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2-6

 妹が作り上げた筋書きは、次の通りだった。




 妹の卒業式に保護者代理で出席したわたしは、思いがけず元担任であるヤギさんと再会した。実は在学中からヤギさんに仄かな想いを抱いていたわたしが、恋心を再燃させたのはその時。

 かたやヤギさんの方は、ごくごく平凡だが素行の良いわたしの事を気に入っていたが、教え子であるがゆえに恋愛対象として見ていなかった。しかし大人になったわたしの姿を見て、一目惚れならぬ二目惚れをしてしまった。学校という場所を考え、携帯電話の番号を交換をするだけに留めて、その場は別れた。

 後日ヤギさんから連絡が入り、一緒に食事をする事に。学校と教師と生徒という縛りがなくなった今、二人は互いの気持ちを確かめ合い、将来を考えるようになる。

 そんな矢先に、両親から結婚を急かされるような態度を取られ、わたしは焦った。お互いの気持ちは固まっているものの、付き合って僅か一ヶ月余りでさらには元担任教師と教え子。唯一、共通の知り合いである妹だけはわたし達の関係を知っていたのだが、両親に紹介するのは気が引けてしまう。

 うっかり妹の口から両親に、ヤギさんの存在を知られてしまった。それでもまだ両親に紹介する事を躊躇っていたのだが、連日のように両親からの尋問を受け、精神的に疲れていたわたしはとうとうヤギさんにその事を相談する。

 一人暮らしをするにも、なかなか物件は見付からない。それならばいっそ一緒に住んではどうかとヤギさんから提案されるが、わたしはすぐには頷けないと一旦は断った。

 ヤギさんがご両親に大まかな説明をしたところ、ようやく身を固める気になったのかと、諸手を挙げて歓迎されてしまった。住む部屋まで用意されてしまっては、断り切れない。どうせ近い将来そうするつもりだったのだからというヤギさんからの説得を受け入れる気になったわたしは、ヤギさんのご両親に挨拶をしに来て、すっかり気に入られてしまった。

 いつでも嫁に来てくれてかまわないからと言われ、両親に話す機会を窺いながら、今日に至る。




「よくも、まあ」

 それだけ言って、絶句する。あの妹が考えただけあって、ドラマティックに脚色された筋書きに、目眩を起こしそうだ。

 ヤギさんに許しを得てからラグの上に腰を下ろし、もう一度大きな息を吐いた。

 高校時代からわたしがヤギさんに好意を寄せていただの、ヤギさんもわたしを気に入っていただの、挙げ句の果ては二目惚れだなんて。

「少女漫画かドラマの見過ぎですよ」

 壁から離れたヤギさんが、わたしの隣に移動してきて腰を下ろした。

「少々大げさな内容の方がかえってリアルだと、溝内が言っていたな。常磐にいた頃の話は捏造だが、そういう筋書きにしておけば、誤魔化しやすいのは確かじゃないか」

 捏造。そう、事実とは大きく異なる、しょせんは作り話なのだ。

「こんなできすぎた話で、あの両親が騙されるとも思えないんですが」

 わたしが話したところで、聞く耳を持つかどうかも疑わしい。ただ今回に関しては、妹からある程度の情報が流れているため、信じやすい事は確かだろうけれど。

「嘘の中に真実を紛れ込ませておけば、信じられやすくなるだろう」

「でも、真実って言っても」

 事実だと言えるのは、高校時代の恩師だという事と、妹の卒業式で再会した事くらいだ。その他に関しては、全て妹が考えた作り話でしかない。

「実はお前が知らない事だが、さっきの話の中に本当の事がある」

「え。何ですか、それ」

 他に何があると言うのか。

「高校時代の事は、もちろん作り話だが」

 ヤギさんが、そこで一旦言葉を切る。両腕を組んで考え込むような素振りをし、低く唸った。そんなに言い辛い事なのだろうか。だが、の後の言葉を待っているわたしは、そんなヤギさんの様子を黙って眺めている。

 暫くそのままでいたヤギさんが、大きく息を吐いた。固まったまま動かなかった大きな肩が突然揺れた事に驚いて、思わずびくりと跳ね上がってしまう。

「ヤ、ヤギさん」

 恐る恐る声をかけると、たった今わたしの存在に気付いたかのように、目を瞠った。もしかしてここにいる事を忘れられていたのだろうか。

「さっきの話は、また今度。とりあえず」

 どうやら今日は、だが、の続きを聞かせては貰えないらしい。散々勿体ぶられたわたしは、やや消化不良気味だ。

「とりあえず、何ですか」

「そのヤギさんという呼び方を、何とかしろ」

 一体何を言われるのかと身構えていたわたしだが、六年前から何度となく言われ続けたその言葉に肩透かしを食らい、かくっと体が傾いた。

「いくらなんでも、ヤギさんはないだろう」

 何をそれほど拘るのかと思えば、なるほど。言われてみれば、彼氏に対する呼称としては確かにおかしいかもしれない。高校時代に学校での出来事や連絡事項などを話していた時には、母に

「先生の事を、そんな風に呼ぶものじゃありません」

と窘められて以来、家ではちゃんと矢木沢先生と言うようにしていたのだが。

「矢木沢先生、でいいんですか」

「お前ね」

 明らかに呆れを含んだ溜息を一つ吐き、ヤギさんがわたしの方に身を乗り出してきた。

「仮にも結婚を考えている相手だろう」

「え。や、考えていませんから」

「さっきから、何を聞いていたんだ」

 わたしが聞かされていたのは、妹が両親に対して咄嗟に言ってしまったとんでもない内容と、その対策としてこれまた妹が勝手に練り上げたどこのドラマなのかと聞きたくなるような、わたしとヤギさんのロマンスで。

「あ、そうか」

 恋人同士に見られるように、呼び方も改めるべきだと言いたいのだ、ヤギさんは。ようやくその事に気付き、先ほどよりも近くなったヤギさんの顔をまじまじと見る。三十路にもかかわらず女子生徒から告白を受けている今のヤギさんに、良い教師なのにどこか掴み所がなくくたびれたヤギさんの姿を重ね合わせ、その違和感に溜息を吐く。

「ヤギさんも矢木沢先生もダメなら、何と呼べばいいんですか」

 今の今まで恩師だとしか思っていなかった相手である。他に呼び方など思い浮かぶはずもない。

「俺の方が麻妃なんだから、普通に考えて、お前も名前で呼ぶべきだろう」

 つまり、矢木沢惣壱の下の名前で呼べと言うのか。

「ええーっ。そんな、急に無理です」

「だから、練習しろ」

 そんな事を言われても。惣壱、惣壱、と頭の中で繰り返すが、簡単に口に出せるものではない。

「そ、そう、そう、そう」

 眉を顰め顔を顰めて、あー、うー、と唸る。

「そんなに呼び辛いか、俺の名前は」

「いや、呼び辛いとかそういう問題ではなくてですねえ」

 何だこれは、どういうプレイだ。

「麻妃」

 改まった顔で、ヤギさんがわたしの名前を呼んだ。まだああだこうだと葛藤していたわたしは、その声に反応して思わず顔を上げる。下の名前で呼ばれる事にも少し慣れた気がしていたが、そんな事はなかったのだと思い知った。

「お前が呼べる様になるまで、俺がお前の名前を呼び続けてやろうか」

「いや、遠慮しますやめてください」

 と丁重にお断りしたにもかかわらず。

「麻妃、麻妃、麻妃、麻妃、麻妃、麻妃」

 間近で繰り返される呼びかけは、心臓に悪い。これはもう拷問に近い。

「う、うあうあうあうあ」

 両手で頬を押さえ、堅く目を閉じる。そうでもしなければ、おかしくなりそうだ。

「麻妃」

 もう一度、静かにゆっくりと名を呼ばれ、のろのろと顔を上げた。ヤギさんの顔を見る目つきが上目遣いになるのは不可抗力だ。目つきが悪いと責めないで欲しい。ただでさえ、あまりの恥ずかしさに涙が出そうになっているのだから。

「そ、惣壱、さん」

 半ば自棄になりながら絞り出す様に小さな声で呼んでみると、なぜかヤギさんの体の動きが止まった。固まったと言うべきか。

「惣壱さん」

 もう一度、今度はもう少しだけ大きな声で呼ぶ。なんだか、調子が出てきた気がする。

「惣壱さん」

 よし。この調子でもう少し練習すれば、力まずに呼べるようになるかもしれない。そう思って、ひたすら「惣壱さん」を繰り返した。

「よしっ。だいぶ自信がついてきましたよ。って、どうしたんですか」

 両手に拳を作ってヤギさんを見ると、胡座を組んだ膝に両手をついて、がっくりと項垂れている。練習に没頭していて気付かなかったのだが、はて、何があったのだろうか。

「大丈夫ですか、惣壱さん」

 まだ若干の緊張は隠せないが、詰まらずに呼ぶ事が出来た。絶対に無理だと思っていたが、人間やれば出来るものだ。

「ああ、何でもない」

 何でもないと言う割に、俯けたままの顔を上げる気配がない。どうしたものかと思案していると、おもむろに大きな体が動いた。

 突然の事に驚いて、体が後ろに仰け反る。

「行くぞ。親父達が待っているだろうから」

 こちらを見もせずに立ち上がったヤギさんは、そのまま部屋から出て行こうとしている。慌てて立ち上がろうとしたが、ずっと床に座り込んでいた事が原因で右足が痺れてしまい、危うく引っ繰り返りそうになった。

「い、いたた」

 じんじんとした痛みとぴりぴりとした痺れに、中腰のまま動く事が出来ない。これは、あれだ。高校の時の全校集会で、体育館の床に座り込んだまま校長や講師達の話を聞かされた後、教室に戻る前の修羅場と同じだ。

「大丈夫か」

 そんなわたしの様子に気付いたヤギさんが、こちらに戻って来てくれる。

「あんまり大丈夫じゃない、かも」

 照れ隠しの笑いを浮かべながら、ヤギさんの顔を見上げたのだが。何があったのかどうしてそうなったのかを尋ねる事も憚られた。言葉を無くすというのは、こういう事なのか、と、身を以て体験した気分だ。

 なぜならば。手を伸ばしてわたしの腕を掴み、体ごと引き上げてくれた人のその顔が、かつて見た事がないくらい真っ赤に染まっていたのだから。

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