2-5
ヤギさんとバトンタッチをしたような形になり、妹が苦笑いを浮かべながらヤギさんのご両親が待っている座敷に戻って行った。
「先生もお姉ちゃんにちゃんと、肝心な事を話しておいてね」
などと言い残して。
「あー。すみません、なんかお見苦しい所をお見せしちゃって」
女同士の口論というものは男から見ると喧嘩でもしているように見える、と兄が言っていた事を思い出す。妹とは年が離れているため滅多に口論になる事はないのだが、ごくごく稀には先ほどのような意見の食い違いを見る事もあるのだ。それを家族の前で展開すると、もれなく全員が妹の擁護に回ってしまい、わたし一人が非難されるというお約束なのだが。
「俺は妹とはああいった事にはならないから、ある意味新鮮だったな」
胸元で腕を組んだヤギさんが、楽しげに目を細める。確かに、わたしや妹と兄の間では、まず口論になる事がない。妹が相手の場合、その妹に甘々な兄がすぐに折れてしまう。そしてわたしの場合、兄の言い分がどんなに理不尽で納得がいかなくても反論をする気さえ起きなくて、言いたいように言わせておく。そのため、傍目から見れば兄妹仲がいいと勘違いされてしまうのだ。
「先に言っておくが」
板張りの壁に凭れ掛かった姿勢で、ヤギさんが一転して真面目な顔つきになった。なぜだかどきっとして、体に緊張が走る。
「ここに麻妃(あさひ)を住まわせる案を出したのは、溝内じゃなくて俺だから」
「え。妹が無理を言ってお願いしたんじゃないんですか」
あの盛り上がり方と押しつけがましいまでの勧め方から、てっきりそうだと思い込んでしまっていた。だからこそあんなに意固地になってしまったというのに。
「溝内から相談されたのは、お前が一人暮らしをするから、物件に心当たりがないかという事だった。詳しく事情を聞いているうちに、今までの家族からのお前への待遇と、結婚を迫られているという事も知った」
なるほど。妹がヤギさんの誘導尋問に、見事に引っかかったというわけだ。
「お前は知らないだろうが、見合いの話もあるらしい」
「へ。あ、ああ、そう、ですか」
あの両親ならばやりかねない。しかしその見合いの話を当の本人であるわたしが知らないのに、なぜ妹とヤギさんが知っているのだろうか。
「お前のお母さんが親戚に相談していたのを、溝内が聞いていたらしい」
その相手との結婚を強引に推し進めてしまえば、きっとわたしは逆らったりせずに受けるだろう。母はそんな事まで言っていたらしい。
「で、溝内が慌てて止めに入ったらしいんだが」
姉思いの妹に心の中で感謝する。
「だが、の続きは何でしょう」
何だか言い辛そうにしているヤギさんに、続きを促した。
「既に決定事項だからと聞く耳を持たんご両親に、テンパった溝内がな、つい口走ったらしい」
「何を、ですか」
あまりに歯切れが悪いヤギさんの様子に、嫌な予感が頭を過ぎる。
「麻妃には、結婚を視野に入れた相手がいる」
予感的中。ショックのあまりに、思わずよろけそうになる。いくらテンパっていたって、よりにもよって何て事を口走ったのだ、妹は。大きな息を吐きながら、額に手を当てて天井を仰ぎ見た。どうりで最近両親が、つきあっている人はいないのかとか、相手はどんな職業の人なんだとか、いるんだったら同棲でも結婚でもしてしまえとか、とんでもない事を言って来るはずだ。心当たりなど全くないのだから正直にそう言っているのに、やれ照れ隠しかそれとも紹介できないような碌でもない男なのかと、ねちねちと突いて来る。しかし突かれても、いないものはいないのだから仕方がない。そうすると今度は、お前は親に隠し事をするのか、そんな娘に育てた覚えはない、と詰め寄られる日々が続いている。
「一応それで見合いの件は保留になったらしいが、麻妃が白を切っているからと、溝内に相手を教えろとうるさく言い始めた、と」
「それで、ここ数日の両親の様子に納得がいきました。悠妃(ゆうひ)ったら、何も言わないし。それにしたって、白を切るも何も」
どうやら謂われのない理由で、両親から言葉による重圧をかけられていたらしい。妹も妹だが、何よりも両親に呆れてしまう。そもそも結婚どころか付き合っている相手もいないというのに、紹介も何もあったものではない。
「一応確認しておきたいんだが、今、誰かと付き合っているという事実は?」
「ありませんよ、そんなもの」
あれば、こんなに必死に一人暮らしを模索しているはずがないのだ。
「それを聞いて、安心した」
本当にほっとしたように、それまで眉間に縦皺を刻んでいたヤギさんの表情が緩む。と同時に、先ほどとは違う嫌な予感が沸き上がって来た。
「まさか、妹が、その相手まででっち上げたって事は」
いやまさか、いくら何でもそこまでは。額に浮いた嫌な汗を手の甲で拭い、乾いた笑いを浮かべる。
「俺、という事に、なっているらしい」
思考が停止する。ヤギさんの言葉をすぐには理解できない。十秒以上の時間をかけてじわじわと動き出した脳細胞は、それでもまだ思考を拒否しようとしていた。
「ヤギさんと、誰が、ですか」
ああ、またしても予感的中。勘のいい自分に拍手を贈りたい。
「俺と麻妃が、結婚を前提に付き合っているそうだ」
どこか他人事のように遠い目をしているのは、ヤギさんもまた現実逃避をしているからなのだろうか。
「と言うわけで、話は最初に戻るんだが」
思考が鈍ったままのわたしに、大きな息を一つ吐いてから、ヤギさんがゆっくりとした口調で言う。呆然と突っ立っているわたしの頬を両手で包み込んでヤギさんの方を向かせ、今のわたしの状態を納得した上で理解させようとしているかのように、ゆっくりと。
「ここに、住まないか」
ああ、全ての話が、そこに繋がるのか。理解した途端に、泣きたくなった。そう簡単に、涙は出なかったけれど。
何も置かれていないだだっ広い部屋で、わたしは途方に暮れていた。
目の前には高校二年生の時の担任の矢木沢先生ことヤギさんがいて、真剣な眼差しでわたしの目を見つめている。その両手がわたしの頬に添えられているため、とんでもなく近い距離にいるわけだが。
ヤギさんの手を払い除けるべきかどうかを考えるよりも、もっと大事な事がある。あるのだが、いかんせん、頬に触れる手の温もりが気になって、まともな思考ができないのだ。
わたしとヤギさんが結婚を前提としたおつきあいをしている恋人同士だなんて、そんな荒唐無稽な事を言い出した妹を、思わず恨みたくなる。しかしそれを鵜呑みにして、わたしから言葉を引き出そうと、親でなければセクハラとパワハラで訴えているだろう言葉の暴力を投げつけてくる両親も、もう少し冷静になってくれないものだろうか。
高校卒業以来ヤギさんと会ったのは、後にも先にも妹の卒業式だけだ。その後も約一ヶ月半、今日まで一度も顔を合わせていなかった。わたしの知らない所で、妹とヤギさんが何度も連絡を取り合っていた事なんて、知る由もない。
「妹が両親に咄嗟に言った言葉は、今さらなかった事に出来ません。だから三人で、嘘が嘘だとばれないように、口裏を合わせないと」
ぼそりと、わたしの口から言葉が漏れ出た。
「あ、ああ、そうだな」
ヤギさんの手がわたしの頬からようやく離れ、ほっと息を吐く。
「お前なあ」
ヤギさんが何かを言いかけて、けれど言い淀んでから口を閉じてしまった。途中でやめられると、余計に気になる。
「とりあえず、溝内、悠妃の案だが」
壁に凭れ掛かったまま、ヤギさんがゆっくりと口を開いた。