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「今日は夕方からクラスのお別れパーティーがあるから、わたしは一旦家に帰るね」
妹が手早く荷物を纏め、友達と一緒に帰り支度を済ませて言った。そう言えば数日前、そんな事を言って、母から会費を貰っていた事を思い出す。
そしてふと気が付くと、いつの間にやら、教室内の生徒数が一気に減っていた。
「あー。お母さんのお昼を作らなくちゃいけないから、わたしも帰るわ」
一昨日三十九度台まで上がった母の熱は、医者で処方された薬が効いたお陰か、今朝は平熱まで下がっていた。とは言え熱のせいで体力が落ちてまだ辛そうに見えたから、放っておく訳にはいかない。
「さっきメールしたら、冷凍うどんがあるから、自分で作って食べるって返事が来たよ」
いつの間にメールなんて送っていたのか、妹が指でブイサインを作った。
「わたしはしょうちゃん達とマックに寄って帰るから、お姉ちゃんはゆっくりして来ても大丈夫だからね」
そう言って、ひらひらと手を振る。
「じゃあね、先生。また後で」
「気を付けて帰れよ」
ヤギさんの声にはーいと返しながら、お友達と一緒に妹の姿が廊下に消えて行った。
ほぼ二人きりの状態で沈黙しているのも変なので、必死に話題を探してみる。
「ご家族の皆さんは、お元気ですか」
そして出てきた台詞がこれなのだが、さすがに自分でもどうかと思った。だが他に思いつかないのだから仕方がないと開き直る事にする。
実は高校二年生の時に一度だけ、ヤギさんの自宅にお邪魔させていただいた事があった。発起人は仲が良かった友人の一人で、さっさとヤギさんに訪問を交渉し、わたしには事後報告での参加要請が回って来たのだ。
ヤギさんの自宅は、わたしの家からだと電車を二回乗り換えなければならない場所にあった。最寄り駅からは徒歩で十分程度だったが、片道全て合わせると、一時間近くかかってしまう。それでも友人達と待ち合わせて自力で辿り着いた先には、木材の色も眩しいくらいに真新しい立派な日本建築の家が待っていた。ヤギさんとご両親と妹さんと、さらにはお祖父さんとの合計五人で住むには広すぎるくらいじゃないだろうかと、余計なお世話な事を考えものだ。
あの日の訪問の本命だった妹さんには、残念ながら外出中で会えなかった。その代わりというわけではないが、ご両親とお祖父さんが温かく出迎えてくれた。
「ああ。祖父さんは死んだが、親父もお袋も、妹も元気だ」
どうやらまずい事に触れてしまったらしい。後悔先に立たずとはまさにこの事だろうか。
「え。あ、と。ご愁傷様、でした」
「もう三年も前の事だ。お前は知らなかったんだから、気にするな」
そうは言われても、一度でも会った事のある人が亡くなっていたのだ。わたしの脳裏を、当時のお祖父さんの姿が過ぎる。生まれた時から一つ屋根の下で暮らしていたご家族ならば、たった三年で気持ちを簡単に切り替える事なんてできないはずだ。
「そう言えば、妹の嫁入りが決まったんだ」
それを察してくれたのか、ヤギさんが話題を変えた。
「それは、おめでとうございます。でも、寂しくなりますね」
シスコンとしては、身を切るような辛さか断腸の思いといったところかもしれない。
「あいつももういい歳だしな。親父とお袋は、今度は俺に嫁が来るのを楽しみにするんだと言っていたが」
ヤギさんも、既に三十三歳。シスコンの鑑もそろそろ年貢の納め時というわけだろうが、ちゃんと妹離れする事が出来たのだろうか。ついつい頼まれもしないのにそんな心配をしてしまう。
「矢木沢先生、ちょっといいですか」
まるで見計らったかのようなタイミングで、一人の女子生徒が教室を覗き込んでいた。どうやら先ほどの会話にあった、ヤギさんに憧れている女子生徒の一人らしい。
「あ、ほら。早速嫁候補が一人。って、痛いっ」
またしても頭を叩かれてしまった。絶対に百パーセントあり得ないという話ではないだろうに。もしも照れ隠しだとしたら、ヤギさんらしくないと言うか似合わないと言うか。
「先生。ずっと、好きでした。憧れていました」
開けっ放しの引き戸越しに、女子生徒の告白が聞こえて来る。それに対するヤギさんの返事までは聞こえなかったけれど、わたしは一体こんな場所で何をしているんだと、唐突に疑問が沸いた。
母校でもない高校の教室で、妹はとっくに帰ったのに、いつまでも居座っていて。あまつさえ、見知らぬ女子生徒の告白シーンなんてものまで見てしまった。彼女はきっと、ヤギさんと二人きりの場所で告白したかったに違いない。赤の他人でさらにこの学校とは何の関係もないわたしに聞かれるなんて、さぞや心外だろうに。
ヤギさんが何と返事をしたのかまでは聞こえなかったけれど、恐らく女子生徒のものだろう、ぱたぱたと走り去って行く足音が聞こえた。
ヤギさんがこちらに戻って来るのを見て、ぼんやりと考えに耽る。卒業式の片付けやこの教室の片付けもしなければならないだろうし、職員室で慰労会が開かれるかもしれない。そうでなくとも夕方にはお別れ会とやらが待っているのだから、いつまでもヤギさんをここに引き留めておくのは申し訳ない。
「やっぱり、母が心配だから帰ります」
母の事を口実に、そう告げた。
「そうか」
ヤギさんの表情が少しだけ残念そうに見えるのは、きっと気のせいだろう。
「はい。妹がお世話になりました」
ぺこりと頭を下げると、ヤギさんも同じように頭を下げ返して来た。
「今日は溝内の保護者代理だったな。こちらこそ、三年間学校教育へのご理解とご協力をいただき、ありがとうございました」
姿形に変化があっても、きちんと頭を下げるヤギさんはやっぱりヤギさんなんだなあと感心する。
「たまには顔を見せろよ」
そうは言われても、母校でもないこの学校に、何の理由もなく来る事など出来ない。今日のように公明正大な口実があるのならばともかく。
「それはちょっと無理ですよ。じゃ」
相変わらず開け放たれたままの引き戸を潜る瞬間だった。
「ああ、そうだ。お前のれん」
ヤギさんからかけられた声に振り向くのとほぼ同時に、
「矢木沢先生」
と二人目の嫁候補になるかもしれない女子生徒の声が重なった。
ヤギさんが何を言いかけたのかは分からないけれど、踵を返してそのまま立ち止まらずに、女子生徒とすれ違う。
足早に階段を下りて正面玄関から外に出ると、春の柔らかい日差しが目に眩しかった。