 かなり絶望的な喩えを出された。

 が、考えてみよう。

 アヤ先生が「魔女」の修行を開始したのが、何歳からかは知らないが、アヤ先生の実年齢が、マイやモモの倍を超えているのは事実である。

 一年目というのもおこがましいレベルの二人と、二年目に入ったばかりのアキ。

 どう見積もっても、軽く十年以上は修行しているだろうアヤ先生と、アキとが、同レベルで戦えるかと問われれば、それはもう、たしかに、リョウ先生の喩えどおりなのだ。

 むしろ、もしこの速度で学習内容を追いつかれていったなら、アヤ先生の兄弟子アンリが、「黒魔術師」に堕ちてしまったというのも、ちょっと納得だ。

 十年かけて歩んだ道を、一年で追いつかれたら、絶望もするだろう。

 なんとなく、闇堕ちした師の兄弟子に、同情したくなる。

「けど、去年は感度を落として逃げたのに、今年は頑張って、結構持ちこたえた……あれでも成長してるんだよ。とにかく、実戦あるのみだね。君らは同学年なんだから、たまには学校で、本気でやり合ってみるのもアリだろうね。ただ、アヤの勤務している日に限るように」

 リョウ先生のその言葉に、二人は目を見合わせる。

 それから、揃って、眼前で師匠に意識を乗っ取られた「先輩」に目を向ける。

「もうちょっと修行したら……」

「……に、しておきます」

 モモ、マイの順番で、さり気なくもなく、おことわりをした。

 リョウ先生は気分を害する様子もない。

「君たちは、ちゃんと自分たちの実力と、『ことば』の危険性とを理解したようだね」

 そう言って、にこやかに笑う。マイは、さっきの問いかけがテストだと気づいた。

「……もし『はい、やってみます』って、答えていたら?」

 その問いに、ははは、とリョウ先生は笑った。

「無意味な問いだな、それは。眼前でアキがあの状態になってるのに、『はい』って答えるほど、君たちはどっちもマヌケじゃないだろう? 僕はね、アヤの生徒を見る目を信じている。万が一への恐怖心を、きちんと持てる人間でなければ、まっとうな『魔女』にも『魔術師』にもなれはしない……『黒』なら、話は別だがね」

 万一の恐怖心を超えるほどの欲望に取り憑かれた「黒」ならば。

「そこまで計算ずくでの『誘導』ですか?」

 モモの問いに、リョウ先生は、ニヤッと笑った。

「……思った通り、モモ、君は対『黒』魔術耐性の素質が、ずいぶんと高いようだ」

「へっ?」

 首を傾げたモモの眼前に、リョウ先生は、こうなることなどお見通しだったとばかりに、どさどさと机の下から本を引っ張り出して、積み上げた。マンガ、現代語訳、原文註解つき、などの差はあれど、全てが『古事記』である。そして、意味ありげな薄ピンクの付箋が、どれにも挟まれている。

「説明はアヤから受けてくれ。僕はちょっと、アキを引っ張り戻しに行く」



 ひょいっ、と位置を交代し、今度はアヤ先生が二人の向かいに座る。リョウ先生は、意識を吹っ飛ばされたままのアキに向かって、何やら催眠みたいなことを始めだした。

「まぁ、マンガの付箋のページでも見ながら、テキトーに聞きなさい」

 アヤ先生に言われるがまま、モモはマンガ『古事記』を手に取り、付箋のつけられたページを開く。何やらおどろおどろしいモノに対し、男の人が桃を投げつけていた。

「……ダジャレ?」

 マイの呟きに、話を始めようとしていたアヤ先生から「掛詞と言え」と声が飛ぶ。

「さてモモ……私が君をこっちの道に引っ張り込み、きな臭い対戦に備えた戦力にしようとしていることは、もう重々理解したと思う」

「はい……」

 最初は軽い気持ちだったんです、というのは、実にそのとおりで。

 怪しげな団体に引っかかる人間というのは、こういう風に勧誘されるんだなぁ。

 それを、しみじみと体感している現在。

 しかも勧誘してきたのが、学校の先生でもあるという現実。

 が、二人は同時に少し疑問も湧いていた。

 先輩たるアキが、あそこまで軽々吹っ飛ばされるぐらいの「言葉のチカラ」を操れるのならば、何百人もいる生徒たちの中から、何故「自分たち二人」だけがここにいるのか。

「さて、と……いよいよ本格的な修練に入りつつあるわけだが、その前に、君らの抱えているだろう疑問から解消していこう。まず、どうして『坂之上桃』と『上代麻衣』を選んだか」

 さすが先生、こっちの考えなどはお見通しだったようである。

 ただ、魔女モードと先生モードを使い分ける、とか言っていたわりに、学校の授業時の口調になっているのは、何故なのだろう。「境」の話だからだろうか。

 筆ペンをとり、先生はさらさらと「坂之上桃」と綺麗な楷書体で書いた。

「理由はいくつもあるんだが、第一には名前だ。まず、『坂之上桃』というのはね、滅多にないほど強い『厄災避け』のチカラが込められた言葉で綴られた名前なんだ。効果が最大限に発揮されるフィールドは日本だけど、中国や華僑文化に接しているゾーンなら、ほぼ間違いなくそれなりの能力を発揮する。平たく言うと『防衛』だ」

 言われて、モモはもう一度マンガのシーンを見返す。確かに。

「古代中国から、桃には退魔のチカラがあると信じられていた……『古事記』は日本の神話だが、まとめられた時期が飛鳥から奈良にかけて、と考えると、十分に中国の影響は考えられる。そういった民間伝承を土台に成立した、中国版土着宗教が『道教』だ。この道教でも、桃は特別な力を持つモノとされ、神聖視もされている。日本には神道があるんで、道教は宗教としては定着しなかったが、習慣としては案外と生活に染み込んでいる……たとえば、雛祭りとか」

 ばっ、とモモは顔を上げ、そんな友をマイは見る。三月三日。

「そう、桃の節句……君の誕生日だ。現在ではひな壇に人形を飾って、あられと菱餅を食って、甘酒を飲む日と化しているが、元は己が受けた呪いや厄災などを、身代わりとする人形ヒトガタにうつし、川などに流した『厄災除け』の儀式だ」

 ずいぶんとヒドイ形容をされているが、あんまり外れていないのも事実だ。あかりをつけましょ、ぼんぼりに。商業主義というのは実に強力な浸透能力を持つものである。

「つまりだ。親御さんの心の内は知らんが、君は強力な『守護』を受けているんだ。はらえの素養を、生まれた瞬間から受け取っている。一般人として生きていても、相当の効果を発揮するだろう。そして『境の魔術師』としては、防御でなら他の追随を許さないほどの資質がある。ま、そのかわりに、悪意への対抗以外の攻撃能力はからっきしに近い、ほぼ完全な一点特化型になるけどな」

 先生は、ローズクォーツのサザレを入れたシャーレを取り出し、桃の眼前に置く。

「コイツが適合水晶だったのも、おそらくは同じ『桃色』と、石言葉……つまりは『愛』や『優しさ』との共鳴から、だろう。どちらも、何かを守りたい、と思う心でもある」

 モモは、ざらざら、とシャーレの中に指を入れる。適合水晶独特の「あたたかみ」を感じるけれども、マイが言うような「感動」にまでは到達しない。

 ここにも「番の石」はいないようだ、と思うと、自然とため息がこぼれた。

 少し眉尻を下げながら、アヤ先生は話を続ける。

「寂しい話をするが、咲いた花がやがて枯れるように、多くのローズクォーツは、長時間日光下にさらしておくと、やがて色褪せていく。『番の石』探しは難航するだろう。が、この産出量の多さと安価さは、防衛用にかなり遠慮なしに使いまくれる、という強みにもなる。少しやってみよう」

 そう言うと、先生は金色の魔法陣っぽいものを描いた、黒い画用紙を取り出した。それから何故か、案外と切れ味の良さそうな、銀色のペーパーナイフ。



 突如あらわれた、いかにもマジカルなアイテム……ただの金のポスカで図形が描かれただけの黒い画用紙とペーパーナイフだが……に、目を瞬かせ、二人は顔を見合わせる。

 その間にも、先生は緑色の「オアシス」……あの、フラワーアレンジメントとかで、花を刺す、吸水性の高い、ボロボロと崩れやすいスポンジだ……を、取り出していた。

「ちなみに、強度はこんなモンです」

 とすっ、と、先生はペーパーナイフの先を、オアシスの角近くにぶつける。ぶつけられた部分が、凹んで、そして元に戻らない。これは通常のスポンジとは異なり、指で押せば指の形に凹んで、そのままの形になるようなシロモノなのだ。マイもモモも、適当に押して、そして形が元に戻らないことを、しっかりと確認する。というか、面白いぐらい凹む。調子に乗って、マイは角をひとつ、完全に三角ができるほど凹ませてしまった。そのあたりで、先生からストップがかかる。

 ちょこちょこ凹んだオアシスの上に、先生は例の魔法陣画用紙を載せた。

 そして、1年生弟子一号である、坂之上桃に、いきなり無茶振りをしてきた。

「モモ、これから私は、コイツめがけて、思い切りナイフを突き立てます。それを防ぎなさい」

「はい?」

 目が点になる、というのは、きっとこういうことなのだろう。

 そんな気分になりつつ、モモはまじまじと、無茶振り師匠もといアヤ先生を見つめる。

「そのシャーレの中のサザレ、いくら使っても構いません。この図形の上のどの位置にどの石を置くか、じっと石の声を聴きながら、聞こえたとおりにやってみなさい。呪文とかそんなものは不要です。ただひたすら真剣に、盾をイメージしなさい」

 いや、無理でしょ。

 そうモモが思っているのは、隣のマイにも筒抜けだ。

 そりゃあな、という感じである。

 だが、アヤ先生は本気の顔だ。

 ぶすっ、とオアシスの端っこに、ペーパーナイフを突き刺す。

「まず、想像してみなさい……これがオアシスじゃなくて、大事な友だちだったら?」

 物騒な喩えをされて、ギョッと顔を引きつらせるのはマイである。

 モモも、さっ、と顔色を変えた。

「そのぐらいのつもりで、石の声を聴きなさい……」

 そう言われ、モモはおそるおそる、シャーレのサザレに手をつけた。

「大丈夫よ、モモ……あなたは『守る』ことなら、誰にも負けない。あなたの優しさと強さを信じているから、この課題を出したの。自分を信じなさい」

 アヤ先生の言葉を聞きながら、モモはシャーレの中を探る。

 はっ、と目を見開くと、モモは一粒の石をつまみ出し、躊躇なく図形の一角に置いた。

 それからまた、ざらざらとサザレを漁り、そして粒を取り出しては、画用紙の上に置くことを繰り返す。モモの集中力は極限まで上がりつつあるらしく、注視するマイの視線も、もはや気にならないらしい。

 モモは合計八個の、小さなローズクォーツを、ギリシャ十字の外側の角、のような位置に置いた。少し歪な八角形が描き出されたようにも見える。

 マイは、モモが「防御……守る……」などと呟きながら、それらのサザレの間に、無意識のうちにだろうか、魔法陣でも描くかのように、指を走らせていることに気づく。

「さあ、行くわよ!」

 アヤ先生がペーパーナイフを、モモが作ったローズクォーツの「盾」を突き抜けんと、全力で振り下ろす。

 次の瞬間、カァン、と金属質の高い音がして、真っ白な火花が散った。

 正確に言うと、見ていたマイの「脳内」に、だ。

 実際には何も起きていない。

 いや、何も起きていないと言うと語弊があるだろう。ただの画用紙を、全力を込めて振り下ろされているらしいナイフが、貫通できずに留まっているのだから。

 だが別に、実際に発光現象などは起きてはいない。ただマイには「見え」た。



 モモは全力で「防御」に集中しているらしい。先生が離れても、身じろぎもしない。ずっと「盾」を注視している。

「二撃目は、マイ、あなたがやりなさい」

 ペーパーナイフを渡され、おそるおそる、だが、えいっ、と力を込めて、マイもそれを、モモの構築している「盾」を貫通せんと、振り下ろす。

 見えているのは、ただの黒い画用紙だ。その下にあるのは、脆いオアシスだ。

 ところが、画用紙に接触する寸前で、またマイの脳内に火花が散った。

「う、そ……」

 ぐぐっ、とさらに力を込めてみるが、見えないチカラに阻まれて、ナイフが画用紙にさえ接触しない。汗が出るほど必死に、体重までかけて、一点攻撃をしているのに、切っ先が空中で留まる。

「うそ、でしょお?」

 当のモモが半信半疑だったのに、最初の石を選んで置いてからこっち、まるで別人だ。

 ぐぐ、と力を込めつづけるも、ついにナイフの方が曲がり始めた。

「えええー!」

 驚きで思わず叫んだマイの肩を、ぽんぽん、とアヤ先生が叩く。

「はい、お疲れ……リョウ、モモの引き戻しをお願い」

「あいよ」

 なんてことない調子で、リョウ先生はモモに向かう。アキは戻ってきたらしい。

「あの、先生……ナイフの弁償とか……」

 おそるおそる尋ねるマイに、別にいいよー、と軽い調子で返事が返る。

「多少叩いたら戻るでしょうし、所詮はペーパーナイフだもの。決闘用のアルミニウム剣とかなら、また術式の組み直しからだから、話は別だけどね……どう? びっくりした?」

「はい」

 素直に頷く。汗をかくほど必死こいて突き刺したのに、画用紙にすら触れられなかった。

「あれが現時点での、モモの最高の防御能力。良かったね、マイ」

「へ?」

「モモはあの『オアシス』を、君自身だと真剣に信じて、防御の盾をイメージしていたんだよ? つまり、そんだけの力を込めても貫通できないほどの全力で、モモは君を守ろうと思ってくれてたわけ。本当に防御の素養は最高ねぇ」

 先生の呟きに、マイはささやかながら、不穏な気配を感じとる。

「……あの、もしモモの友情パワーとかが足りてなかったら?」

 おそるおそる発した問いに、けろっ、と爆弾発言で返す無茶振り師匠。

「防衛対象として認識されているのがマイだから、マイの身体にダメージが出たね」

 それはつまり、自分で自分を攻撃していた、ということではないか!

「えぐっ! えぐすぎです、先生!」

 いや、ちょっ、話続きあるから、と、先生は両手を上げて続ける。

「二撃目以後は、モモの防衛認識対象はマイのまま、マイのダメージが私に来るように、画用紙の方の術を発動したから! あと、そのナイフは私にダメージを与えられないから、よしんば友情パワーが足りなくても、私が怪我することもないし!」

「それにしたってひどいです」

「結果良ければ全て良し! 第一、モモがそれだけ、マイを大事な友だちだと思っていると、分かっているからこそ出した課題ですので。私的には問題ナッシングだ」

「鬼教官がここにいる……」

 開き直りも甚だしい師匠に、マイははぁーっ、と深いため息をつく。

「でも、嬉しいんでしょ?」

 にやり、と笑うアヤ先生の笑顔は、なんというか「魔女」だ。

「……そりゃ、そんだけ大事に思ってくれてるんだ、って、本当に実感できましたけど」

 ちょっと複雑な気分で、まだ集中状態の親友を見やる。

 リョウ先生は、胡桃みたいなモノを、モモの防御陣の周囲に並べていた。

「あんな集中状態に入ったら、自分が危ないじゃないですか……」

「そうよ。だからマイ。モモが防御に集中したら、モモ自身はあなたが守るの。モモがディフェンス、あなたがオフェンス。二人一組の『番の魔女』ね」



 とんでもないことを言い出したアヤ先生に、驚愕で開いた口がふさがらない。

「え? 魔女でも番ってあるんですか?!」

「ま、コンビとかペアとか言うことの方が多いけどね。得意分野が近いからだとか、役割分担に適しているからだとか、目的に応じて結構交代するから、番っていうほどの絆を作るケースは珍しいけど……ただ目標達成までは、二人以上で組むことも珍しくないわね。もう十年以上解消していない五人組もいたりするわよ」

「そりゃ、またすごい……」

「ちなみに、君たちのアクセサリーを作りに来る、『工芸の魔女』グループのメンバーよ。『工芸の魔女』っていうのは、正確に言うと、ハンドクラフト全般に関わる『魔女』のグループの長の『称号』なの。で、君たちのペンダントやらを作るのは、マジもんの『工芸の魔女』つまりハンドクラフト集団の長、ではなくて、工芸系の中でも彫金を得意にしてる魔女ね」

「ほえー……まぁ、工芸って一口に言っても、ジャンルはすごい幅広いですもんねぇ」

 紡いで、染めて、織って、仕立てて……布系に限ってもこの多様さ。漆器などの完成までの道のりを鑑みても、いわゆる伝統工芸というやつは、一つ一つの工程にすら熟練の業が必要となる。「工芸の魔女」で一括りとは、なかなか達人がいるのだな、と思ったが、やはり実態は分業制だったのか。

 ふむふむ、と納得するマイに、だが師匠からは変な付け足しが飛んでくる。

「なお、私の第四師匠の姉弟子です」

「……第四師匠?」

「第一師匠が『詩歌』、第二師匠が『幾何』、第三師匠が『数理』、第四師匠が『工芸』、第五師匠が『弁論』、第六師匠が『本草』、第七師匠が『医療』、第八師匠が『音楽』……で、第九師匠があそこの人です。まぁ、九人目は魔女というか、魔術師、だけどね」

「先生がマルチな理由が、すごくよく分かりました」

 どれだけの分野に手を広げているのやら。各師匠ごとの兄弟姉妹弟子からも、まず間違いなく色々吸収しているのだろう。

「単純に、師事した師匠の称号数で言うなら、私が『詩歌の魔女』門下ではトップだね」

「あれ? 例のエリカさんは?」

「エリカ姉さんは『工芸』に凝ってるから。あと、幾何と数理は師匠が要らない。本草はやったけど、医療は正式な師事はしないままだったし。あと、音楽はそのままで天才」

「あー、なるほど」

 本気で桁違いらしい。うん、これは、たしかに。

「……ちょっとやそっとの修行の差では、意味ないですね」

 猛スピードで「追いかけてきた」妹弟子が、己を素通りしてどんどん次の分野に進む。

 兄弟子アンリの心境や、いかに。

「私も『超人』のあだ名をもらってるけど、エリカ姉さんは人間やめてるというか、もはやそもそも人間なのかを疑いたくなるレベルだからねぇ」

 ものすごい評である。

「でもまぁ、だからこそものすごい孤独でしょうねぇ。猫と隠居もするわ」

 首を傾げたマイに、アヤ先生は柔らかく微笑んだ。

「十九になる年に連れてってあげる。ま、ようするに卒業後、ね……山の中に『魔女』の里があるのよ。そこの外れに、エリカ姉さんは暮らしてるわ。『工芸』の魔女チームの本拠地でね。そりゃあもう、職人技が好きな人間にはたまらない、ハンドクラフトの里よ」

「……いいですね」

 適合水晶探しの間、美術や何やの課題を散々出されたが、マイはどうやら、自分が手を動かす作業が好きらしい、ということに気づいていた。思い返せば、中学の修学旅行で京都に行った時、西陣の着物やら何やらの伝統工芸品を見ては、ぽけーとしていた記憶もある。



 この「塾」の面の顔である喫茶店は、個性豊かな個室や半個室が特徴だが、それらは「工芸の魔女」たちの、いわば中世欧州の組合ギルドで言うところの、親方マイスター認定試験の作品でもあるのだそうだ。どうりで、やたら内装に凝れるわけである。むしろ凝るわけだ。それに試験で造っているのだから、材料や諸経費の大部分は削減できる。なんということでしょう。

「ちなみに、私の認定試験の産物が、この教室です」

 ぽん、と机を叩き、アヤ先生はそんなことをのたまう。

 どうやら『超人』先生は、「工芸の魔女」集団でも、親方クラスの実力があるようだ。

「対少人数教育というテーマで設計しました。文理の垣根を超えた実践的な学びの場となるように、そして同時に教授の場にもなるように、というコンセプトで造ってあります」

 なるほど、それで黒板と実験設備まで整えてあるのか。天井の蛍光灯を覆うガラスのエッチングが、先生作であるというのも、なるほど、「工芸の魔女」の試験というのなら納得だ。

 うん、本当に、こんなのが妹弟子というか後輩。ハハハ教えてあげるねとか、そんなつもりだったとしたら、そりゃもう、グレたくもなるだろう。

「あの、ちなみに、椅子とか机とかは?」

「自作ですよ。工芸だもの」

 衝撃の事実が、今、明かされた。というか、「だもの」って何だ。

「……アンティークだと思ってたのに!」

「貴重な骨董品の上で、塩酸使った実験なんか、させるわけないでしょう」

「っていうか、なんでそんなに何でも出来るんですか?」

「全部出来るようになりたいので、全部全力で頑張っただけです。私に才能があるとしたら、それは努力し続けるという才能です。後は、絶対に諦めないという悪あがき根性」

「なるほど……」

 超人だ。人間だけども、超人だ。

「ところで、モモは……」

 我に返り、友情パワーで必死に防御の術を、初挑戦で成功させてくれた親友を見る。

 リョウ先生が、何やらまだ話しかけているようだったが、ほどなく、モモは自らを確かめるかのように、ぱちぱちと瞬きをした。

「うぁー、なんか、ヘンな感じだぁ」

 無事にこの世に精神が戻ってきた親友の、開口一番は、なんとも間抜けだった。

「初挑戦にして初成功、おめでとう」

 アヤ先生の言葉に、モモはまだ不思議そうな顔で、手を握ったり開いたりしている。

「センセ……私、ちゃんとできたんですか?」

「できたって! すっごかったよ!」

 マイが答える。そりゃあ、できてなかったら、こっちが危なかったのだ。

「うーん」

 が、モモの反応はイマイチ薄い。

 リョウ先生の「引き戻し」が足りていないのだろうか、と思ったが、単にモモ自身、初めての体験に、戸惑って考え込んでいるという感じのようだ。

「じっとローズクォーツの『声』を聴いて……そしたらなんか、正方形の十字架? みたいな形がパッとイメージに出てきて……守らなきゃ、って思うと、自然となんだか、次々動けて……これが『世界のチカラを借りる』ってことなんですかね?」

「それに近いわね」

 アヤ先生の答えは、なんともはっきりしないものだった。

「近い?」

 マイの問いに、モモも答えを求めるよう、小さく首を傾げる。

「正確に言うと『水晶の魔女』の魔法と、魔術とを融合させたものなの。魔術の基本は催眠術。つまりはイメージを使った精神戦。私の『ナイフ』のイメージを、あなたの『盾』のイメージが防御した。今回の術においては、ローズクォーツは魔術の補助の役割を果たしたわけ。あなたの『守りたい』という意志に共鳴して、石がチカラを繋いでくれた……」

 これが、と、アヤ先生は、1年生の二人を見つめて、告げた。

「私たちが進んでいく、新しい『魔法の道』……略して『魔道』よ」

 その言葉に、ごくり、と思わず二人は唾を飲み込んだ。



「ねー。『魔道』って、なんか外道みたいな響きだよねー」

 固まった空気を叩き壊すというか、むしろ一瞬にして溶解させた、2年生弟子アキの言葉に、オイコラ、と呟きつつ、アヤ先生は眉根を寄せた。

「たしかに、正統派の魔女の道からは外れてるけどね。このまま魔女と魔術師の世界が分離していくのを防ぐ、再融合活動の成果の一つでもあるんだからね!」

 なるほど、いかにも魔術師の夫を持つ魔女らしい言い分だ。

 しかも、ほんの何ヶ月か修行ともつかない練習をしただけで、これだけの成果。

 いや、防御の後「戻ってくる」ために、引き戻し役が要るという時点では、まだまだ全然、実戦の領域には到達していないのだろうけれども。

「つまり、私はさっき、魔法と魔術の同時行使、に成功したってことですか?」

 モモの問いに、そのとおり! と先生方およびアキが頷く。

「おめでとう! いよいよ本格的な実戦訓練の第一歩を歩んだってわけよ!」

 アキが後輩を素直に祝福する。

「そんじゃ、お祝いついでに、先輩の貫禄を一つ見せてあげなさい」

 アヤ先生の言葉に、ラジャ、と敬礼めいた仕草をして、アキは杖を取った。

「私の適合水晶シトリンは、鉄イオンを含んでいるわ。そこから連想を広げることで、使える魔術の幅を広げるの。で、シトリンを通して世界と繋がって、大地の磁力を借りる」

 リョウ先生が、砂鉄と思しき黒い砂が入った、透明なキューブを取り出してきて、アキの目の前に置く。ついでに、賢治の「春と修羅」の「序」のプリントを裏返し、白地と黒砂とを対比させて、現象を見えやすくしてくれる。実に親切である。

「ではでは、参ります」

 そう軽い調子で言った、その次の瞬間には、アキの目が集中モードに切り替わる。

 最初のうちは、何も変化がないように見えたが、やがて、す、すす、と砂鉄が動き始める。

 呪文なのか何なのかは分からないが、アキは口の中で何かブツブツ呟いている。

「わっ!」

 モモ、マイ、どちらともなく声を上げた。

 キューブの中の砂鉄が、ふわりと宙に浮いたかと思うと、うねるように、おどるように、跳ねはじめたのだ。くるくるくると、小さな竜巻を形作る。

Das(ダス) Ende(エンデ)!」

 リョウ先生が、パァン、と手を叩くと、アキの目が集中モードから通常モードに戻り、キューブの中の竜巻も、まるでさっきまでの激しい動きが嘘だったかのように、ただの砂になって落ちる。

 どうやら、アキはこのぐらいの「不思議」だったら、そう難しい手順を踏まなくても、こっちに「戻って」来られる程度に、使いこなせているようだ。

 そう考えると、自分たちが感度を落として逃げた「サーカス」が、どれほどの威力をもっていたのか、改めて感じずにはいられない。

「どうかな?」

「すごいです、先輩!」

 モモが素直に驚嘆と賞賛の声を上げる。

 その一方で、マイはちょっと複雑な気持ちでもあった。

(アヤ先生は、モモがディフェンスに集中したら、私がオフェンスになれって言ったけど……私、別に要らなくない? っていうか、アキさんの方がすごいよね?)

 モモは今日、集中しすぎて回復に時間が掛かったとはいえ、ナイフが曲がるぐらいの防御魔法(仮)を発動してみせたし、アキは砂鉄を操った。二人ともまだ出会っていない「番の石」に、マイはすでに出会っている。なのに、まだ何も「不思議」が出来ない。

「先生……私の適性魔法って、何ですか?」



 マイの問いに、モモが振り返って、ぎょっとしたような顔になった。

 自分で思うよりも深刻そうな顔になっていたのだろう、と、マイは思った。

「そいつがね、いっとう難しい」

 アヤ先生は本棚から、独和辞典を取り出した。

「マイ、君はね、なろうと思えば何にでもなれる……君の適性は、水晶のとおりだ」

 ページを繰りながら、しかし手で覚えているのか、アヤ先生はマイの目を見たまま言う。

幽霊ファントム水晶クォーツ……?」

「英語では、"phantom"じゃなくて、"ghost"ともいう」

「それが何か?」

「いや、実はそここそが肝心なんだ」

 そう言うと、さすがに細部までは感覚では無理なのか、ページを確認する。

「英語とドイツ語は、同じゲルマン系言語だ。もっとも英語は、11世紀の『ノルマン・コンクェスト』の時期に、大量にラテン系のフランス語が流入したから、英語とドイツ語の差は、イタリア語とスペイン語の差よりも大きいけどね」

 英語で三音節以上の単語があったら、基本的にフランス語由来だと思って良いほどである。むろん、日本語由来の「キモノ」とか「ミカド」とか、例外もたんまりとあるが。

「が、短い単語は、かなりドイツ語との共通点が多い。たとえば英語の『金』」

「gold」

 マイの即答に、これまた即答するように、リョウ先生がチョークを黒板に走らせる。

 "Geld"

「ドイツ語の『金』だ。読み方は『ゲルト』なんだけど、最後の"d"が"t"発音になるから、無声子音で聞き取りにくい。普通に聞き流してたら『ゲル』としか聞こえないね」

 リョウ先生の解説に、アヤ先生がページを繰りつつ、合いの手を入れる。

「ちなみに、ドイツ語をやっていることが格好良いと思われていた戦前の日本で、エリート意識たっぷりだった旧制高校生たちは、お金の貸し借りをする時にも『ちょっとゲル貸せ』などのように、こう『自分たちだけが分かるカッコイイ暗号』的に使っていた」

「うわぁ」

 なんという黒歴史。彼らは後々、恥ずかしさにのたうったのだろうか。

 リョウ先生も、戦前の日本のエリートの黒歴史を、遠慮なく暴いてくれる。

「あと、有名どころでは『シャン』か? ドイツ語の『schön(シェーン)』、形容詞の『美しい』が由来で、美人のことだ。そういや、学校の机にドイツ語で『なんて私は頭が良いんだろう!』って、ナイフで彫ってたヤツとかもいたっけ……」

「痛すぎる!」

 きっと後々、若気の至りの恥ずかしさに悶絶したに違いない。

「でも、そんな思春期中二病みたいなドイツ語使用と、私の水晶がどう関係……」

 マイの声は、眼前に示された辞書の、赤インクで強調された大きな単語に、止まる。

「"Geist(ガイスト)"……ドイツ語で"ghost"に対応する語よ。ただ、英語の"ghost"とは違って、この"Geist"の第一の意味は『幽霊』じゃあ、ない」

 こくん、とマイは頷いた。

 赤鉛筆で下線が引かれているが、そもそも、意味自体が太字のゴシック体の印字だ。

「『精神』」

 ええ、とアヤ先生は頷いた。

「マイ……いいえ、『上代かみしろ麻衣まい』……あなたの適性は『くう』よ。全てを受け入れることも出来る。全てを拒絶することも出来る。最も制御が難しく、けれど、最ものびしろが見込まれる適性。あなたは最優の魔女になれる可能性と、最悪の魔術師になれる可能性とを持ってる」

 その言葉に、しん、と沈黙が教室に下りる。

「多少は危ないかと思ったのだけれどね。でも、モモがいるから、呼ぶことにしたの」

 そう言うと、アヤ先生は白いチョークを持ち、大きな文字で、黒板に書いた。


 上代 麻衣

 かみしろ まい



「『上代カミシロ』は『神代カミシロ』に通じる……」

 黄色のチョークがよどみなく動いて、神代の文字を、かみしろ、の下に書き足す。

「『カミ』とは、これはすなわち、人間という存在を超えた存在、もっと言えば、人間のあがき程度でどうにかできるものではない『おおきな存在』、を示すわ」

 白チョークに持ち替えて、その説明を板書する。

「そして『代』は『ヨリシロ』などの語からわかるように、『かわり』を意味する」

 そう言われて、モモが声をあげた。

「えっと、それってつまり、マイが神様のかわりになる、みたいな意味、ですか?」

 とんでもない形容が飛び出して、マイはどきっとした。

 うーん、と、アヤ先生は首をひねる。

「『神様』の定義にもよる。キリスト教やイスラームの唯一神みたいな『神様』は、無理だ。けど、神道や民間伝承に出てくる、多神教の『神様』や『不思議な存在』なら、私たち『水晶の魔女』の言う『世界』のチカラの『あらわれかた』の一つ、とも取れるからね。そう認識するのなら、そういった存在を、マイに『おろす』ことは、不可能ではない……まぁ、可能性はゼロではない、と言った方がいいぐらいだけれど、ね」

 途方もない話に、二人は呆然とするばかりだ。アキはノートを取っているが。

「さらに、名前の方にも、その素質が読める」

 アヤ先生は、麻衣、の「衣」の方を、手で示した。

「わかりやすく、端的に言うなら、マイは『巫女』とか『シャーマン』の素質が強い。彼らは自分自身に対して、超常的存在を『おろす』人間だ。だが、その『憑依』は一時的なモノで、必要とされる時でない時になれば、一般人と同じただの人間になる」

 そう、と、アヤ先生は一息おく。

「『衣』とは『まとわれるもの』であって、まとう本人自身ではない。シャーマンってのは、たとえるなら、必要に応じて『神様』を着ることができる存在、とも言える。アニミズムやシャーマニズムにおける基本だね。つまり、マイには『神様をおろす』ことが出来る可能性がある」

 それから、と言って、アヤ先生は最後の文字を指した。

「その素質を固定する鍵になるのが、この『麻』だ」

 リョウ先生は平然としていたが、生徒三人は一様に不審そうな顔をした。

「『麻』がなんで、巫女の素質の鍵になるんです?」

 さすがに自分の名前の話なので、マイが問う。自分で言うのもなんだが、「真」とかの方がよほどパワーがありそうな気がする。それか「魔」とか。こっちはつけられたくないが。

 アヤ先生は、黒板に「大麻」と物騒な単語を書きながら、言った。

「キーとして最大限に活用できるのは、日本のヤマト文化圏内。あとは、中華文明に関する地域に限られるが」

 マイは目を見開く。似たような事を、先生は今日、モモにも言っている。

「『麻』は、最も古い時代から用いられていた繊維だ。その利用は古く、縄文時代にはすでに利用されていた。ま、それはからむしとか苧麻ちょまあるいは『まお』とも呼ばれるもので、イラクサ科の多年草だ。アサ科の一年草の別名は、こっちだな」

 そう言いながら、アヤ先生は、例の物騒な単語をバンと示した。



大麻たいまって……それアカンやつですやん……」

 おもわず関西弁が出る。

 そんなマイに対し、「読みが違ーう」と、アヤ先生から妙な指摘が飛んだ。

「え? たいま、以外の読み?」

 マイは振り返るが、モモは思いつかないようだ。アキはニヤッと笑うだけである。

 アヤ先生から、正解が告げられる。

「『おおぬさ』だ。大きな串につけた『ぬさ』を指す。『ぬさ』とは、そもそも神道の神事で、神に祈る時に供えたり、あるいははらえにも使う重要なモノだ。『みてぐら』もしくは『にぎて』と呼ばれることもある。『古事記』にも出てくる、由緒あるおそなえだ」

 またここで、マイとモモの共通点が浮かんできた。『古事記』。

「また『たいま』と読む場合でも、本来の意味は、マリファナとか、そういう薬物系の意味じゃあ、ないんだよ。もともと日本で『大麻たいま』と言えば、伊勢神宮をはじめとする諸社から授けられる、厄除けや何やのお札を指したんだ。また、古来よりの伝統行事であるから、この『たいま』あるいは『おおあさ』から作られる糸は、神宮では神事用の装束を織るために、今でも用いられている。そのために、特別に栽培が許可されているんだよ」

 へへえ、が止まらない。

 アキのノートを取る手も止まらない。

「ってことは、伊勢神宮に忍び込んだら、合法的に栽培された大麻が手に入る?」

 マイの思いつきに、コラそこ! と先生のいかにも先生なお叱りが入る。

「目的外使用は禁止! 不法所持で刑法犯じゃ!」

「ですよねー」

「あと、言っておくが、厳密には『伊勢神宮』という単体の神社は存在しない」

 アヤ先生の言葉に、マイも、モモも、ついでにアキも、固まった。

「……は?」

「一般に『伊勢神宮』と呼ばれているのは、内宮ないくうとも呼ばれる皇大神宮と、外宮げくうとも呼ばれる豊受とようけ大神宮とを合わせた総称だ。正式には単に『神宮』という。んで、厳密にいえば『伊勢神宮』というのは、内宮と外宮とに関わる近隣の、総数千とも言われる全ての神社のことをまとめた呼称だ……って、脱線したわね」

 うっかり授業モードに入っていたのか、ぽりぽりとアヤ先生は頭をかく。

「要するに、日本では神様と……それも神話で最高神と位置づけられる、太陽神・天照大神をまつる神宮での神事に用いられるほど、麻と『神様』とは近い存在なの」

「じゃ、なぜ『中華文明』が関わってくるんです?」

 モモの問いに、無駄に流麗な発音で「Good question!」と返す先生。

「そっちは別方面からのアプローチでね。『麻』には『みことのり』、つまり中国で言えば皇帝からの直々の命令、という意味もあるんだ。中国の中華思想と易姓革命思想を、きわめて単純に説明すると、皇帝というのは『天』の意を受けて、民衆を教え導く特別に選ばれた存在、だ。まぁ、日本の天皇家と違って、中国の王朝は替えが利くんだけどね。ただ、要するにこれも、『超常的存在』とリンクした存在を示すわけ。つまり……」

 固唾を呑んで、マイ、そしておそらく残る二人も、先生の言葉を待つ。

「究極的に言えば、マイは『神をまとってことばを発する』ことができる」

 アヤ先生のその言葉には、しかし無情な続きがあった。

「……という可能性が、皆無と言い切れない、程度の素養がある」

 ガクッ、とうなだれたのは、マイだけではなく、モモもだった。おお親友よ。



「私だけ、もんのすごいハードル高くないですか?」

 マイの言葉に、そーぉ? とアヤ先生は返す。

「究極目標をそれに設定するなら、そりゃあハードね。だって、それって未来を言い当てる『予言者』じゃなくて、神の言葉を預かる『預言者』になる、ってことだし」

「ですよねー」

 出来る気がしなさすぎる。

 自分が預言者とか、電波過ぎる。アレだ。イタい。耐えられない。黒歴史確定だ。

 だが、アヤ先生の言葉は、意外な方向へと続いた。

「ただ、精神系魔法の素質は、慎重に育てないと、簡単に『向こう』側に堕ちるのも事実なのよ。『世界』のチカラを借りるより、人間を操る方が、よほど楽で簡単だからね」

 何か、イヤな予感がする。

「……つまり、私は『魔術師』の素質の方が?」

「高い。ぶっちゃけよう、マイ。君は『黒魔術師』の適性が、限りなく高い」

 世界史の資料集、第二次世界大戦の惨禍が、次々と脳裏をよぎる。

 いやだ。あんなことはしたくない。

「が、君にはモモがいる。大麻ならぬ退魔のチカラに優れた、親友がいる」

「……掛詞ですか?」

「まぁ、そうとっても良い。その方が、二人のリンクは強くなるだろうしね……私が二人を選んだのは、つまり、そういうわけ」

 アヤ先生は、そう言うと、ニカッと笑った。

「二人とも、日本とその近辺が本領発揮のタイプ。しかも、連携の基礎となる共有知識は『古事記』で、海外の人間にはなじみが薄い。現代風に言うなら余所者のハッキングが難しいのね。そして、一方は『善悪関係なく大いなるチカラを引き寄せる』素養を持ち、もう一方は『悪しき存在を祓う』素養を持っている。うまくかみ合えば、強烈なチカラになる」

 先生のその言葉に、けれど、素直に喜べない自分に、マイは気がつく。

「……なんだか、恐いです」

「良いことだ。ここで『恐い』って思わない人間の方が、私は恐い」

 柔らかな笑顔で、アヤ先生はそう返す。

 少し、落ち着けたような気がした。

「リョウ、紅茶淹れてきて。茶葉はあなたに任せるわ」

「あいよ」

 アヤ先生の言葉に頷いて、リョウ先生が部屋を出ていく。

「『幽霊ゴースト水晶クォーツ』は、自身が見せたいと望むモノを、相手に見せることができる。ま、幻術ね。当分の間は、それで訓練しましょうか」

 ものすごいことを聞かされた割に、やることが地味な気がする。

「……成果が目に見えない」

 がくん、と机に顔をぶつけ、少しいじけた気分になる。

「という豆腐メンタルな巫女さんなので、悪いモノに取り憑かれないように、退魔の素養が強いモモの護衛は必要不可欠なわけです。しかし、モモが防衛に集中しすぎるのも危険。なので巫女さんには、友情パワーでモモを戻したり、防衛に集中し過ぎなくて良いように、相手の攻撃意識を削いだり、と、互いが互いをフォローする関係になれるわけ」

 いや、まず豆腐メンタル発言のフォローが欲しいです、とマイは内心に思った。

 そんなマイに、小さく笑んで、親友が手を差し伸べてくれる。



「なんか照れくさいけど……改めて、よろしくね……マイ」

「……ううん。こっちこそ、頼りにしちゃうよ、モモ」

 二人で笑い合って、握手をする。

 その様子を眺めながら、いいなー、とアキは呟く。

「アヤ先生、最初から、あの二人、双子弟子にするつもりだったんでしょ?」

「ええ。そうね」

「私、時々、先生が『魔女』なのか『魔術師』なのか、わかんなくなりますよ」

「ふふ……じゃあそれが、つまり『魔道士』なのかもね」

 先生の言葉に、わー、とアキは白々しい驚きの声を上げた。

「なんだか先生がいうと、『グル』なイメージの『魔導師』に聞こえますね」

「そこまで『お偉い』存在じゃあないわよ」

 軽く肩をすくめる仕草には、いたずらっ子のような雰囲気が漂う。

「先生の脳裏に思い浮かんでる人物、当てて見せましょうか?」

「いっぱいいるから、絶対当てられると思うんだけど」

 苦笑するアヤ先生に、こちらもまた微苦笑を返すアキ。

「だと思いましたよ……そうですねぇ、モーセ」

「そうね。彼なら『導き手』的な意味での『魔導師』かもね」

「『預言者』ですけどね」

「そうね。ユダヤ教とキリスト教とイスラームと、バハーイー教の預言者ね。あとはヤジディ教とかドゥルーズ教も一応入れるべき? あ、アラウィも?」

「もはやマニアック過ぎて……っていうか、バハーイー教って?」

 アヤ先生は、己の「世界史B」選択生徒に講義を始めた。

「十九世紀末期から二十世紀初頭にかけて、オスマン帝国勢力圏を中心に起きた、イスラーム復興運動の中から生まれてきた、第四の一神教。開祖バハーオッラーにちなんで『バハーイー教』。本部はイスラエルのハイファ。イスラームでは、ムハンマドの後にはもう預言者はあらわれない、とされているから、バハーオッラーを預言者とみなすバハーイー教は、ほぼ全てのイスラーム諸国で異端」

 妙な表現が引っかかり、「ほぼ?」とアキは問いただす。

 そうよ、とアヤ先生は頷いた。

「たとえばトルコ。トルコ共和国は、ムスタファ・ケマル・アタテュルク以来、政教分離が国是なので、国民の99パーセントがイスラム教徒でも、バハーイー教徒だけを叩くわけにはいかないの。それを言うなら、イスタンブルに未だに『コンスタンティノープル世界総主教座』があるのも問題視しないと、不公平になるしねぇ。あと、ユダヤ教とか、アルメニア正統教会とか。トルコの宗教事情は案外と複雑なのよ」

「へへえ」

「ちなみに、今の話はテストに出ません」

「……ですよねー」

「出ないけど、君が書く分には、採点の対象になります」

「うまく料理できなかったら無意味ですよね」

 アヤ先生の「第6問」は、それはそれは難しいのである。

「挑戦することに意味がある、よ。本番以外はね。定期考査なんか肩慣らしでしょ」

「実力考査を実力で受けたりとか?」

「そ。一歩一歩努力した、その成果を見ていきなさい。ドーピングは本番直前だけで十分」

「……つまり先生も、寸前の十日はドーピングしてたわけですね」

「そりゃあ、最後の最後の本番は、総ざらえをして、気を引き締めなきゃ」

「参考にします」

 ククク、と、アキがちょっと悪戯っぽく笑った。

 コンコンコン、とノックの音が響く。ドア向こうから、リョウ先生の声がした。


「紅茶が入ったよ。ティータイムにしよう」





 壮大すぎて逆にチカラを使いづらい、巨大は小を兼ねられない、なマイ。目標次第でどうとでもできるからこそ、意志の力が重要なのです。モモは一点特化型で、制御が出来れば即戦力。実は砂鉄ぐらいなら操れたアキは、もう一段階進化できるのですが、教授陣の方針によりナイショにされてます。


 ところでこのシリーズ、戦闘シーンで古典文学の他に、近代文学の引用とかも予定しているんで、また運営さんに問い合わせしときます。

 著作権切れてるのしか使わないんですが、まるごとだからなぁ……(汗)



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