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2-2

 ネットと週末を利用して不動産屋巡りをし始めたある日、わたしの携帯電話に、見慣れない番号からの着信があった。決して多いとは言えない知り合いの番号は全て登録してあるから、相手の名前が表示されるはずだ。けれど今ディスプレイには、十一桁の数字の羅列が並んでいる。

「はい」

 訝しみながらも受信ボタンを押し、名乗らずに電話に出た。

「もしもし、麻妃か」

 どうやら間違い電話と言うわけではないらしい。

「どちら様ですか」

 警戒心から声が固くなってしまうのは、仕方がないところだ。

「矢木沢だ」

「は。え。ヤギさんっ?」

 思いがけない名前に、声が引っ繰り返ってしまった。なぜヤギさんが、教えもしていないわたしの携帯電話の番号を知っているのだろう。

 その疑問はすぐに解けた。ヤギさん自身の言葉で。

「番号は、お前の妹から教えて貰った」

 つい先月まで妹の担任だったのだから、お互いの連絡先は知っていたのかもしれない。

「今日、時間はあるか」

「あると言えばありますけれど、ないと言えばないんですが」

 時間があるから不動産屋を回っているのだが、早々に住む場所を見つけてしまいたい。そう言った意味では、時間がない。

「良く分からんが、今どこだ」

 わたしの居場所なんか尋ねてどうしようと言うのか。そう思いながらも、今いる近くの駅名を答えた。

「そこなら、十分ほどで着く。ロータリーで待っていろ」

 一瞬ヤギさんの言葉の意味を理解し損ねてしまい、思わず耳から離した携帯電話を見つめてしまう。

「え。着くって、ここに? 待っていろって、ヤギさん、来るんですか」

「そうだ。車だから、切るぞ」

 慌てて確認しようと聞き返したわたしに、けれどヤギさんはかけてきた時と同じように、唐突に電話を切ってしまった。何が何だか分からずに呆然とするわたしの耳に、ツーツーと機械音だけが届く。

「ヤギさんが、なんで」

 思わず呟いたわたしの言葉に答えてくれる人は、誰もいなかった。




 半信半疑のままとりあえず言われるままに駅前で待っていると、見覚えのない黒のワンボックスカーが、わたしの前を通り過ぎて停まった。

「麻妃」

 ドアが開いた運転席から、今度は見覚えのある長身が現れ、こいこいと手招きをしている。一瞬の躊躇いの後、他でもないヤギさんなのだからと、小走りに駆け寄った。

「どうしたんですか、ヤギさん」

「だから、ヤギさんはやめろと。まあ、いいからとりあえず乗れ」

 そう言ってヤギさんは、さっさと運転席に乗り込んでドアを閉めてしまう。どうしたものかと考えていると、手を伸ばしたヤギさんが、中からドアを開けてくれた。

「ここ、駐停車禁止なんだよ」

 すぐそばに見えるタクシーの列の邪魔になりそうな事に気がついて、慌てて車に乗り込んだ。

「シートベルト、忘れるなよ」

 言うなり車を発進させようとするものだから、慌ててシートベルトを止める羽目になる。

「久しぶりだな」

 わたしがシートベルトを止めるのを待っていたかのようなタイミングで、ヤギさんが言った。久しぶりと言っても妹の卒業式以来だから、ほんの一ヶ月あまりの事だ。その前の五年間を思えば、つい昨日の事のように感じる。

「はあ」

 突然の電話から一連の出来事で、ヤギさんの意図を計りかねたわたしは、歯切れの悪い言葉しか返す事ができない。

「それで、わざわざどうしたんですか」

 とりあえず目的を尋ねてみても、ヤギさんは何も言わない。

「お姉ちゃんが今置かれている状況を先生に話したら、何とかしてくれるって言うから、引っ張って来ちゃった」

 突然耳のすぐそばから話しかけられ、想定外の事に驚嘆のあまり飛び上がりそうになった。わたしが乗り込む前からいたらしいが、状況について行けずいっぱいいっぱいだったため、気付かなかったのだ。

「な、な、な。ゆ、うひいっ? なんであんたが、ここに」

「だってお父さんもお母さんも、お姉ちゃんの事、追い詰めすぎるんだもん」

 だからって、そこでなぜヤギさんに助けを求めたのか、妹よ。

「困った事があったらいつでも相談して来いって、卒業式の日に先生が言ったから」

 そりゃまあ、担任ならそのくらいの事は言うだろう。卒業してもお前達はいつまでも俺の生徒だ、なんていうのも定番中の定番だ。

「だからって、何もヤギさんに言わなくても」

 溜息を吐きながら、シートにぐたりと背を預けた。

「わたしとお姉ちゃんの共通の知り合いなんて、他にいないじゃん。それに先生、お姉ちゃんの事気にしてくれていたみたいだし」

 ねえ、なんて気安く同意を求める妹に、ヤギさんは

「まあな」

なんて答えている。

「で、妹は、何をどこまで話したんでしょうか」

「さっさと嫁に行けとご両親から迫られているって辺りは聞いたな」

 確かに今の状況そのものだけれど、人の口から聞かされると身も蓋もない。もう少し遠回しに話せなかったものだろうか。

「うちの中でお姉ちゃんが、ずっとどんな立場にいたのかも、簡単にだけど話しておいたから」

「げ」

 家庭内の事情なんて、人に話すべき事ではない。外聞のいい内容ならばともかく、受け取り方如何では両親の人間性を疑われかねないではないか。

「あの人達の人間性なんて、十八年間生きてきてよーっく分かってるもん。わたしと兄貴の事は可愛がってくれたけど、お姉ちゃんの事はほったらかしだったじゃない。同じ親から生まれた兄妹で育て方に差を付けるなんて、ほんっとうに最低」

 甘やかされて育った妹は、素直な分、言葉を選ぶ事を知らない。もちろん友達や他人相手ならばそれなりに気を付けているようだが、家族に対しては遠慮も容赦もないのだ。せっかく顔は可愛いのにと言いながら、それでも両親は強く注意する事さえしなかったが。

「お弁当だって、お姉ちゃんは毎日自分で作らされて、そうじゃない日は食堂かパンだったでしょう。お母さん、専業主婦なのに」

 そう。わたしが小学生の間は母が兄の弁当を作っていたのだが、中学に上がってからは兄の分と一緒にわたしが作り、妹が中学に上がってからの一年間は妹の分も一緒にやはりわたしが作っていた。短大に通い始めて学食を使い始めると、妹の分だけ母が作るようにはなったのだが。お陰で普通の料理はともかく、弁当だけは人並みに作る事ができるようになった。

「でも、材料代は貰っていたから」

「そんなの、親なんだから当たり前じゃん。てか、お姉ちゃん、お母さんの事甘やかしすぎ。卒業式の時だって、お姉ちゃん、決算の準備で忙しいから休めないって言ってたのに、お母さんが勝手に会社に電話しちゃったし。ああいう場合、誰も来ないかお父さんが休むべきでしょ。そりゃわたしは、お姉ちゃんが来てくれて嬉しかったけど」

 声を荒げて苦言を並べる妹に、今さらじゃない、という言葉を飲み込んで苦笑を返す。

 こうして改めて言われると、確かにひどいかもしれない。でも自分でお弁当を作っていたのは何もわたしだけではなく、クラスの中の何人かはいた。もっとも、そのほとんどは共働きか母子父子家庭で、必要に迫られての事だったようだが。

「済んだ事や昔の事を今言っても、仕方がないじゃない。気にしないのが一番よ」

 気にしない、気にしない。大丈夫、大丈夫。幼い頃押し入れに隠れて泣きながら、何度も何度も繰り返し自分に言い聞かせた呪文の言葉。

「もうっ。なんでお姉ちゃんはいつもそうなのよっ」

 妹が癇癪を起こしたかのように、シートの背を突き上げてきた。もしかして蹴り上げたのかもしれない。他人様の車なのに、何という事をするのだろう。

「なんで、って言われても」

 もうとっくに諦めているからなどと言ったところで、妹は納得しないだろう。妹がわたしを思ってくれているのは痛いほど伝わって来るけれど、正直で真っ直ぐすぎる想いは、痛みを伴ってわたしに突き刺さる。両親と兄を責めながら、何も言い返さないわたしをも容赦なく責めている事に気付いているのだろうか。

「取り込み中悪いが、着いたぞ」

 それまで黙っていたヤギさんが、目的地に着いた事を教えてくれた。

 促されるままに車を降りて、目の前の景色に唖然とする。

「ここって」

 六年前に一度だけ訪れた事のある大きな木造の家が、その年月の分だけ色彩を変えた姿で佇んでいた。

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