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最速の遥か  作者: 椎名理央人
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姉と妹


 さて、そろそろぼくの自己紹介をした方がいい頃合いだと思う。ぼく、常盤嵐のパーソナルインフォメーション、プロフィールについて。

 とは言え、さしあたって言うこともあまりない。どこにでもいる冴えない高校二年生で、常識外れにして規格外の機動力を有している程度。で、ここからが本題なのだが、ぼくのこの異常な健脚について研究しようと言いだした連中がいた。

 例の()(りゅう)連盟の頭脳集団――(ふゆ)(さき)研究室だ。

 ちなみに、移牒(いちょう)()が医療開発の盛んな都市として発展した背景には、この冬咲研究室の研究機関が多く置かれていると言うことが要因と言われている。

 まあ、これも女将の受け売りなのだが。

 試験に聞くところによると、二人はその研究のサンプルと言う名目で治療させてもらうために移牒市を訪れたらしい。

 察しはついていたが、どうせ女将が冬咲の連中から頼まれていたことをうまい具合に転用したと言ったところだろう。食えない人だ、さすがに。

 ぼくらは無事(?)、女将さんの営んでいる骨董屋にたどり着いた。

 《骨董 春宮》。築百年は経っていようかと思うほどの明治ロマンを感じさせる外装。今のご時世に、入り口にはすっかりお目にかかることもなくなった赤いポスト。女将の愛猫、(さめ)(とら)が出迎えてくれた。

 ニャーゴと一鳴きして、猫用の出入り口から中に入っていった。一丁前に看板猫を気取っているらしい。ほほえましい光景だ。

 「女将、連れてきたぞ。ついでに旦那も連れてきた」

 「変な言い方するな」

 ツッコミつつ、恋舞、試験、ぼく(まだ目を覚まさないので、淡雪はぼくの背中)の順で中に入る。

 すると試験は思わず、

 「う。な、なんなんですか、このよく分からない置物って言うか、アンティークって言うか……」

 顔が引きつっていた。まあ気持ちは分からなくない。ぼくも最初にここに来た時はさすがに足が竦んだものだ。今でこそ慣れてしまったが、ここは初心者には刺激的なところだと思う、本当に。

 平屋建てになっている《骨董 春宮》の中は、奥座敷を隔てた販売スペースには、ジャンルを問わない骨董品が大量に鎮座している。中には骨董品とは言えないようなものも存在しており、うかつに手出しができない。

 いや、頼まれても触りたくないが。

 ちなみにこれはほとんど女将が趣味で集めたものらしい。何年か前に、世界中を飛び回っていた時期があり、その時に収集した物品がほとんどだそうだ。あと頼まれればマニアックな品も仕入れてくれるらしい。謎の骨董屋である。

 さておき。

 「女将―、いるんですかー」

 中をぐるっと見回す。その時、一番最初に目に入ってきたのは一人の女の子だった。いや、彼女はぼくや恋舞の先輩にあたる人なので、女の子は呼ばわりは違うか。

 まあ、彼女――(あかり)間々(まま)()先輩はぼくを見ると、気さくに声をかけてくれた。

 「やあ、ご無沙汰だね嵐くん。ご機嫌いかがな?」

 「そういえば久しぶりですね、間々乃先輩」

 元気ですよ、そう返事を返す。これはもう、彼女とのやり取りではテンプレートなので、あまりその場その場の気分に合わせることもない。

 昨年までは先輩だった。つまり今年からは大学生をしているはずの彼女だが、いまだに習雲第一高校の学校指定ジャージを着ている。そのジャージにプリーツスカートと言う異色のファッション。極めつけはショートヘアを金色に染めている。ジャージに至っては袖が余ってぶかぶか。やはり天才の感性は常人には計れないものがある……。

 見た目はただの変人なのだが。まあ大学は国内でも有数の名門大学に主席合格を修めているあたりはさすがだが。

 見ると間々乃先輩は南米由来そうな仮面をしげしげと眺めていた。そんなものが置いてあることには全然驚かないが、なにがあの天才の興味を惹くのかはむしろ興味が湧くところではある。

 が、今日の要件は間々乃先輩ではない。

 ぼくは間々乃先輩に女将がどこにいるのかを尋ねる。

 「んー? いやいや、今日はどこにも行ってないよ。ちゃんといるだろ」

 「え? でもどこにもいない……うわっ⁉」

 そっと、ぼくの右肩に手が触れた。思わずびくっと、体が委縮する。急に後ろから気配もなく現れる、そんな真似するのはあの人をして他にはいない。

 そう、春宮朽葉である。

 後ろを振り返ると、鮫虎を抱えた女将が立っていた。相変わらずの季節感を感じさせるようなそうでないような和服。日本人らしい黒髪。前髪はセンターわけ。可愛らしいえくぼと言い、この人が本当に三十路とは思えない。

「ふふん。やっと到着かい?」

ニヤリと、小気味いい笑顔を浮かべる。その笑顔の裏にはなにがあるのか、想像もしたくない……。

 「は、初めまして春宮さん! 的波試験です」

 ギクシャクと、緊張していることがこっちまで伝わってきそうだ。

 まあ、そのうちこの人に敬意なんて必要ないとは思うようになるだろう。

 「常盤くん。今なにか失礼なこと考えてなかったかい? ん?」

 「そんなことより!」

 久々にここに来たらと思ったら、さっそく女将の十八番である読心術をくらった。まあ、原因はほとんどぼくにあるから弁解しようもない。いさぎよさがぼくの取り柄である。

 「もっとましな取り柄はないのかい……」

 呆れ顔の女将。

 ほっとけ。

 「まあ立ち話しもなんだし、奥に行こうじゃないか。いい加減常盤くんも重いだろう? その背中にのっかってる娘は」

 

 骨董屋と言っても、女将の骨董屋はいわゆる普通の平屋みたいなものだ。造りはほとんど平屋の間取りだが、この店は奥座敷と販売スペースに二分されているだけ。

 奥座敷に入ると、先に入っていた間々乃先輩がお菓子を食っていた。モグモグと。むしゃむしゃと。ちなみに彼女の頬張っているお菓子は、移牒駅西口近くの展開堂の品である。展開堂の看板――名物である日替わりチャレンジスイーツのようだ。チャレンジスイーツの特徴は、めちゃくちゃ甘いと言うこと。

 女将もお茶を運んできたついでにお菓子を口に運んでいる。円卓にぼく、恋舞、試験、女将と座る(淡雪は脇に寝かせてある)。ついでに言うと恋舞もお菓子を口に運んでいた。どうにも今回のチャレンジスイーツは和菓子ベースの練りきりのようだ。ぼくもこの店の品は嫌いではないので、一応食べてみる。

 う。こ、これは……。

 口元まで持っていくと、異常に甘い匂いが鼻につく。意を決して口の中に放り込む。

 が、しかし。

 「ぐ! が、がもはっ!」

 「ちょ、どうしたの常盤くん⁉」

 予想の遥か斜め上をいく甘さだった。思いっ切りむせ、試験に背中をさすってもらう。この展開堂の品の恐怖を知らない試験だが、女将はニヤニヤ。間々乃先輩もニタニタ。恋舞はこちらを見ようともせず、お菓子をひたすら口に運ぶ。

 こんなもの、普通の人が食べたら間違いなく糖尿病で死んでしまう……。

 そっと、試験からお菓子の器を遠ざける。まだ先のある少女にこんなR―⒙指定の劇物を食わせるわけにはいくまい。

 女将も間々乃先輩も恋舞も。やはり常識を逸脱している人間の味覚は狂っているのか……。空恐ろしい話しだ。

 「さて、メンツもそろったし始めようか」

 パンと、女将は胸の前でそろえる。

 会話が始める、誰もがそう思った時だった。始めようとした張本人である女将が、「その前に」と付け加える。

 「そろそろ起きる頃だよ、淡雪ちゃん」

 ぼそりと、誰に言うでもなく言う。

 その瞬間だった。部屋の隅に寝かせていた淡雪ちゃんの目が開く。パッチリと。気絶とは言え、事故すれすれの瞬間を味わってしまった彼女だ。少しばかり心配する。

 一瞬、「ここはどこ?」みたいな表情を浮かべていたが、試験がいることが分かるとおずおずと姉の隣に移動する。

 間々乃先輩がさりげなくお茶をすすめる。

 女将は淡雪が起きることが分かっていたのか? なんて疑問は持ってはいけない。気にしてはいけない。考えてはいけない。これが春宮朽葉を相手に、まっとうでいるための原則だ。と言うか今さら驚いていてはらちがあかない。

 試験の驚きの表情をしり目に、女将は本題に入る。

 「ご存知の通り。あなたたち姉妹は、わざわざ九州の端にあるこの街まで治療のためにやってきた。で、今回はウチが提案した話しなんだけど。淡雪ちゃん、あなたの治療は正規の治療ではない。これはOKかな?」

 的波姉妹は無言で首肯する。

 女将もそれを目で確認し、続ける。

 「まあ、これは完全に私情で身内の話しになるんだけどね。間々乃、あいつらの名刺を見せてあげなさいな」

 「はー、やれやれ。朽葉おばちゃんはこんなにかわいい姪っ子を顎で使うんだね……」

 「おばちゃんじゃないって言ってるでしょ! まだそんな年じゃないもん!」

 もんって……。三十路の発言かよ。大体姪っ子と叔母の関係なので、なんら間違いない。間々乃先輩はめんどくさそうに名刺を取り出し、円卓の上に置く。

 「これって……?」

 試験と淡雪は二人そろって三枚の名刺を眺める。そこには研究機関名と研究者の名前が書かれている。『冬咲研究室・(ふゆ)(さき)(けん)(すい)』、『冬咲研究室・音宮(おとみや)真黒(まくろ)』、『冬咲研究室・音宮(おとみや)未黒(みくろ)』と。

 「間々乃先輩ですか? こんなものもらってくるなんて」

 「いやいや、それは誤解だよ。五階で四階だよ」

 「わけがわからないんですが……」

 言い回しが謎である。天才の思考回路は理解できないな、これ。

 「そうだよ常盤くん。これは賢水くんから直々に依頼されたものさね。『へっへっへ、常盤に○○○○されたくなかったら大人しく協力しやがれ』って」

 「嘘つけ!」

 なぜそのやり取りの中でぼくが被害を受けるんだ。第三者なのは明らかだろ! ていうか冬咲賢水の喋り方は絶対違う。会ったことないけど。

 「まあとにかく」

 コホンと、一つ咳払いして女将は話しを戻す。

 「二人は研究のサンプリングの一環で治療を受けることになる。今ならまだ考え直せるけど――どうだい?」

 「大丈夫です。今さら考え直すことはありません」

 と、試験はきっぱりと言った。淡雪はその隣で無言を貫いていただけだったが。姉は――試験は確固たる意志をもってそう言い放った。

 「相当追い込まれてるようだねえ」

 女将は意味深なセリフを吐く。その内容をぼくや恋舞、間々乃先輩が理解しろと言うのはさすがに無理があるが。

 女将はそれが確認したかっただけのようで、ふうと息を吐く。すると今度はぼくと恋舞に話題をふってきた。

 「じゃああんたたちもがんばってきなよ」

 「ん? 私たちもですか?」

 尚も菓子を租借しつつ、恋舞が珍しく反応を見せた。

ていうかこいつ、まだ食ってたのかよ……。

 しかし恋舞のリアクションはもっともで、ぼくも思わず女将に質問を投げかける。ところが女将は「おいおい、今さらかい」みたいな表情を見せ、面倒そうに質問に答える。本当に用件が済んだ後なので、女将のリアクションもいちいち投げやりだ。

 「まさか最初からこの二人のためだけにこんな話しを持ちかけたとか思っていたのかいうね。やれやれ、常盤くんも察しが悪いねえ」

 「この際、ぼくの察しが悪いことは素直に認めますけども……。ぼくらはなにをすればいいんですか?」

 まあ、この人がただで良い行いをするなんて考えられない。

 ともすれば今度は我が身を案じなければいけないとなる。恋舞なんかは女将に対する信頼はあるだろうが、ぼくとしてはそうもいかない。

 女将との――春宮朽葉との関係は一様に言い表せるものではないのだから。

 「なーに、ちょこっと体を売ってくればいいだけさ」

 「それは見過ごせねえ!」

 信頼関係は破綻していた……。一層この人に対する評価が怪しくなる。本当に大丈夫なのだろうか。

 「まあ半分くらいは冗談だとしても」

 「半分は冗談なんですか……」

 「そうともさ。大体この言葉は額面通りに受け取ってくれて結構。なにせ戦も常盤くんもサンプリングと言う点では同じことだからね」

 サンプリング。

データ収集。

実験レポート。

 「内容は音宮姉妹が説明してくれると思うからさ。じゃ、よろしくお二人さん」

 ぐっと、女将は親指を突き出す。どうやらがんばれと激励してくれたらしい。安い激励もあったものだ。

 恋舞はもう興味がなくなったようで、ツインテールで鮫虎をじゃらしていた。よほど興味がなかったと見える。よくよく見れば本人は寝ており、鮫虎は一匹遊んでいただけのようだ。

 不安材料はたくさんあるが、よもやここまで言われて無理とは言えない雰囲気。話術が巧みな女将は、さすがにその年で一個集団を率いているだけの器ではある。間々乃先輩の叔母と言うのも頷ける。

 かくして、予期せず研究にぼくらは参加することとなった。

 渾沌と思惑の渦巻く。後に「的波事件」と呼ばれることとなる物語が。



 移牒市内西区。西区は冬咲研究室の有する研究機関が多いことで、その道では知られている。そもそも病院の絶対数が多いので、それもむべなるかなと言うものだ。

 翌日の六月十五日。今日は土曜と言うこともあり、冬咲研究室の指定した長雨(ながさめ)病院もそれなりに混んでいるとのこと(間々乃先輩情報)。病院の乱立する西区において、長雨病院は比較的新しい部類に入る。地上七階の建物は真新しさを象徴するかの如く、外壁が光を弾いている。どうも冬咲の連中がここを指定したのは、そこらへんも関係しているようだった。真新しいと言うことはその分設備も新しい。近くに研究所もあるようで、まさに用意された舞台。

 「こ、ここですか……」

 「そうですね」

 「そうだな」

 四人並んで建物を見上げる。西区はぼくと恋舞の通う習雲第一高校もある。しかし、病院の多いこの地域はあまりこないので、ぼくや恋舞も初めて訪れる場所だ。

 どころか移牒市を訪れるのが初めての的波姉妹。今まで色んな施設を回ったとも聞いたので、どんな表情をしているかと思ったが。姉・試験は驚いていた。「うわあああ⁉」みたいな。一方の妹・淡雪はさほど興味もないようだった。「病院ならどこでも一緒でしょ?」みたいな顔。

 ぼく個人、病院に対するイメージと言えばインフルエンザの予防接種に来る場所――くらいの印象しかない。よってなんとも言えないが、さすがにこれは。この規模の病院を訪れたことはない。それなりに驚いてしまった。

 ちなみに恋舞はいつもの通り本を読んでいた。タイトルは「誰でも簡単調教講座」。少し刺激的な本のタイトルだ。背筋が凍る。

 「まさか驚いてたんですか? 旦那さま」

 「旦那さま呼ばわりするな。別に驚いたと言えば驚いたよ。冬咲研究室、話しには聞いていたけど……。まさかこんな規模だとはな」

 「まだまだこんなものじゃありませんよ。こんなものじゃね。それにきっと、見えていないものはそれ以上に」

 それだけ言うと、恋舞は再び歩き読書を始める(危ないからやめろ)。

 さて、それより。 

 「二人ともさっさと受付してくればいいよ。ぼくらはここで一旦お別れだからね」

 「はい。わざわざここまで案内してくれてありがとうございます」

 ぺこりと試験は頭を下げる。

 まあ案内と言うのも、間々乃先輩の脅しがあったからなのだけど……。身内の事情は試験には言うまい。

 ぼくは曖昧に笑顔でそのお礼に答える。

 試験は杖をつく妹を引き連れ、院内に入っていった。ここからでもガラス張りの一階のエントランスの中が見え、受付をする二人の姿が見えた。

 その時。一瞬、ぼくには二人の間になんとも言えない距離が見えた。本当に微小で微細な距離間。それはぼくの中に不思議な、否。不審な違和感をもたらした。形容し難い、筆舌に尽くせぬ感覚。

 「さて、私たちも参ろうか。音宮姉妹がお待ちかねです」

 「あ、ああ」

 それが一体なんなのか――分かるはずもない。それはぼくが考えることでも気にすることでもないのだ。所詮、本人たちの問題であることに変わりはない。ぼくはお節介でも正義の味方でもないし。

 促されるまま、ぼくは恋舞に続いて音宮姉妹の待つ研究施設へと向かった。


 ポーンポーンと、景気よく階を上っていく。目的地は最上階の七階。今回の治療用に用意された病室。私は妹の手を引き、七階のフロアを歩く。

 「ここだ……」

 病室名は記載されていない。理由はいわずもがな、研究でサンプリングだからと言うこと。スーッと、スライド式のドアを開け、中に入る。

 「やっぱり病院はどこまで行っても病院だね」

 淡雪の辛辣な感が否めないセリフを聞き流し、中を同じように見回す。病室内はどこにでもあるような真っ白な内装。大きめの窓から、六月にしては珍しい陽光がさんさんと降り注いでいた。調度品はベッドと病室用のテレビの置かれている棚があるのみ。

 真っ白な内装と言うのは、やはりどこか清潔さを意識したところがる。が、一方で白さと言うのは無機質でタンパク。言いようによっては素っ気なく、物寂しい。

 病室着に着替えた淡雪は、ベッドに腰掛けるとふうとため息を吐く。いつの頃からか、彼女は病室着でいることの方が多くなってしまった。原因は――それこそ言うまでもない。ただの後悔とやるせなさだけが残っていると言うだけのこと。今回とて、うまくいく保証はどこにもないのだし。

 その時だった。間髪なく、病室のスライド式ドアが開く。

 まさしく音もなく。

 「やあ」「初めまして」「お二人さん」「音宮です」

 と、シンクロするように彼女たちは名乗った。白衣をまとい、研究者然とした姿で。

 音宮。と言うことは、間違いなくこの二人は今回の治療を請け負ってくれた研究者。名前からして大体想像はついていたが、音宮姉妹は双子のようだった。背丈も見た目もほとんど違いはなく、髪型も短めのショートポニーテール。見分けがつくと言えば、せいぜい色違いの眼鏡くらいのものか。ワインレッドとシルバーの眼鏡である。

 まあ胸元のネームタグで見分けはつくんだけど。

 「私は音宮真黒」「私は音宮未黒」「今回は」「貴重な」「実験体に」「名乗りを上げてくれて」「どうも」「ありがとう」

 一糸乱れぬテンポで、真黒博士と未黒博士は言う。その言葉に、私は不思議と感謝されていると言う感覚を感じられなかった。無機質、その一言に尽きるように。

 だが、次に口を出た言葉は無機質どころか、無慈悲なものだった。

 「でも」「期待は」「しないで」「ほしい」

 「え……」

 「私たちの」「技術を」「持ってもしても」「今のところ」「全快の」「見込みは」「三十パーセント」「程度しかない」

 そ、そんな……。

 あまりにも無慈悲と言う他なかった。せっかく、一縷の望みを託してこの街にやってきたと言うのに。聞かされたのは――今まで幾度となく聞かされてきたものだった。あまりにも、やるせない。

 「そうですか。要件はそれだけですか? もうないのなら」

 出て行ってください。

 私が取り乱す中、淡雪はあっさりと音宮姉妹を追い出してしまった。

 真黒博士も未黒博士も、その淡雪の態度にはなにも言わなかった。ただ、出て行く際に「努力はします」と、二人同時に言い残して行ったが。

 淡雪はベッドに腰掛け、宙を見つめていた。

 その目は、落胆とも辟易しているともとれる表情。当事者ではない私には――想像もできない葛藤を抱えている妹。歯痒さ、それだけしかない。

 「ちょっと、出てくるね」

 別にその場の雰囲気に耐えきれなくなったとか――そういうわけではないけど。ただ、今彼女の心中を推し量ることはできない。なら、今の自分にできることと言うなら。彼女を一人にしてあげることくらいしか――ないのかもしれない。

 所詮、私は無力で、ことを傍観することしかできないのだから。

 病室を出て、廊下を歩く。誰もいないのか、廊下は恐ろしく静かで。コツコツと、廊下を歩く自分の足音だけが響く。

 これならばいっそ病室の方がまだましかな。

 この時、的波試験は思い出していた。遡ること三年前のことを。この忌まわしき病院めぐりの日々が始まった――あの日のことを。

 だが、そんなセンチメンタルな気分の中、彼は現れた。

 最速と、戦ちゃんがそう評価した男が。

 「よう、奇遇だな。試験もどこか行くのか?」


 「おもしろいもの?」

 「まあいいからいいから。こっちこっち」

 そう言われるがまま、私は常盤くんに連れられながら階を降りていく。常盤くんはわざわざ七階に来ていたのか、それを聞く暇もなく私を連れ去ってしまった。意外にもかれは強引な性格も持っているらしい。うむを言わせず、そんな感じで。まさか私が傷心していると知って行動ではないだろうけど……。

 言われるがままと言うのも、いささか癪だったので、常盤くんにどこに向かっているのか聞いてみた。

 「ねえ、どこに行くつもりなの?」

 「ん? まあそれは着いてからのお楽しみだよ。試験だって、つまらないだろ。ただ病院にいるだけじゃ。淡雪も連れてきたかったけど」

 仕方ないと、常盤くんはため息とともにつぶやく。

 どうにも拉致するつもりだったのは私だけじゃないらしい。病院だと言うのに我が物がおである、この男。

 「まさかの真黒博士と未黒博士と出くわすとは思わなかったよ」

 そう言うことらしい。

 いくらなんでも、ドクターが相手では強引な真似はできないらしい。存外、TPOはわきまえているようだ。

 でも、私に気をつかってくれるんだな……。

 淡雪をいたわってくれるのは分かるけど。まさか、私にも気をつかってくれると言うのは――なんだろう。不思議な気分だ。誰しもみんな、淡雪にばかり目を向けるのに。

 しかし。今、どこにいるのだろう。すっかり七階分は降りてしまった頃合いだ。窓もないし、外の景色は皆無。どこかコンクリートの壁ばかり。

 と、その時。

 「着いた」

 足を止めた彼は、私に向かってそう告げる。

 着いた? 着いたって、ここは……。

 『地下研究室』の文字。

 正面入り口と同じ、ガラス張りの入り口を抜けて中に入る。

 中は、まさしく研究施設と言った風で、色々な研究機材が置かれている。私には理解もできないようなものばかり。規則的に点滅している装置や、画面に波形を映し出しているデバイス。ベッドや、試験管。フラスコやチューブ。フラスコの中ではポコポコと泡が湧いている。

 えっと……ここ、私入っちゃっていいのかな。

 見れば常盤君、さっさとある場所に向かっていた。

 ある場所。そこは部屋と言うよりは、ガラス張りの空間と言うべきか。中は、どうやら地下駐車場のように見える。車こそ停まっていないが、白のラインがまさしく駐車スペース。規則的に並ぶ柱。

 ここは――一体。

 すると常盤くんが。

 「ほら、中にアイツがいる」

 「アイツって、誰?」

 「恋舞戦だよ」

 そう言って、中にいる人影を指さす。おおよそ中央に佇んでいる人影。言われてみれば、その背丈やツインテールの髪型は彼女のものだ。

 恋舞戦の。

 「で、でも。ここは一体なんなの? いい加減説明してよ。わざわざ私を連れてくるほどの場所なの?」

 「ま、そう言う意味もあるんだけど。なんて言うかさ、ぼく自身としては安心してほしいって言えばいいのか。うーん、なんか違うか。いや、見れば分かるさ。この世界には――下には下がいるってことを」

 「え」

 その瞬間のこと。

 ズンと、お腹の下に響くような音が地下空間に響く。その音の正体は――

 「戦のヤツ、飛ばしてるなー」

 と、常盤くんはのんきにそんな感想を漏らしていた。

 私と言えば。

 「ちょ、ちょっと! 中で、中で!」

 「大丈夫だよ。そんなに焦らなくても。戦が――たかが銃弾ごときに遅れをとるわけないさ」

 「じゅ⁉」

 銃弾⁉


 今回、ぼくと戦に頼まれた研究の手伝い。それはぼくらの能力を数値として、データを得ると言うものだった。

 恋舞戦については、その「二面性格(ダブルパーソナル)」と言う能力を。

 常盤嵐については、その類まれなる脚力について。

 まさかそんなもので、ぼくや戦の能力の正体が分かるわけでもないのだけど。それでも、そのフェイズをクリアしたいのが――いわゆる冬咲研究室の性質とでも言えばいいのか。春宮の人間が、どうしようもなく人を信じてしまう性質があるように。

 ともかくだ。

 今日、ぼくらは的波姉妹を送り届けるともに、例の研究を手伝うこととなった。まあ、試験を連れてきたのはせっかくだと思ったから。

 ここまで驚かせるつもりはなかったんだけどね……。

 地下駐車場を再現したフィールドでは、その中心に戦が佇んでいる。否、より正確に表現すれば。

 次々と、四方八方から襲いくる銃弾の雨を竹刀で払っている。

 寸分の狂いも、取りこぼしもなく。

 「………」

 隣にいる試験は口を開け、驚愕の表情を浮かべていた。

 まあ、そうだろう、ついさっきまでは本ばかり読んでいた文学少女が、今は竹刀片手に銃弾の雨の中に鎮座している。

 今となっては慣れたものだが、これが恋舞戦。最強と言う存在のバックアップ。準最強。いずれの最強候補の一人。

 竹刀を持つことで、性格がひっくり返る。

 「二面性格(ダブルパーソナル)」と言う、並ぶものなき特性。

 「人」の力をまとめる、春宮朽葉の懐刀と最近では評されることもある彼女。そんな戦が、あらゆる知識を集める冬咲研究室が、彼女のことについて知りたがるのも仕方ないと言える。まあ、ぼくまでもその対象になっているとは思わなかったが。

 「……常盤嵐、だな」

 と、いきなり誰かが現れた。

 フィールドでは今なお戦が竹刀を振るっている。では、こいつは一体。

 そう思っていたが、一緒にいた試験は普通のリアクションを返していた。

 「あ、雪見博士ですか」

 「雪見? 誰?」

 「いや常盤くん。ネームタグ見て」

 「あ……」

 見れば当たり前のように、ラフなジーンズとTシャツの上に羽織っている白衣の胸元にネームタグがある。見落としていた……。

 「博士じゃない。おれはしがないただの研究員だ。真黒と未黒の研究マニア付き合わされてるかわいそうな研究員だ」

 「ずいぶんと卑屈な言い方ですね」

 ぼくはとりあえず当たり障りのない返事を返す。一瞬誰だか分からなかったことを悟られないように。

 「いいさ。おれは派遣みたいなもんだ」

 そう言って、雪見研究員はタバコを加えた。昨今の禁煙風潮に真っ向から挑む姿勢は称賛に値するが、あいにくぼくはタバコは苦手なのだ。あの白煙がなんとも言えないほどに嫌いなので。

 「すいません、タバコはちょっと」

 「ん? ああ、そうかそうか。韋駄天くんはまだ未成年だったな」

 「分かってもらえましたか」

 いや、韋駄天くんはないだろ。無言でツッコむ。

 ともかく、そう言って雪見研究員はなにかを取り出す。

 「これなら文句ないだろ。ほら、君もどうだ。韋駄天くん」

 「………」

 ペロペロキャンデー……。

 しかもピンクとホワイトのラインがサイケデリックなやつ。

 ぼくはそっと雪見研究員に返す。

 「ん? なんだ、飴嫌いなのか」

 「いえ……別に。その、もう戦のヤツも終わったみたいなんで」

 別にこの齢になってそんなサイケな飴を食べたいわけじゃなくて、戦のほうのデータ収集が終わったから。ガチャリと、シルバーの扉から竹刀を右肩に携えた戦の姿が出てくる。その姿に、傷跡の類は皆無。相も変わらず無茶苦茶な対裁きである。

 「ふむ、どうにも君は並外れているようだ」

 「当たり前だ。アタシを誰だと思ってやがる。最強――恋舞戦だぞ」

 お世辞とも称賛ともとれない雪見研究員のセリフをよそに、戦はぼくに近寄ると。

 「さあ、アタシの番はお終いだ。次はお前の番だぞ、旦那さまよ」

 「……上等だ。そこで茶でも飲んでろ」

 と、ぼくらのやり取りもそこそこに。

 「あ、あの……」

 「ん? なんだ、試験」

 「なんか、その。戦ちゃん?」

 ああ。そうか、そうだった。すっかり忘れていた。

 戦の性質について説明が不十分だった。雪見研究員はあまり興味のなさそうな顔だが、試験はどうにも気になるようなので、ぼくは説明を試みる。

 「まあなんて言うかさ。コイツは」

 「コイツではない。お前の嫁だ」

 出せる限りの最速で戦の口をふさぐ。もごもごしているが、なにも聞こえないなー。

 「コホン、じゃあ続きを」

 「う、うん」

 恋舞戦。準最強の誉れ高き最強に準じる存在。現在の最強は、意外にもあの間々乃先輩のお兄さんだが、次期最強候補としては一番の有力株と言える。

 が、その最強性については完全であるとは言えない。

 と言うのも、彼女の最強状態は常に完全ではないから――それが理由だ。ぼくが彼女と知り合った時も、彼女は最強の状態ではなかった。その原因と言えば、やはり彼女が時期最強に一番近いと言われることにも言えるように、彼女は強すぎるのだ。

 もちろん、それが通常の生活に。通常の世界に適合しているかと言われれば、それは素直に肯定することはできないだろう。

 リミッター。

 制限。

 限度。

 制約。

 彼女はその強すぎる性格を押さえていた。封じ込めていたとも言える。彼女自身の性格を封じることで、周囲との不協和を免れていた。

 性格を二分することで。

 「二面性格(ダブルパーソナル)

 物静かな、文学少女と。

 荒れ狂う嵐のような彼女と。

 「まあ、そんな感じだよ」

 「なんだか……私には及びもつかないような世界ですね」

 「確かにそうかもしれん。だが、アタシはそれを普通じゃないなんて思うことはないさ」

 戦は言う。

 誇らしげに、威風堂々とかっこよく。

 「自分であることが、普通じゃないなんてあるものか」


 「じゃあ始めるぞ」

 「はい、お願いします」

 ガチリと、入り口のドアがロックされる音が聞こえる。これでもう外に出ることはできなくなった。まあ、それでも上等だが。ここまできて――戦にかっこ悪いとこを見せることはできないからな。

 「ショウジュンヲセット。ヒケンタイノオンドカンチシュウリョウ」

 合成音声と雪見研究員の声がざわざわと聞こえる。

 スタンバイはできている。いつでもこい!

 と、、丁度気合いを入れた時だった。

 シュンと、空気を切り裂く音と共に頬が焼ける。

 「アッチい!」

 だが、もう遅い。ガキンと、オートメーションでハンマーを上げる音。そして間髪入れずに次々と銃弾が飛来する。雨のように、疾風怒涛で。次々とコンクリートの柱や、コンクリ製の駐車場に穴が開いていく。ブスブスと、硝煙が上がり、焦げ臭い匂いが地下駐車場もどきに広がっていく。さながら戦場映画のようだった。

 臨場感あるー……じゃなくて。

 「これ、ぼくじゃなくてもよかったんじゃないですか、雪見研究員」

 「そうか? いくら、快速にして神速。韋駄天くんでも避けられないか?」

 「まさか」

 そう言って、ぼくはモニター越しのマイクから聞こえる雪見研究員に返事を返す。きっと一緒にいる戦あたりは笑っていることだろう。まあ、試験はハラハラしているかもしれないが。

 「上等だぜ」

 と、かっこつけて。

 次の瞬間、ぼくは残像を残して消えた。

 

 銃弾がぼくの顔の横を通り過ぎていく。弾丸に刻まれたラインや文字、それらが克明に見える。それはなにも、ぼくが超視力を有しているとか、ずば抜けた動体視力があるわけではない。

 物体は等速で動くと、そのスピード差はなくなる。

 地面に足が着地した次の瞬間には、もう床を蹴りその場所を移動している。次々と、着々に交わしていく。ぼくの体感はおおよそのところ七百メートル毎秒。弾丸は、設置されている銃火器の種類から考え、平均速度は拳銃で三九四メートル毎秒。ライフル系統で一〇二八メートル毎秒。

 ちょっとスピード上げないとな……!

 胸元に飛来した弾丸を、伏せるような体制で回避。それと同時に、思いっきり地面を蹴りつけ、さらにスピードを上げる。

 「驚いた……。まさかこれほどとは。韋駄天くん、君はあの恋舞戦をはるかに凌駕しているじゃないか」

 モニター越しの雪見研究員の声。

 はは、まさか。ぼくは、どこにでもいる――脚の速さだけが取り柄の高校生だ。

 「カウントスタート。三・二・一・〇」

 ピーと、機械的な音が地下に響く。どうやらデータ収集は終わったようだ。加速しすぎたスピードを、壁を飛び回り殺していく。

 「あわわ……」

 地下駐車場もどきの部屋を出ると、外では試験がなんとも言えない表情で出迎えてくれた。

 「なんだよ。そんな、怖い顔して」

 試験はお化けでも見たような顔をしていた。

 そんな怖い顔されたらぼくのほうがビビッてしまう……。

 「ど、どこもケガとかしてないですよね? 穴とか開いてません⁉」

 「いや、それはぼくの黒目だ」

 危うく目つぶしである。失明する。

 「で、どうだったんですか。ご期待に添えるようなデータは取れましたか?」

 つかつかと、変わらぬペースでぼくに雪見研究員は近づく。そして。

 「ふむ……」

 「え」

 ペタペタと脚を触られた。触診と言うやつか。

 ………。

 「なにも分からないな。君の脚はどうなってるんだろうな、ははは」

 「わざわざ触ってまでそんなこと言わないでくださいよ」

 変態か、この研究員。

 いい大人に脚を触られる高校生なんて嫌すぎる。ぼくにそんな趣味はない、一応言っておくが。まあ、触診くらいではぼくの脚力の説明はつかないだろうし、戦の強さの証明にもなるまい。

 あれ、そう言えば。

 「戦はどこ行ったんだ? 試験」

 「え? そう言えば……。どこにもいませんね。私は、ずっと常盤くんの実験を見てましたし」

 「珍しいな」

 どうやら戦のやつはどこぞに行ってしまったらしい。別に方向音痴とか、そう言うことはないのだが。いかんせん、今のあいつは竹刀を持っているはずなので、あまり病院内をうろつかせるわけにはいかないよなあ。

 「よし、探しにいく。病院の中で竹刀を持っているやつなんて、見ればすぐ分かる。それに、ついでだから淡雪の見舞いにでもいくよ。案内してくれ、試験」

 「あ、うん……」

 なんだか、試験はあまり乗り気でないと言うか。妙に煮え切らない返事を返すのだった。

 はて。どうしたのだろうか。

 「まあこっちのことはほとんど終わってるし、どこにでも行ってくれよ。真黒さんと未黒さんにはおれから言っておくから。あ、そうだ」

 「なんですか?」

 「飴いるか」

 無言でぼくは踵を返し、地下研究施設を出た。

 残念ながら、超スピードで動いた後で、飴を食べる気になれるほどぼくも鈍感な感性を持っていなかった。

 意外と疲れるんだよ、あの状態でいるのは。


  長雨病院一階エントランス。待合室では各々が待ち時間を過ごしている。ぼんやりとしている人。静かに本を読んでいる人。エントランスは使えるのか、ケータイをいじっている人。子供をあやしている母親。

 そんな中、ぼくと試験は並んで歩く。

 ちなみに、その提案をしてきたのは彼女でもある。的波――試験の。

 「病院って、私大嫌いなんです」

 と、唐突に彼女は言った。なんの前置きもフリもなく。

 大嫌いだと。

 ぼくはその真意を測りかねて、聞き返す。

 「嫌いって、別に試験がどこか体が悪いわけでもないんだろ? だったら――別に」

 「そうじゃないんです。そうじゃなくて――」

 罪悪感なんです。

 試験は心底苦しそうに、心の底から絞り出すように言う。

 罪悪感って……そりゃ、なんでまた彼女が罪悪感なんて。誰に、そんな罪悪感なんて抱く必要があるって。

 そこまで考え、ぼくは一つの考えが浮かぶ。試験が罪悪感を抱える相手についてだ。

 ぼくの考え、察したことを彼女は自ら先回りして言う。

 「本当は、私が病に罹るはずだったんです」

 「それって、一体?」

 それから試験の口から語られた言葉は、告白と言うよりも懺悔と言えるようなものだった。後悔の滲むその言葉に、ぼくはただただ聞くしかなかった。

 的波淡雪は、今でこそ体の自由を失い、凡人以下のスペックにダウングレードしてしまっている。が、その実は三年前はそうではなかった。

 かつて、神童とまで呼ばれたその才能を。彼女は三年前の医療事故により、その才能才覚を埋没させざるをえなくなったと言う。現在十五歳の彼女が、このひたすらに治療に専念するだけの生活をどう思っているのかなど。考えるまでも、想像するまでもない。

 苦痛。 

 それは妹だけに限らず、姉である試験もまたさいなまれていた。

 聞けば、その医療事故は起こるべくして起きたと言える。とある病気の予防接種。当時十五歳の試験と十二歳の彼女を襲った悲劇。

 「あの子は――優しかったの。周りと頭一つ飛びぬけているくせに、それを鼻にかけることもなく。誰にでも、分け隔てなく優しかった」 

 だからこそ彼女は病に倒れた。

 順番が前後だっただけの偶然で、妹は病に倒れたと言う。その注射に使われた器具が、ウイルス汚染されていたと言う。発症当初は、それこそ死の淵を歩くような状態。数か月の闘病を経て、彼女はなんとか事なきをえた。

 神童とまで言われた才能と引き換えに。

 姉である試験は、それゆえに無事だった。病に見舞われることもなく、体を壊すこともなく。

 注射を怖がる姉の代わりに、自分から先にしてほしいと。

 別に注射自体が怖かったわけじゃなく、ただ単に怖かった。人は未知のものを恐れる。

 それが悲劇。

 的波試験の抱える闇。

 

 「笑っちゃうでしょ。本当に」

 「……笑うわけ、ないだろ」

 本当に笑えない話しだった。それは確かに、後悔だ。自分自身が躊躇してしまったことで、妹が病に倒れてしまっては元も子ない。

 それと同時に分かったこともあった。

 あの時感じた不和のような違和感の正体。

 的波淡雪の本心が――そう見えたのだろう。

 姉との不仲など、これではただの兄弟喧嘩のレベルではすでにない。

 「でも、なんでそんなことをぼくに言うんだ。残念ながら、ぼくにはその話しは荷が重すぎる気がするんだけど……」

 正直、前の戦の件と比べれば全然ましではあるが。それでも、普通の――一般人の世界のことは、ぼくにはどうしようもない。自分の力でどうこうできないことは――どうにも苦手なのだ。

 「そんなことありませんよ……。それに、あなたは違う気がする。今まではいなかった。私たち姉妹に気をかけてくれる人はいたけど、それ以上にこんな話しをしてもいいって思える人は――いなかった」

 「えらく買いかぶられてるね」

 「なんて言うか、信頼感。それ以上に頼りたくなったんですよ。あの時、妹を助けてくれたように。また、助けてくれるって」

 ニコッと、微笑んだ。

 うっ……これは。不意打ちのような試験の笑顔に、思わずときめいてしまったと戦に知られたらどうなるか分からない。今度こそ五体をバラバラにされそうだ……。アイツ、かなり束縛しやがるから。

 しかし。

 どいつもこいつも、なんの根拠もなくぼくを信頼して困る。ぼくはつい最近まではただの甲斐性なしだったんだからさあ……。

 「やれやれ……」

 そう言ってぼくは肩を竦めるだけだった。

 


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