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2-3

 ヤギさんのご両親に迎えられ通された座敷には、妹さんの物だと思われる結納品一式が、毛氈の上に飾られていた。物珍しさに妹が無遠慮に見ているそれらには、指輪はもちろん毛皮のコートや車の鍵まであった。そしてその後ろにでんと控えているのは、婚礼家具と思しき箪笥等々。とは言えそこは今式なのかはたまた新居には余り必要がないのだろう、昔のように大きな和箪笥や洋服箪笥のセットがあるわけではなく、実用的だと思える整理箪笥とオーディオボードのセットと鏡台くらいだが。

「今時こんな格式張った事をしなくてもいいんじゃないかと思ったんだけど、あちらのご両親がきちんとしたいとおっしゃったものだから」

 お茶を出してくれながら、ヤギさんのお母さんが少し困ったような笑顔で教えてくれる。一人娘をお嫁に出す寂しさと嬉しさがない交ぜになった、何とも言えない表情だ。ヤギさんの家は立派なものだと思っていたが、ご両親の考えは今風のようだ。しかし旧来の風習に拘っている事から、妹さんの嫁ぎ先はもしかすると旧家か何かかもしれないなと思った。

 わたしが六年前にも一度こちらにお邪魔させたいただいた事があると伝えると、

「ああ、あの時の生徒さんだったの」

と懐かしそうに喜んでくれた。どうやら自宅にまで訪ねて来たのは後にも先にも私たちだけだったようで、だから特に印象に残っているのだそうだ。どのように訪問の交渉をしたのかは分からないが、そう言えばあの友人には、他にも科学科教師だとか社会科教師のお宅に引っ張って行かれたものだ。行動派と言うべきか人懐こいと言うべきか。彼女がいなければ、人見知りが激しいわたしが教師のお宅にお邪魔させていただく機会など、一生無かったに違いない。

「ちょっと待ってちょうだいね、確かここにあったはずなんだけど」

 そう言ってヤギさんのお母さんは、ごそごそと飾り棚の中を探し始めた。

「ああ、やっぱりあったわ。はい、これ」

 そう言って差し出されたのは、一枚の写真。そこには六年前のわたしと友人達、そしてヤギさんとご両親の姿が写っていた。撮ってくれたのがお祖父さんだったので、一緒に写っていないのが残念だ。

「わあ、お姉ちゃん、わっかーい。てか、先生、べつじーん。なに、これー」

 早速飛びついた悠妃(ゆうひ)が、歓声を上げる。この家にお邪魔する時に、ご両親には、この春まで妹がヤギさんの教え子だった事を伝えてあった。とは言えあまりお行儀がよろしくないその様子に、周囲に聞こえないくらいの小さな声で妹を諫める。

「いいのよ、気にしないでちょうだい。若い子は元気が一番よ。それに、その頃の惣壱(そういち)は、ほんっとうにむさ苦しかったものね」

 大らかなお母さんで良かったと、冷や汗をかきながら心の中で感謝した。そしてお母さんにむさ苦しかったと言われたヤギさんは、面白くなさそうにそっぽを向いている。その姿がなんだか教師らしくなくて、ヤギさんもごく普通の男の人だったんだなと、吹き出しそうになる笑いを必死で飲み込んだ。

「どれがお姉さんなのかしら」

 妹の隣に回り込んだヤギさんのお母さんが、その手元を覗き込む。

「これこれ、眼鏡をかけているこれです」

 真っ黒で真っ直ぐな髪を肩で切り揃え、チタンフレームの眼鏡をかけている姿は、自分で見ても野暮ったく感じる。服装も、キャミソールに薄手の七部丈のカーデを羽織っただけで、ボトムスに至ってはジーンズという出で立ちだ。少なくとも担任教師のお宅を訪問するような格好ではない。

「まああ。随分変わったわね。真面目そうないい子だと思っていたけれど、今はすっかりきれいになっちゃったのねえ」

「え。いえ、あの」

 きれいだとかそういった形容詞を言われた事など皆無に近いわたしは、お世辞だと分かっていても、みっともないくらいに狼狽えてしまった。今さら過去は変えようもないが、今のわたしもさほど服装に気を配っているわけではない。殊に今日など、まさか姉妹揃って恩師のお宅にお邪魔するなど、思ってもいなかったのだ。不動産屋回りをするだけのつもりで家を出ていたのだから、ごくごく普通の普段着しか着ていない。

 妹はと言うと、どうやらヤギさんと連絡を取った時にここに来る事が決まっていたのか、随分可愛らしい服装をしている。もっとも妹はわたしと違い、家の中にいてもそれなりに服装に気を遣っているのだけれど。

「この写真だけじゃ、教えて貰うまで同一人物だとは気がつかないわね」

 写真を眺めているヤギさんのお母さんがしみじみと漏らした呟きには、きっと深い意味などなかったのではないかと思う。だが、はっきりとわたしの頭に引っかかったのは確かだ。

「そう言えばヤギさ、矢木沢先生、妹の卒業式で会った時、すぐにわたしが誰なのか気付いていましたよね」

 外見が変わったヤギさんに、そうと教えられるまでわたしは気付けずにいた。けれどヤギさんは、一目でわたしの事を溝内と呼んでいたではないか。ヤギさんのお母さんの言葉を信じるならば、わたしの外見もかなり変わっているはずなのに。

 胸に沸き起こったその疑問は、呆気ないほど簡単に解けた。

「そりゃあわたしが、最近のお姉ちゃんの写真を見せていたんだから、分かるよ」

 ねえ、と悠妃に同意を求められたヤギさんは、

「まあな」

と短く答えて黙り込んだ。

「だって、二年の時に矢木沢先生が転任して来てからの最初の授業で、わたしが溝内麻妃(あさひ)の妹だって気がついたんだもん。せっかくだから、かつての教え子の近況を教えてあげていたんだよ」

 なんと、一番最新の写真は、今年の初詣の時のものだったらしい。なるほどそれなら、分からない方がおかしいだろう。本人の了承も得ずに何を勝手な事をしているのかと思いつつも、相手がヤギさんなら悪用されたりはしないだろうと、肩の力を抜いた。

「名前が一文字違いだしな」

 確かに字面を眺めれば、わたし達が他人だとは思わないかもしれない。それにしても。

「でも先生、六年も前に担任を持っただけの生徒のフルネームなんて、良く覚えていましたね。それも漢字で」

 高校時代のわたしと言えば、平凡を地で行く生徒の一人だったはずだ。それとも、過去に受け持った事のある生徒全員の顔と名前を覚えているとでも言うのだろうか。もしそうだとしたら、とんでもない記憶力だ。

「たまに卒業アルバムを眺めている事があるからな」

 かつての教え子達が今どんな道に進んでいるのか、当時の姿を思い出しながら感慨に耽る事があるのだと、少し照れているのか視線を逸らしたヤギさんが白状した。

「うわ。見かけによらず、教師の鑑なんだね、先生」

「見かけによらずは余計だ」

 妹の言葉にじろりと睨みを利かせたヤギさんの目元が、少しだけ赤くなっている。照れているのか。照れているんだろう。そう思ったら、訳も分からずおかしさが込み上げて来た。

「あなた達から見て、惣壱はどう? ちゃんと先生らしくしているのかしら」

 とっくに成人したそれも既に三十路の息子でも、やはり親としては周囲からの評価が気になるところなのだろう。ヤギさんのお母さんが座敷机の上に身を乗り出して、わたしと妹の顔を交互に見ていた。そしてその瞳は、期待に輝いている。

「そうですね。生徒の事を理解してくれる、とてもいい先生だと思います」

「話しやすくて授業も分かりやすいし、わたしは好きだなあ」

 わたしと妹の言葉に、ヤギさんのお母さんはとても嬉しそうに目を細めた。その様子だけでも、ヤギさんがお母さん達から大事にされてきたのだと分かる。だからこそ、今の矢木沢先生があるのだろう。

「お前ら、そういう事は本人がいない場所で言え」

 苦々しげに歪んだ表情は、けれどきっと間違いなく照れ隠しだ。

「あら。わたしは嬉しいわよ、惣壱がちゃんとみんなから好かれるいい先生だって言って貰えて」

「だから、もういいって」

 眉尻を下げて情けなさそうな顔をし、今にも頭を抱えてしまいそうな勢いのヤギさんが、なんだか気の毒に見えてきた。

「楽しそうな所すまないが、お邪魔していいかな」

 開け放たれたままの襖越しにヤギさんのお父さんが現れると、お父さんの分のお茶を淹れるためにお母さんが立ち上がる。

「コーヒーがいいな」

 すれ違う時にそう言ったお父さんに、お母さんが笑顔で頷き返した。ただそれだけの事からも、夫婦仲が良好な事が窺い知れる。

「で、どこまで話が進んだのかな」

「たった今まで昔話に花が咲いていただけで、本題に入っていない」

 ヤギさんに向かって説明を求めるお父さんに、渋面を作ってヤギさんが答えた。

「何をもたもたしていたんだ。と言いたいところだが、どうせ母さんが原因だろうな」

「まあな」

 あから様な溜息は多分、苦手な話題が変わったからなのだろう。

「ああだこうだ言うよりも、実際に見て貰ってから話を進めてはどうだ」

 なぜかそこでヤギさんのお父さんが、わたしの顔を見た。

「わたしも見せて貰っていいですか」

 妹が嬉しそうに立ち上がるとヤギさんもお父さんもそれに倣う。訳が分からず三人の顔を見比べていたわたしは、ヤギさんに腕を引っ張り上げられて立たされた。

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